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週刊READING LIFE Vol.39

もう手放せない、この深底フライパン《 週刊READING LIFE Vol.39「IN MY ROOM〜私の部屋の必需品〜」》


記事:なつき(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
ご飯を炊くのに、みんな何を使ってるだろう? 多分、炊飯器と考える人が多いんじゃないかと思う。私もそう考えて、一人暮らしを始めた時は炊飯器を用意した。お米を洗って水を張って炊飯器にセットして、スイッチ一つで後は待つだけ。それだけでホカホカご飯がいただける。私はホカホカご飯が大好きだ。炊きあがったばかりのものをかき混ぜる時に、たまらず掬って食べてしまうのが常だ。すぐに食卓に並べるのに待ちきれずに食べるのが、至福のひと時だ。そんな私がいま、ご飯を炊くのに愛して止まない調理器具がある。それはシンプルな深底フライパンだ。あることをきっかけにこれ以外ではご飯を炊かなくなった。
 

 
「30歳になったら一人暮らしをしてね」と親から言われていた。いい加減独立しなさいと言うことだろう。20代の後半から言われ始めた。親は20代後半で結婚して私を産んだ。つまりはその時には既に伴侶を得ていて自分の家庭を持っていた、独立していた、ということだ。私は結婚相手も見つからず、会社と家の行き来で何年も過ぎていた。世間はその頃、30歳で結婚していなくてもいいよね、という空気が流れ始めた時代だった。まだまだ30歳越えたら行き遅れというものがみんなの心にあった時代だ。30歳、親は一つの区切りと見ていたのだろう。
 
そして30歳になった。宣言通り「一人暮らししなさい」と何度も言われるようになった。そんなに外に出したいですかと思うほどに。重い腰を上げて会社から通いやすそうな駅をピックアップして賃貸物件を探す。気に入った家を見つけ契約する。今までこういった大きな契約を一人でしたことが無くとても緊張した。この緊張のおかげで、自分で考えてやっていかなければ、という自覚が芽生えたように思う。
 
一人暮らしを始めるにあたって生活必需品は何だろう。近くに電気屋があったので、一通り見て回る。白物家電である、冷蔵庫と洗濯機は必要だ。工場から運ぶのと今は注文が多く混んでいるので、2週間くらいかかるという。2週間冷蔵庫も洗濯機もない生活……。こういう時要領のいい人なら、引っ越す前に手配しておくのだろう。私はその考えに及びもしなかった。引っ越したのは7月、夏の暑い日だった。冷房は備え付けだったので、何とか冷蔵庫が無くても2週間頑張れた。冷蔵庫と洗濯機が来た日は大喜びしたのを覚えている。やっと洗濯ができると思ったのも覚えている。
 
実家にいた時の洗濯はほぼ親任せだった。洗濯物はこんなにすぐに溜まるのか。毎日清潔なものが当たり前の様にあって気づけなかった。一人暮らしをすると親のありがたみがわかるとよく聞くけど本当にその通りだ。そしてありがたみがわかると言えば食事。これも会社から帰ると食卓に並ぶのが当たり前だった。たまに作ったりもするけど自分の気が向いたらといった気まぐれなものだった。でもこれからは毎日の食事は自分で用意しないといけない。
 

 
引っ越し先のガスコンロは一口。申し訳程度の狭い調理台に小さなシンク。部屋の構造としては玄関入ってすぐの場所にある。そして背中合わせに浴室と洗濯機置き場とお手洗いが並んでいる作りだった。玄関からそれらが廊下の様に続いておりその奥にドアを隔てて部屋があるワンルームタイプだった。調理をしようにも物を置く場所が殆どない。引っ越し前の物が何もない時には気づけなかった部分だった。一口コンロだから、置ける鍋も一つ。母に持たされた鍋やフライパンが何個かあった。でも家族4人分の食事を用意できる大き目サイズ。一人暮らし用のサイズではない。コンロに置いてみると、はみ出て調理台が隠れてしまう。さて困った。調理をしながら鍋が引っかかるのは、危ないしちょっとしたストレスだ。自転車で行ける距離にドン・キホーテがあったので見に行くことにした。
 
大小のフライパンに鍋。こんなにサイズがあるのか、深さがあるものがあるのかと目を見張る充実っぷりだった。そんな中で私の目に留まったのは、樹脂加工された大中小のフライパンが3つ重ねられているものだった。ボールのように3つ重なっている。狭い場所でもスマートに片付く、持ち手が取れるので冷蔵庫にも綺麗に収まる、といった謳い文句だったと思う。今までこんなフライパンは見たことが無かった。大きいものは平たいいわゆるフライパンのフォルムで、直径28㎝。逆に小さいものは炊飯窯を思わせる深底になっていて、直径は20㎝だけど、深さが10㎝もある。深底鍋は見たことあるけど、こんなフライパンは初めて見る。作ったものを冷蔵庫にしまえるのも助かる。調理したものをフライパンごと冷蔵庫にしまっておける。これは一人暮らしにとっては大きい。仕事に行っている間、鍋の中に調理済みのものを置いておくと傷むのが心配。タッパーに移し替えて冷蔵庫にしまっておけばいいのだが、このひと手間は結構ボディブローのようにじわじわ効いてきて、調理が面倒になってくる。だから、そのまましまえるのは私にとってとてもありがたい。即購入した。
 
大中小のどれが使いやすいか色々作って使ってみた。大は普通サイズのフライパンと変わらないのでやはりこの調理台には不向きだった。中はパンケーキを焼いたりするのにはいいが、野菜炒めなど形があるものを混ぜるには小さすぎた。そして小、これがとても使いやすかった。フライパンと鍋の中間みたいな形なので、野菜を炒めつつ混ぜてもこぼれない、深底なのでスープも作れる。もちろん煮物もできる。重宝したのは、牛筋煮込み。牛肉は高いけど牛筋は安い。それを大量に買ってきて始めに焼く、一口大にカットする、そして煮込む。この工程が一つのフライパンでできる。樹脂加工されているおかげで、肉が鍋肌に貼り付かず、いい塩梅の焼き色がつく。牛肉はかなり筋が硬いけど、煮込む前に焼くと簡単にカットできる。この時点で、ぷるっぷるともっちりが同時に味わえるものができる。更にこれを煮込むと、とろっとろの牛筋煮こみが完成する。書いてて食べたくなった、今日の夕飯は牛筋煮込みにしよう。
 
ちょっと実験してみたくなった。これでご飯が炊けないだろうか。最初に見た時から炊飯窯に見えていたし、もしかしたら。台所の調理台が狭いので、実家から持ってきた炊飯器は床置きになってしまった。換気扇から遠く、湯気で部屋に湿気がこもるのが気になって、ほとんど使わなくなっていた。この深底フライパンで炊けるなら、コンロの上、換気扇の傍だ。早速お米を用意して洗って水を張る。蓋をして30分程浸水し火をつける。火加減がわからないので、とりあえず中火にかける。
 
このフライパンには透明なガラスの蓋もついていた。透明だから中の様子が見える。水が温まってお米が踊りだす。面白い。通常は見られない炊飯の様子が見られる。やがて、泡立って、泡が蓋の淵までブクブクと広がった。お米のでんぷんから粘りが出たからだろうか。粘りのある大きな泡がいくつももこもこと膨らむ。このままでは吹きこぼれる。あわてて蓋を取り、泡が落ち着いたところで蓋をする。赤子泣いても蓋とるなと言われるが、思わず蓋を取ってしまった。一度蓋をしても、何度も粘り気のある泡が蓋の淵までくる。その度に蓋を開ける。だんだんとお米からご飯に変わることがわかるいい匂いが鼻をくすぐる。結局3、4回は蓋を開けただろうか。次第にお米が水を吸い水気が無くなってきた。泡も小さくなる。どこで火を止めるべきか、考えているうちにパチパチと音がして、焦げた匂いがし始めた。火を止める。少し焦がしてしまった、水も足りなかったのかパサついたご飯になった。それでもご飯が炊けることが分かった。
 
何回かこの深底フライパンでごはんを炊いてみた。だんだん要領が掴めてきた。水加減でふかふかのご飯にもなるし、粒が立った固めのご飯も炊けるようになった。更には好みでおこげも作れる。思い切って炊飯器を捨てた。同じお米でもちょっとした加減で色んなご飯を楽しめるのが嬉しかった。相変わらず炊く時にはもこもこの泡が出るので、何度も蓋を開ける。鍋で炊くと、そういった手間、火加減の調整が必要になる。それを一手に引き受けてくれる炊飯器はやっぱり万能なんだと思う。それでも私は鍋で炊く方法を選んだ。透明のガラスの蓋があることが決定打だった。火をつけてお米からご飯に変わる瞬間など、一瞬一瞬が自分の眼で見られるのだ。モノづくりの工程を見るのが好きな私にとって、この工程を観察できるのは萌えに通ずる。一生懸命、水を吸うお米、粘りを帯びた泡、淵ぎりぎりまで泡立たせて吹きこぼれる瞬間に蓋を開けるスリル、これらが組み合わさって一つのものが出来上がるのを見るのはたまらない。それがこのフライパン、透明なガラスの蓋から覗けることで叶う。愛おしさと興奮を覚える。
 
それでも長くは続かなかった。コンロは火口が一つしかない。ご飯を炊くと他の調理ができない。浸水に30分、炊くのに20分、蒸らしに15分。火口がもう一つあればこの時間は苦にならないけど、仕事から疲れて帰ってきて順番に調理する気力はなかった。ご飯を炊くのは諦め、深底鍋は炒めたり、鶏を煮込んだスープや煮物が主流になった。そんな一人暮らしが6年続いた。その間に今の夫と出会い結婚した。
 
今度は二人暮らしだ。コンロの火口は三つに増えた。二つでも嬉しいのに三つになった。あの深底フライパンでご飯が炊ける! 三口のうち一つは炊飯専用になった。常にそのコンロには深底フライパンが鎮座し、炊飯のスタンバイがされている。ガラスの蓋越しに見る炊飯風景は今も私を楽しませる。常にご飯が炊けるようになったことで、昆布を入れて人参、油揚げ、鶏肉で炊き込みご飯を作ったり、大豆を炊き込んだり、色んなバリエーションでご飯を炊けるようになった。あの時に出会った深底フライパンは私に料理の楽しさを教えてくれ、手放せないものになった。
 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
なつき(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)

東京都在住。2018年2月から天狼院のライティング・ゼミに通い始める。更にプロフェッショナル・ゼミを経てライターズ倶楽部に参加。書いた記事への「元気になった」「興味を持った」という声が嬉しくて書き続けている。

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2019-07-01 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.39

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