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週刊READING LIFE Vol.40

クッソどマイナーな個展にありがちなこと《 週刊READING LIFE Vol.40「本当のコミュニケーション能力とは?」》


記事:服部動生(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

東京に住んでいると、美術館はそこかしこにある。大きな町なら必ず一つはあると言ってもいいだろう。美術館に一度足を入れれば、そこは別世界。絵を眺めるただそれだけなのだが、どんな気持ちで絵を描いたのだろうとか、見てる人に何を伝えたいのだろうとかを考えるだけで面白い。
よく覚えているのは三年前東京都美術館で開催していたゴッホ・ゴーギャン展だ。ゴッホは晩年耳を切り落としたエピソードが有名だが、ゴッホが耳を切り落とす直前に描いた自画像の耳が、力強い赤で塗られているのに気が付いた。これから切り落とすかもしれない耳を、どうしてそんな赤色で塗るのだろう。もっと弱弱しい色なら納得できるのだが。
あれこれ考えても理解できなかったので、近くに座っている学芸員のお姉さんに質問してみた。するとお姉さんは実に明快な答えを用意してくれていた。
 
「ゴッホにとって耳というのは、強制的に世間の声を受け止めさせる器官であって、世間の苛烈さそのものを表している」
 
なるほど、生前はほとんど評価されなかったゴッホにとって、世間の風当たりは強かっただろう。身体の一部でありながら、この絵を描いたころには、もはや耳は自分の身体ではなくなっていたのかもしれない。
とまぁ、こんなことを考えながら絵を見るのが楽しいので美術館巡りはやめられない。ただ、大きな美術館にはいくつかの問題があって、最近は行くのを躊躇するようになった。代わりに行くようになったのは小さな個展を開催している画廊だ。
 
筆者の仕事場近くに「アート・イン・ギャラリー」という貸しギャラリーがある。言い方は悪いかもしれないが、ここは名前も聞いたことないような芸術家の方々がよく個展を開いている。大通りから路地に入ること5分、10畳あるかどうかというスペースに所狭しと作品が並べられている。作品はそのときによって絵だったり人形だったり様々だが、今回は絵描きさんによる個展のようだ。
 
「こんにちは」
と一言言って扉を開ける。入場料はかからない場合がほとんど。代わりに記帳をして、出入りがあったことだけは書き留めておく。受付係の人に一礼して、作品を見て回る。
 
私が来るときには、大抵先客はいない。私一人だ。一枚一枚に時間をかけて、じっくり鑑賞する。こういう見方は大きな美術館だと難しい。美術館は鑑賞する場所ではあるが、同時に鑑賞する人が多く、同じ作品の前にずっと居座るのは憚られるからである。仮に好きな作品があったとしても、それの前で足を止め続けるのは、一分が限度。それ以上は周りに対してなんだか悪い気がしてくる。
それと比べると、なんと素晴らしい環境か。自分一人なのでおとがめなし。展示をしている芸術家の方には悪い気もする。千客万来のほうが展示する側としてはいいはずだ。作品は見せるために作るはず。それはわかるが、私はこの場に自分一人しかいないことを喜んでいる。申し訳ないと思いつつ、全力で一枚一枚を見て回る。
 
畳一枚分くらいある大きな絵があった。こういった作品を見る時も、個展のほうが楽しい。まずは全体像を遠目から見る。その時の印象を持ったまま、近づいて細部を見る。すると、細部に色々な仕掛けが見えてくる。全体の印象を決めるものは、意外にも小さなところにあり、じっくり見られるからこそ、発見できたことも多い。
個展には作品に近づくにあたり制限がない。大きな美術館はどんなにおおらかであっても、作品の手前50センチくらいのところに進入禁止の仕切りが設けられている。一方ここではいくら近づいてもいい。床に直置きしている作品があったので、私も膝をついて作品の『足元』を見た。作品を蹴ったりしないよう気を付けつつ、できるだけ作者の意図を摂取しようとする。
 
近づいたり離れたり、あるいは膝を折ったりと、絵を見ているだけなのに結構動いている。もしかしたらその光景ははたから見ると奇妙かもしれない。けれど、私一人であれば、そういった姿に羞恥心を抱くこともなく、好き勝手出来る。あたかも締め切ったお風呂場で歌を歌うかのような気楽さで、絵を鑑賞できる。
 
この場に響く音は、せいぜい私の足音ぐらい。静かに鑑賞できると自然と作品に没頭できる。人が多くなると必然会話も増える。私も学生の頃は、大学がくれた美術館の無料券を握りしめて友達と出かけたこともある。けれど、働き出してから、友人と予定を合わせるのが困難になり、今では一人で来るのが精いっぱい。連れがいれば話すのも当然だが、自分一人だけの時は、他の人の話し声はやけに気になる。
ものすごく自分勝手な言い草だが、話し相手がいない私にとって、話し声は実際の音量よりもずっと増幅されて聞こえる。
 
この場には10枚ほどの絵が展示されている。人には好みがあるので、10枚あるとしても「好き」とはっきり言える絵には1~2枚くらい。他8枚はどこが良いのかよくわからい作品だ。
大規模な展示だとよくわからない絵は素通りしてしまう。人も多いし、他にいい絵があるかもと思うとぱっと見で印象が良くないものを切り捨てるのは当然の心理だ。けれど、あえてあまり好きではない絵に時間をかけてみると、また違ったものが見えてくる。
小説や映画のような、時間をかけて鑑賞する作品とは異なり、絵は一瞬で全体像を把握できる。ゆえに評価も一瞬で下せる。ただ、評価を一瞬で下してしまうのはもったいない。
絵を見るのは一瞬でもできるが、絵を描くのには多大な時間がかかっている。何か意味があるはずだ。時間をかけてでも完成させたかった何らかの意図がこの絵には込められているはず。
こういったやり取りが作品と鑑賞者の間で成立するのが芸術作品だと思う。コミュニケーションと言ってもいい。意図が伝わらないのは作者の腕のせいもあるかもしれないが、見る側が心を閉ざしている可能性もありうる。意図が伝わらないのを一瞬で判断し、しかも鑑賞者のほうから歩み寄る機会をとらないのは、私にとってはもったいないという気がしてならない。
 
さて、一通り作品を見終わった後、私は軽くため息をつく。私にとって今までのは全て前菜に過ぎない。これからのメインディッシュを楽しむための布石は整った。こちらから歩み寄るという鑑賞の仕方をすると少し疲れることもあるが、この場を楽しむには必要な犠牲である。
 
「どうもありがとうございました」
受付係の人が声をかけてきた。私の様に一枚一枚に時間をかけて鑑賞する人は珍しいらしい。
「作者の方ですか?」
「はい、そうです」
薄々勘付いてはいたが、受付係の男性がこの展示の絵描きさんらしい。
「私、この絵が一番好きですね」
「これですか、これは結構人気がありまして、来てくださった方には大抵褒めていただけます」
「やっぱり、他の絵と比べると、これだけパワーがなんか違うというか」
「そうみたいですね、どうしてなのかわからないんですけど、この頃に描いた絵は全体的に評判いいですね。こっちの絵もそうなんですけど」
「あ、これも好きですね」
 
会話は弾む。もし、こういった個展の魅力を一つだけ挙げるとしたら『作者と出会えること』だと私は答える。
 
「この、みずたまりに沈む女の子は、もしかして死んでるんじゃないですか?」
「そうですね、道路で死んじゃったのかもしれないって、そんな気持ちで書いたかもしれません」
 
大きな美術館に展示されるような芸術家の方は、大抵亡くなっている。最初のほうで触れたゴッホ・ゴーギャンなどは教科書レベルの人間だ。もちろん会話することはできない。
仮に存命だったとしても、あまりに有名すぎて私のようなごく一般人と自然な流れで会話を持つのは難しい。
私のような素人が芸術作品に何を求めているか。それは『感動』だ。芸術作品の中には、作者が人生の中で得た『感動』が詰まっている。見る側は、その感動を作品を通して伝えてもらうことで感動できる。
大抵の場合、鑑賞者が感動すればそこで話は終わってしまう。でも私の場合は、ここでもう一歩踏み出したいという欲がある。その感動を誰かに伝えたい。この場合は、作者と共有したいと思うのである。
教科書に載るくらいの芸術家になると、解説本がいくらでもあって、その人の世界観を事細かに教えてくれる。けれど、それはあくまで他人が収集した情報だ。こうして芸術家本人が目の前にいる。本人に聞かないでどうする。
 
作品を鑑賞することは、作者と鑑賞者のコミュニケーションであると私は言った。けれど、作者から一方的に情報を貰っただけでコミュニケーションだろうか。
絵については素人だが、学生時代から趣味で小説をずっと書いてきた。たまに小説について感想を貰うことがあるが、私の意図とは大きくずれた感想を貰うこともある。不思議なのは、意図とずれて伝わっているのに、それはそれで面白い解釈だったりすることだ。
コミュニケーションとは、自分と相手が違うからこそ必要になる。全く同じ存在だったらコミュニケーションは必要ない。相手との違いを探すのが、一連のやり取りの中で最も面白い行動だ。作者の思っていたのと、私が感じ取ったことの違いを探していく作業のために、一枚一枚に時間を取って鑑賞する。
この間違い探しこそ、作者がいる展示にわざわざ顔を出すに値する理由となる。
 
私は一通り絵についての解釈を吐き出し、作者の方も自分の想いを出し切る。相手の意図をくみ取れた喜び、自分の意図を伝えきれた喜びを味わうには、作者と鑑賞者による直接的な対話が必要だ。
コミュニケーションという点では、大きな美術館で催される大先生の展示よりも、市井に潜む人たちとのほうがやりとりはしやすい。一方向ではなく、相互のやりとりができるのが、小さな個展最大の魅力だ。
 
最後に、折角なので作者と出会える可能性のある会場を紹介しておく。これ以外にもたくさんあるはずだが、いかんせんひっそりと存在しているので、あなたの街にも実はあるかもしれない。
 
 

アート・イン・ギャラリー(原宿)
http://art-in-gallery.la.coocan.jp/
 
伊藤忠青山アートスクエア(青山)
http://www.itochu-artsquare.jp/
※6/15日現在改装工事中
 
 
 
 
 

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2019-07-08 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.40

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