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週刊READING LIFE vol.43

母は還暦を越えて、やっと幸せになった《 週刊READING LIFE Vol.43「「どん底」があるから、強くなれる」》


記事:森野兎(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「あんまり覚えてへんねん。あんたらが小さかったとき、子育てが大変やったとか、そういうの」
母はそう言う。我が子がかわいいあまり、苦労を苦労と思わなかったとか、そういう話ではない。母にとって、幼い子どもを育てるよりも、ずっと大変なことがあって、子育てを大変だと感じる余裕すらなかったのだと言う。わたしには2歳上の兄もいる。わたしたち兄妹は、よく寝てよく食べてよく言うことを聞く、育てやすい子どもではあったらしい。だが、歳の近い子ども2人の子育てを大変だと感じないほど、母を苦しめたことがあったのだ。
 
「わたしとあんたのおばあちゃんはなあ、特別に仲が良かってん。わたしとあんたも仲良い親子やと思うけど、仲の良さでいうとそれ以上やわ」
母はそう言って、祖母と母の関係を話してくれた。
母は3人兄弟の末っ子で、祖母が待ち望んでようやく産まれた女の子だった。祖母は末娘の母をとびきり可愛がって、甘やかしたそうだ。祖父を早くに亡くし、上の兄二人は進学や就職で、早々に実家を離れていた。祖母は母のことを一番頼りにしていたし、絆の結び付きも強かった。
 
母は、昔の祖母の話をよくしていた。
「ここのお蕎麦屋さん、あんたのおばあちゃんが好きでな、よう連れてきてもうたわ」
「あんたのおばあちゃんは着物が好きでなあ。昔は今みたいにレンタルとかなかったし。浴衣も振袖も訪問着も、全部買うてくれはったわ」
「特別美人なわけでもスタイルが良いわけでもないのにな、あんたのおばあちゃんだけはわたしのこと褒めてくれたわ。『ちょうどいい』って言うてな」
話を聞いているだけで、祖母が母に対して、どれほど愛情を注いでいたかがわかる。親バカで、過剰な気もするが、祖母は母がかわいくて、愛しくてたまらなかったのだろう。
 
でもあるときから、母と祖母の親子関係は、大きく変わってしまった。
わたしが産まれたのと同じころ、祖母は認知症と診断されたのだ。
母が結婚してしばらく、祖母は一人で暮らしていたが、認知症になってからは、一人で生活していくのは難しく、祖母はわたしたち家族と一緒に暮らすことになった。
認知症になった祖母は、今日が何曜日かわからないし、ご飯を食べたことを忘れるし、人の名前も間違えた。だがそんなことは序の口で、今まで母にかけた愛情を、全部返してもらおうかという勢いで、母に甘え、母にわがままを言うようになった。優しくて、頼もしい祖母はどこへいってしまったのかというほど、母に対してひどいことを言っては、母を悩ませ、母を傷つけるようになった。
あるときは、祖母のお金を管理している母に向かって、
「貯金が減ってる。あんたが勝手に取ったんやろ」
と言って母を責めた。母が、
「そんなわけないやん。もう使ったから、無いんやん」
と何度言っても、説明しても、祖母は忘れてしまう。幾度も同じことを言って、母に暴言を吐いた。
また膝が悪くてあまり外に出歩けない祖母は、家にいて昼寝ばかりしているせいで、夜眠れないようになった。祖母の寝室は1階にあったが、夜な夜な2階で寝ている母の元にやってきては、
「睡眠薬出してくれへんか」
と言って母を起こした。膝が悪いはずなのに、薬を求めにくる祖母は、嘘のようにしっかりとした足取りで、夜中に階段を登ってやってくる。それが一夜のうちに、何度も繰り返される夜もあった。
残念ながら、母の兄二人は、祖母の介護に関して力になってくれなかった。離れた場所に住んでいるという物理的な問題もあるが、彼らは自分たちの家庭でまた別の問題を抱えており、祖母の介護を、ほぼ母に丸投げした。母は、兄二人との関係も悪化し、ますます追い詰められた。
祖母の介護は、体力だけでなく、精神的に母を追い詰めることの連続だった。
 
親子でありながら、親友のように仲が良くて、尊敬していて、大好きだった自分の母親に、暴言を吐かれ、傷つけられ、苦しめられる。
感謝しているのに、恩返しがしたいのに、優しく接したいのに、昔のような親子に戻りたいのに。でも、あの頃の祖母はもういなくて、戻れない過去に、重くのしかかる現実に、母は気が狂いそうだった。
「まだ小さかったあんたとお兄ちゃん置いて、出ていこうと思ったもん」
母は、当時を振り返ってそう言う。
あまりに辛くて苦しくて、可愛い我が子すら置いて、何もかも投げ出してしまいたいと思うほどに、母は人生のどん底にいたのだった。
 
何年もの間、祖母は自宅で介護生活を送っていたが、ストレスが原因で母が自律神経の病気になったことをきっかけに、祖母を介護施設に入所させる話が持ち上がった。
祖母は、施設に入ることを嫌がった。母も、できれば自分で面倒を見てあげたかった。でも、ケースワーカーの方に言われたそうだ。
「この生活を続けていれば、あなたは完全に壊れてしまいますよ。お母さんの介護どころか、子どもを育てることも出来なくなってしまいますよ」
母はわたしたちのために、祖母を施設に入所させる決意をした。責任が強くて、祖母を愛していた母にとって、それはきっと苦渋の決断だったことだろう。
 
祖母は、わたしが高校生の頃に亡くなった。施設で急に具合が悪くなり、病院に運ばれたあと、あっという間に逝ってしまった。
あれほど母の手を患わせた祖母だったが、最期はあっけないほどすぐに逝ってしまった。
 
母は今でも祖母の話をすると、よく泣いてしまう。
晩年は、母を苦しめ続けた祖母だった。だが、それまで築いてきた親子の絆がある。祖父の死を一緒に乗り越えたこと、惜しみ無い愛情を注いでもらったこと。母の中で、祖母に対する複雑な想いが溢れて、胸がいっぱいになって、涙が流れてしまうのだろう。
 
母は祖母のお墓参りに頻繁に行く。祖母のお墓は、電車とバスを使って1時間ほどかかる場所にあるので、気軽に行けるわけではないが、それでも母は祖母に会いにいく。お墓に向かって、話をするのだそうだ。最近の出来事、愚痴、それからわたしや兄のこと。兄の転職が上手くいくように、わたしが素敵な人とご縁があるように、あなたの孫たちが健康に幸せに生きていけるように見守っていてほしいと、いつもお願いしているそうだ。
祖母が亡くなってようやく、やっと心穏やかに、昔のように、母は祖母と話せるようになったのだ。
 
母は「おばあちゃんが大変で、あんたらが小さいときにあんまりかまってあげれへんかってん」と言う。
確かに仕事と家事と子育てと介護を同時にしていた母は、いつも忙しそうだった。
ただ、わたしは幼少期の記憶をよく覚えている方だと思うが、母に放っておかれた印象は全くないのだ。スーパーの惣菜や冷凍食品に頼らず、いつも手作りの食事を作ってくれた。いつも可愛らしい洋服を着せてくれた。毎晩のように絵本を読んでくれた。ワガママを言っても、困らせても、母は絶対に自分の味方でいてくれると思えるほど、たくさんの愛情を注いでくれたとわたしは感じている。母は意識せずとも、祖母のおかげで、我が子に愛情を注ぐことが身に染み付いていたのだ。祖母が母に愛情を注いだのと同じように、母はわたしにも愛情を注いでくれていたのだ。母は立派に母親だった。
 
還暦を越えた近ごろの母は、よく同窓会に行く。定年を迎えて時間ができた同級生たちは、何かと理由をつけて会合を開きたがるのだそうだ。
何十年かぶりに会う同級生に、母はよく言われることがあると言う。
「幸せな生活を送っているのが、顔に出てるって言われるねん。確かに今、幸せやもん。めちゃくちゃ苦労したけど、おばあちゃんを無事看取れたし、子どもも独立してくれたし。還暦を越えて、もうすっかりオバサンになっちゃったけど、やっと今、幸せやと思えるようになったわ」
 
苦しいことを経験した分、母は強くなった。
苦しいことを経験した分、母は優しくなった。
苦しいことを経験した分、平和な日常を幸せだと思えるようになった。
人生のどん底は母を苦しめたが、母に色んなものを与えてくれたようだ。
どん底を乗り越えて、逞しく生きる母の顔は、とても満たされた顔をしている。
 
今が幸せだと言って、穏やかに笑う母の顔は、祖母によく似ている。
 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
森野兎(READINGLIFE編集部 ライターズ倶楽部)

アラサー。普段はOLをしている。2019年3月より、天狼院書店のライターズ倶楽部に参加。ライティング素人が、プロを目指して挑戦中。

 
 
 
 

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2019-07-29 | Posted in 週刊READING LIFE vol.43

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