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週刊READING LIFE vol,120

「宝物」のようなその素敵な物語は、純粋な後悔と反省から産まれた。《週刊READING LIFE vol.120「後悔と反省」》

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2021/03/22/公開
記事:白銀肇(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「かい、かい……」
寝言のようにそう言いながら、夜中に小さい手の甲を掻きだす。
長女が生まれて1年経ったあたりだっただろうか。
 
それまで何ともなかったのに、手の甲を少しずつ掻きだすようになっていった。
やがて、その掻きだすその範囲は、肘の内側、首あたりへと拡がる。
アトピー性皮膚炎だった。
 
長女の症状は、起きているときは、何かしら気を引かせたりして、掻きだすことを阻止することもできるのだが、夜中、寝静まってからこれをされると、もうどうにもならなかった。
「掻いたらあかんよ!」と、こちらも手を止めさせようとするが、半分寝ぼけながらの無意識だからか、手は止まらず、血が出るまで掻いてしまう。
見ていて忍びなかったが、一番辛かったのは長女自身であっただろう。
体がいうことを聞かないわけだから。
 
やがて、寝るときには、掻いてもできるだけ傷がつかないように、長女の手に手袋やガーゼをかぶせたりした。
「ドラえもんみたい」と嬉しそうにしながらも、夜中にしばらくするとまた掻きだし、止まらないその痒みから泣き出す。
夫婦揃って、手を掻きだす長女をあやす日々が続いた。
 
しょっちゅう掻いているというわけではなかったが、体温に関係するのだろうか、お風呂と寝ているときが一番ひどかった。
 
長女のアトピー性皮膚炎の発症に、家内はかなり落ち込んだ。
妊婦のときにきっちり、生活習慣や食生活にもっと気を配っていたらこんなことには……。
そのことをしきりと後悔し、反省したあと、家内は徹底した行動に移る。
 
そして、それが、まったく予期しなかった出来事につながった。
特にその出来事は、私にとって一生を通じて絶対に忘れられない体験となった。

 

 

 

「とにかく生活スタイルを変えよう」
まずはそう決め、早速行動に着手。
そして生活は、どんどん変わっていった。
 
食生活は、化学調味料は使わない。
味噌汁とかの出汁ものは、煮干し、あるいは昆布やかつお節から。
インスタントや、添加物が多く含まれる食品は、食卓に上げない。
入浴剤は、一切使わない。
石鹸も、自然派のもの。
衣類は、皮膚に刺激を与えないものを選ぶ。
洗濯洗剤も、石鹸と同じように自然派のもの。
その徹底ぶりは見事だった。
 
当時は、今のように「携帯でググる」などという時代ではない。
頼る情報源は、本、雑誌、が中心。
とにかく、色々と調べていた。
 
それで得た情報、人づてで聞いた情報、そのなかで自分がピンと来たものは実際に足を運ぶ。
時間が許せば、求めるものが少々遠い場所でも、小さい娘を車に乗っけてサッと出かけ、自分の目で確かめにいく。
その行動は、早かった。
「悩んでいる暇はない。自分が『いいな』と思ったことをやるだけ」
 
「薬には頼りたくない、できるだけ自然に直してあげたい」
その思いも、この行動の原動力になっていた。
 
発症当初は、あちこちの病院にも行った。
だけど、いずれも痒みをやわらげる治療ばかりで、根本的に直すというところには行き当たらなかった。
家内の思いを満たす条件はみあたらなかったのだ。
だから、自分の思いを遂げることができる方法を探求していった。

 

 

 

長女が2歳になった年、二人目を授かった。
その事実がわかったとき、家内は宣言した。
「二人目は、助産院で産む」
 
助産院という名は、もちろん知ってはいたものの、それが実際にどんなところで、何をどのようにするか、まで私はまったく知らなかった。
 
二人目のことを想定していた家内は、次のお産をどうするか、まで考えていた。
長女を身篭ったとき、食生活も、健康も管理できていなかったと反省していた家内。
二人目は、できる限り自然な食生活生活習慣で、健康と体調を管理したい、と強く望んだ。
 
そんなとき、長女を産んだ病院の看護師さんから、京都市内の有名な助産院のことを聞いた。
より詳しく調べたら、自分が望む出産は、助産院であればできそうだ、ということがわかり、助産院での出産を決意したのだった。
 
その助産院は、住んでいたところから、車でも最低1時間はかかった。
診察や経過観察で通う頻度が多くなったら大変ではないか? ということも言ったが、彼女の決意は固かった。
長女と同じ轍は絶対踏まない。
きちんと体調を管理して、2人目の子供に負担をかけることは、絶対したくない。
その決意が揺らぐ気配はまったくなかった。
 
助産院。
そこで、お産はできる。
だけど、病院ではないから、お産できる条件が限られる。
妊婦さんの体力的に厳しいことが想定される場合、その診察やお産は、提携している病院で受けることになってしまう。
 
その助産院では、出産予定日間近の診察で、母親の血液中の「ヘモグロビン値」が一定の基準をクリアしないと、そこでのお産は許可されなかった。
これは、母子の体調安全確保もさることながら、産まれでてくる赤ん坊の「心」も配慮してのことだった。
 
「もし、お産の最中に、救急車で搬送されることになったら、その赤ん坊はこの世に初めて出てきた音が救急車のサイレンになるでしょ? 結構、あの音に赤ちゃんは驚くの。だから救急車を呼ぶことになるようなお産は、絶対にしたくないの」
だから、産まれてくる子供のためにも、お母さんはしっかり血液を作って体調を万全にしてね、と最初の診察で、院長先生がそう説明してくれた。
 
赤ちゃんには、絶対に負担をかけさせたくない。
赤ちゃんのトラウマになるような事象は、徹底して取り除く。
厳しい基準は、そんなきめの細かい配慮だった。
 
「絶対にこの助産院で、自然に産みたい」
院長先生の説明を聞いて、家内はさらにその思いをつのらせた。
そこからは一途であった。
 
特に家内は、そのヘモグロビン値が低いほうだったから、必死だった。
出血に耐えうる体力を養うため、鉄分摂取を欠かさない。
ほうれん草、レバー、プルーン……と、鉄分摂取できる食物を積極的に毎日摂る。
お湯を沸かすときには、南部鉄でできた鋳物を必ずヤカンや、ポットに入れて鉄分抽出。
 
もちろん、それ以外にもストッレチやマッサージ。
とにかく体力増強と、健康管理には最大の気を使った。

 

 

 

その助産院は、本当にいいところだった。
そこは京都市内のやや南部の、下町風情の軒並みが残るところにあった
建物は長屋造りの一角で、病院というより普通の住宅外観。
とてもアットホームな雰囲気。
 
お産前には、一応入院できる設備にもなっているが、その部屋は、一般的な病院の病室ではなく畳敷きの和室部屋。
そして、この和室でも出産が可能だという。
家族に立ち会ってもらう出産はそこでする、ということでもあった。
助産婦である院長先生を筆頭に、数名の助産婦さん、そしてスタッフもみなさん女性で、柔らかく和気あいあいとした雰囲気だった。
そこには、診察に来ている、というより、なんかサロンに来ている感じであった。
 
院長先生は、キリっと毅然としたオーラが常にあったが、妊婦の心の悩みもしっかり受け止める優しい方だった。
指導にあいまいなところは一切なく、本当に安心して信頼できる先生だった。
無論、家内は、その院長先生にいうことを真摯に守っていった。

 

 

 

月数が経つにつれ、家内の中である願いが大きく膨らんでいた。
それは、「立ち会い出産をしてほしい」ということだった。
しかも、私だけではなく、長女も。
つまり、家族立ち合いでの出産がしたい、それこそ一番の希望は「自宅出産」だという。
幼いながらも、長女にもこの体験をしてもらうことは、貴重なものになるのでは、と考えていた。
 
立ち会い出産。
そのことばを家内から聞いて、正直言って私は怯んだ。
 
ちなみに、長女のときは、立ち合い出産ではなかった。
初産ということもあり、家内は数ヶ月前から実家に里帰りし、離れていたからだ。
 
テレビとかでもお産の現場のシーンを見たこともあったし、それなりに現場の状況は想像できた。
だからこそ、ビビった。
分娩室で、直接血を見たりするのはやはりちょっと……、というのが正直な気持ちだった。
 
別に産れてくるところを直接見るわけではない。
横に居てそばに入れてくれるだけでいい、それだけで十分だから。
と、家内は言う。
 
そんな家内のことばを聞き、出産する場面を直接見なければなんとか耐えられかな、と思い決心した。
「わかった、立ち会うよ」

 

 

 

出産予定日間近の診察。
それは、ヘモグロビン値の最終検査でもあった。
ここで基準値が下がっていたら、この助産院ではお産はできない。
実は、それまでの検査では、ずっと基準を上まることがなかった。
 
祈る思い。
 
検査結果。
最後の最後で基準を超えた!
「この助産院でお産ができる!!」
その喜びはひとしおだった。
 
院長先生を筆頭とした助産院皆さんの指導と、家内の努力もあって出産予定日までは順調だった。
 
そして、いざ出産のとき、トラブルは起こった。
 
出産予定日になっても、陣痛は起こらず何も気配もなかった。
そういえば、長女のときも予定日よりも二週間遅れた。
「今回もそうなのかなぁ」みたいな会話を交わしていた。
そうこうして、予定日より一週間ちょっと遅れたぐらいのときだった。
 
「あ! 破水したかも!!」
 
それは、突然だった。
陣痛ではなく、なんと破水から始まってしまったのだ。
 
ちょうど、そのときは幸いにも夜で、私も会社から帰宅していたところだった。
これを聞いたときは、とにかく慌てた。
助産院は、病院と同じように夜も受け付けてくれたので、すぐに電話し事情を説明する。
 
「すぐこちらに来てもらえますか」
慌てている私を落ち着かせるように、電話の向こうからスタッフの方が優しい声が聞こえた。
 
家内を車に乗せ、幼い長女も連れて助産院へ向かった。
 
入院の部屋は和室。
病室ではなく、ちょっとした旅館に泊まりに来たみたいだった。
その雰囲気で緊張した気持ちが解きほぐれたことを、今でも覚えている。
 
さぁ、ここから陣痛が始まって、いよいよか、と思ったがそこまでの気配はなかった。
結局のところ、ここから出産までおよそ2日かかった。
 
そして入院してから2日目の朝、陣痛が始まった。
その部屋でも出産は可能だから、慌ただしくその部屋でお産の準備がされていく。
私は長女を抱き抱えながら、その様子を見ていた。
そこは自宅ではなかったけれど、その様子はまさに家族共々見守る自宅出産の準備そのものだった。
 
準備は万端に整った。
でも、なかなか生まれてきそうな気配がない。
色々と体勢を変えながらいきむが、どうも畳の上ではより力が入りそうにない。
ちょっと難産のようだった。
 
状況が変わりそうになかったので、よりいきむことができる分娩室へ移動することになった。
ここでようやく変化が起きる。
徐々に赤ん坊が降り出してきているという。
 
院長先生が、一生懸命家内の体をマッサージしながら、お腹のなかの赤ん坊を誘導する。
見れば、院長先生の顔は汗でびっしょりだ。
家内も相当に気張っている。
院長先生の手は休むことなく、大きく励ましの声を家内にかけつつ、誘導する。
他の助産婦先生がたも、家内を励ます。
 
何時間たったであろうか、院長先生が家内に向かった高らかに声をかけた。
「ちょっとずつ頭が見えて来たよー、あともうちょっとだからね! 頑張って!!」
 
院長先生は、手を休めることなく、数時間ぶっ続けで家内の体をマッサージしている。
衣服までもう汗びっしょり。
確かに、暑い夏の日であったが、当然空調は効いている。
 
私は、とにかく横で家内の手をずっと握り、励ましの声をかけつつ、時々、体の要所要所をさすったりしていた。
 
院長先生の声がさらに高まる。
「さぁ、いよいよ頭が出てきだしたよ! あともう一息!!」
 
いよいよか、と思った次の瞬間、私は思わず「えっ!?」となった。
 
「さぁ、出てくるよ! はい、お父さん! こっちに来て!!」
院長先生がそう叫んだからだ。
 
え? こっちに来て、ってどういうこと?
 
院長先生の言っている意味が、このときまったく理解ができなかった。
 
ちゃんと立ち会って、手を握って、がんばれー、と言って家内をこうして支えているやん。
それ以上に自分にできることって、他になんかあったっけ??
「こっち来て」って。
え、ちょっと待って。
それって……。
 
それこそ、ほんのコンマ数秒の間であっただろうが、その瞬間にいろんな思いが交錯した。
 
そんなことで若干フリーズ気味の私に向かって院長先生が叫ぶ。
 
「早く! 何してんの! もう出てくるから! 赤ちゃんを受け止めてあげて!」
 
えっ!?
やっぱ、そういうこと!?
 
まったくの予想外。
そんな心の準備、まったくできていない。
 
「早く!! 受け止めてあげて!!」
ふたたび、そう叫ばれた瞬間、あれこれ考えていたことが吹っ飛んだ。
と、同時に体が瞬時に動いた。
 
気がついたら、院長先生がいるところへと走り込み、わが両手を前に伸ばして、我が子を受け止める姿勢になっていた。
 
その瞬間だった。
 
するり!
 
と、赤ん坊が私の両手に滑り込んできた。
 
もう無我夢中だった。
「落としてはならない! 絶対落としてはならない!!」
頭の中は、自分に対する、その命令のことばだけが溢れかえっていた。
手の中に滑り込んできた赤ん坊を、まさに体全体を使って抱き抱える。
 
その私の手の中で、赤ん坊は、元気ながらも可愛い産声をあげた。
 
「女の子ちゃんだね」
院長先生は汗だくになりつつ、ホッした笑顔で私に声をかけてくれた。
 
「母子ともに健康! お母さん、長時間よく本当によく頑張ったね!」

 

 

 

なんということであろうか。
わが手で我が子を受け止めることになろうとは!
家内の横で手を握り、励ましの声をかけて、それでなんとか立ち合い出産を凌ごうとしていた安っぽい私の目論見を、神さまに見破られ、あえて究極の出来事まで導かれてしまったような感覚だ。
 
怖れていたようなシーンなんて、一度もなかった。
厳密に言えば、なかったわけではなく、そんなことを感じることがなかった、という表現が正しい。
我が子の生命そのものを、この手、この体で受け止めた、という感動は、怖れなどという感情を木っ端微塵に吹き飛ばした。
 
もちろん、いろいろな処置もあったし、多少なりとも血が流れるシーンも目にはしていた。
床にもその名残があった。
だけど、その光景は、尊く愛おしい景色にしか見えなかった。
 
この瞬間を見ていた長女も、苦しんでいる母親を見て、ちょっと怖がっていたが、赤ん坊の頭が出て来て、ストンと私の手に落ちた瞬間には「かわいい!!」と叫んでいたぐらいだった。
 
来ていたTシャツは、胸から下まで、すっかりびしょ濡れだった。
そのTシャツから、とても甘い香りがした。
それは、羊水の香りだった。
「甘美な香り」とは、まさにこのことだ。
そう思った。
 
これ以上の崇高なシーンなんて、果たしてあるだろうか!
 
我が子の生命の誕生の瞬間を垣間見、そして、その生命の誕生をこの手で受け止めたのだ。
我が子を抱きつつ、その事実に、ただただ感動するばかりだった。
ことばにも声にもならない。
ことばにならない感動が、ただただ体の奥底から湧き出てくるように溢れてくる。
そして、目からとめどなく、洪水のように涙が溢れてくる。
 
大号泣していた。
 
今でも、その涙した感覚を覚えている。
涙って、こんなに一気に大量に出てくるものなの? って、思えたからだ。
 
「さ、お父さん、へその緒も切ってあげてね」
院長先生が、そう声をかけてくれた。
その声で、ようやく気を取り戻し、赤ん坊を家内に手渡す。
 
「よく頑張ったね」
長時間のお産を終え、その表情は疲れつつも安堵の表情を浮かべている。
そして、院長先生の手ほどきを受けて、私は次女のへその緒をきった。
 
まさに至福。
まさに宝物。
そんな体験だった。

 

 

 

「あのときこうすればよかった」
「こうやった方がもっといい結果に繋がったのかもしれない」
長女に対して、そんな後悔の念は深くあっただろうと思う。
そして、それで自分も傷はついていたのだろうと思う。
時として、つい、その思いにだけ駆られて立ち止まってしまいがち。
だけど、家内はそこに留まらず、見事にそれを「糧」に変換して、行動して次につなげた。
 
「次に生まれてくる子には、自分の不手際で負担をかけさせたくない」
その強い望み、そして意思。
それを軸とした行動。
 
その結果、家内は家族全員での立ち会い出産を実現し、私は産まれでてくる我が子をみずからの手で受け止める、という我が家にとってまさに「宝物のような物語」が産み出された。
 
それ以降、長女のアトピーはそれ以上ひどくなることもなかった。
今となっては、かなり小さくなっている。
ちなみに、病院や薬といったことに頼る、といったことは一切なかった。
次女は至ってはアトピーをまったく発症する気配すらない。
 
そして、一番の何よりは、二十数年たった今でも家族の仲がいいこと、だ。
親や子といった立場を超えて、なんでも言い合えている仲にはなっているかな、と思う。
 
娘たちの恋愛や仕事の相談を、夫婦で聞いてはともに話し合ったり。
夫婦喧嘩のたび、それぞれの言い分を聞いてもらっては、私たちが娘たちから逆にお叱りを受けたり。
 
今までに、それぞれにおいても、家族全体としても、いろんな紆余曲折があった。
だけど、それらすべてを家族全員で乗り切ってきた感がある。
あれもこれも、この宝物のような物語の体験があったからこそかも知れない

 

 

 

後悔と反省って、ちょっと重たくもあり、ネガティブなイメージをつい感じてしまう。
後悔、反省の前に「失敗」があるからだろうと思う。
でも、実は、そこにはとんでもないお宝につながる「きっかけ」が潜んでいるかもしれない。
失敗、後悔を怖れて行動しない、ということはひょっとして「お宝」を逃しているのかも。
そもそも、後悔と反省だけで終わったら、それは失敗で終わった、ということも言える。
 
ぶっちゃけた話をすると、私は怖がりだ。
その後悔することが怖くて、つい行動を尻込みしてしまうタイプ。
その点、家内とまったく真逆なところだ。
「考えてばかりいないで、ちょっとは動いてみたら?」
家内からもよく言われる。
 
そして、この記事を書いているまさにいま、あることに気がついた!
 
このようにして、この記事を書き綴っていることそのものが、そんな性格の私にとっての振り返りであり、反省ではないか? と。
 
であれば、家内を見習って、ちょっと気なることがあったら、あまりあれこれ考えることに時間を費やしていないで、どんどん行動に移していこうか。
 
だって、そこには「お宝」があるのだから。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
白銀肇(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)

京都府在住。
2020年6月末で29年間の会社生活にひと区切りうち、次の生き方を探っている。
ひとつ分かったことは、それまでの反動からか、ただ生活のためだけにどこかの会社に再度勤めようという気持ちにはなれないこと。次を生きるなら、本当に自分のやりがいを感じるもので生きていきたい、と夢みて、自らの天命を知ろうと模索している50代男子。

この記事は、人生を変える天狼院「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」をご受講の方が書きました。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

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2021-03-22 | Posted in 週刊READING LIFE vol,120

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