週刊READING LIFE Vol.40

食べられなかったちとせあめ《 週刊READING LIFE Vol.40「本当のコミュニケーション能力とは?」》


記事:丸山ゆり(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「これ、めっちゃ大事やから、取っておくねん!」
 
子どものころから、私の考えはそうだった。
1960年代に生まれた私。
当時、モノを買ってもらえる時といったら、誕生日とクリスマスくらいだった。
 
洋服だって、従姉妹からのお下がりが当たり前。
わが家では、兄に続いて生まれた、初めての女の子だった私。
それでも、当時はそうそうモノを買うという習慣はなかったようだ。
 
忘れもしない、ある出来事があった。
 
いつもは兄の陰に隠れ、4つ離れた妹に周りの大人の興味を奪われていた私も、七五三の日には主役になれた。
 
きれいな着物を着せてもらい、髪にはかわいいお花のお飾りをつけてもらって。
歩くたびに揺れるそれが、うれしくてしかたなかった。
氏神様にお参りに行って、ご祈祷も終わったときに、母がちとせあめを買ってくれた。
 
なんてこともない、神社の境内の露店で売られている、お決まりの飴なのだけれど、たまに買ってもらえるこんなご褒美はとてもうれしかった。
子どもの背丈にしては、だらりと長いその飴の袋。
ひきずらないように、大事に持って帰ったことを今も覚えている。
 
家に帰ると、私はそのちとせあめの袋を、自分の部屋のベッドのそばに飾った。
そう、飾ったのだ。
うれしくて、うれしくて、仕方がないのだけれど、とてもじゃないけれど食べるなんてことはしないのだ。
 
だって、もったいないもん。
だって、今度いつ買ってもらえるかわからないもん。
滅多にモノを与えてもらえなかった当時、私はいつもモノは取っておくことがクセになっていた。
 
そう、「めっちゃ大事やから、取っておくねん!」
 
それから、数か月が経ったあるとき、私はすごくショックを受けたのだ。
ずっと飾って、とってあった、私のちとせあめ。
ふと、袋の中をのぞいてみると……。
なんと、飴にカビがはえていたのだ。
 
そりゃあ、そうだろう。
飴は普通に食べ物だ。
半永久的にもつものではないのだ。
ところが、当時の私にはそんなことには考えが及ばず、うれしくて、飾ってながめているうちに、もう食べられないモノになってしまったのだ。
 
一方で、私の七五三についてきていた、その日はメインではない妹。
母は、その妹にも同じようにちとせあめを買ってやったのだ。
幼かったこともあって、妹の方は帰ってくるなり、ちとせあめの袋をビリビリとやぶって開け、待ちきれないように食べていたのだ。
 
ああ、私も食べたかったなぁ、ちとせあめ。
 
そんな、モノに対する苦い思い出のあった私は、成長してもそんな思考は変わらなかった。
 
几帳面な性格は、次に整理・収納が完璧にできる要素を私に与えてくれたのだ。
目の前に来たモノはすべて、きれいに整理して、上手に保管できる才能があったのだ。
 
それは、片づけの苦手な母も褒めてくれた。
そして、すぐにモノをなくす母は、大事なモノは私に預けるというアイディアを思いついたのだ。
それから長い間、私の部屋は、家中の重要書類の保管場所となっていた。
 
そんな私も、やがて結婚し、家庭を持つようになった。
片づけが苦手な女性も多い中、私はその点に関しては全く困ることはなかった。
それどころか、ママ友たちにもその整理・収納が上手なところを見込まれ、よく片づけの手伝いに行ったものだ。
 
そんなわけで、この何でもすべてを整理・収納できることが、私の特技となっていったのだ。
 
ところが、いつもきれいい整っていて、だれからも褒められるような家であったはずなのに、私はそこにいると落ち着かなかったのだ。
友だちを家に呼びたいとも思わず、本を読むときは駅前のカフェに行っていた。
周りからは片づけ上手と、いつも褒められるのに、私の内面ではそうではない思いがふつふつと渦巻いていたのだ。
 
このモヤモヤ感の原因は、一体何なのか?
わからないまま過ごしていたのが、ある時、その答えが見つかった。
 
私は、モノをきれいに整理・収納はできていた。
ところが、収めたら、「はい、終わり」、だったのだ。
 
つまり、そこに取ってあるモノを使うこともなく。
たまに出して、手入れをしてやるでもなく。
人との関係で言うならば、完全無視をしているようなものだった。
 
モノを手元におきながら、それらとのコミュニケーションをとっていなかったのだ。
 
友だち関係に例えると、そんなことはあり得ないのだ。
目の前にいる友人と、一言も言葉を交わさないなんて。
万が一、そんなことをしたならば、その瞬間から友情関係は終わってしまうはずだ。
人とのお付き合いには、コミュニケーションが必須だ。
それによって、心地よい人間関係が築けるのだから。
 
私は、自分の家にモノをたくさん招き入れていた。
 
「いらっしゃい、ようこそわが家へ」
 
そうなんだけれど、招き入れた後、それらすべてを長い期間、ずっと無視していたようなものだった。
きれいに整理・収納をして、ずっと長い間持っていること、それがモノを大切にすることだと信じてきたのだから。
 
でも、やっぱり人ならば誰かと触れ合いたいものだ。
言葉を交わし、ともに楽しい経験をしたいと思う。
 
今なら、わかる。
わが家でありながら、そこにいても落ち着かなかった理由が。
人を家に呼びたいと思わなかったわけが。
 
モノとの無意識の気のやり取りは、そこにいる人間とのコミュニケーションにも関わることは想像がつく。
 
モノだって、この世に生まれたからには、使ってもらい、ボロボロになって、そしてゴミに出してもらうことがその生を全うしたということだろう。
それこそが、モノとして生まれてきた意味があるというものだ。
 
私に足りなかったことは、家の中でモノとのコミュニケーションが取れていなかったことだ。
 
本当のコミュニケーション力、モノとの場合は、使ってあげることだ。
 
そんな大切なことに気づいた今、手に入れたモノはしっかりと使い、使い切ると気持ちよくゴミに出せるようになった。
 
その清々しさたるや、モノをため込んでいたあの頃には想像がつかなかったことだ。
 
あの頃、整理・収納はできていて、それなりにきれいな家だったが、そこで暮らす心地よさには、雲泥の差がある。
 
あの、数十年前のちとせあめの味はわからないままだけれど、これから出会うモノとはうんとコミュニケーションをとって、その味を味わいつくそう。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
丸山ゆり(READING LIFE 編集部ライターズ俱楽部)

関西初のやましたひでこ<公認>断捨離トレーナー。

カルチャーセンター10か所以上、延べ100回以上断捨離講座で講師を務める。
地元の公共団体での断捨離講座、国内外の企業の研修でセミナーを行う。
1963年兵庫県西宮市生まれ。短大卒業後、商社に勤務した後、結婚。ごく普通の主婦として家事に専念している時に、断捨離に出会う。自分とモノとの今の関係性を問う発想に感銘を受けて、断捨離を通して、身近な人から笑顔にしていくことを開始。片づけの苦手な人を片づけ好きにさせるレッスンに定評あり。部屋を片づけるだけでなく、心地よく暮らせて、機能的な収納術を提案している。モットーは、断捨離で「エレガントな女性に」。
2013年1月断捨離提唱者やましたひでこより第1期公認トレーナーと認定される。
整理・収納アドバイザー1級。

 
 

http://tenro-in.com/zemi/86808

 


2019-07-08 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.40

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