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週刊READING LIFE vol.129

ハンブルクの思い出《週刊READING LIFE vol.129「人生で一番『生きててよかった』と思った瞬間」》


2021/05/24/公開
西野順子(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
 
 
「あなた一人なの? 一人だったら、ここ空いてるから、ここに座ったらいいわよ」
そう言って、人懐っこそうな笑顔で、その女性は話しかけてきた
 
ドイツの中部の都市ワイマールにある小さな劇場でのことだ。私はその晩のバレエ公演のチケットを買って中に入ったものの、どこに座っていいかわからず、前へいったり後ろへ行ったりうろうろしている時に、彼女が声をかけてくれたのだ。これが私とモニカさんとの出会いだった。
 
モニカさんは金髪のショートボブで、大柄でメガネをかけたにこやかな女性だ。私の母くらいの年だろうか? 彼女の横には、ご主人なのだろう、白髪で優しそうな男性が座っていた。
 
私の横に座ったら? と言われたものの、彼女たちが座っていたのは最前列のど真ん中の席だ。そんな大胆なところにいきなり座っていいのだろうか? と私はちょっと躊躇していた。
「私たちは彼と私の二人だけで、この席は空いてるんだから、どうぞお座りなさい。よく見えていいわよ」 と彼女はさらに言ってくれた。
 
その言葉に甘えて、私はモニカさんの横の席に座った。目の前にステージがあり舞台装置がそびえる。うわっ、近い。こんな前に座っちゃっていいのかな? 大学の講義でも一番前にはけして座ったことがなかった私は、ステージとの距離の近さにドキドキした。
 
「あなた日本人? ドイツのどこに住んでるの?
えっ、日本から? 日本からわざわざここまでバレエを見に来たの?」
 
彼女はいかにも驚いた、というように目を丸くしたが、お互いにバレエファンだとということで、すぐに打ち解けて話がはずんだ。趣味というの磁石のように強力だ。初対面でも趣味が同じだと、まるで昔からの友人のようにすぐに仲良くなることができる。初めて来たワイマールで、1時間前まで全く見ず知らずの彼女たちと。大好きなバレエの話でこんなに盛り上がれるなんて、なんて素晴らしいんだろう。
 
しばらくバレエ談義が続いたあと、彼女は言った。
「あなた、バレエが好きだったら、絶対ハンブルクに来なきゃだめよ。私たちハンブルクに住んでいるのだけど、ハンブルグのバレエ団はものすごく素晴らしいのよ」
 
それを聞いて私の方が驚いた。実は私はハンブルクバレエの大ファンで、今回のドイツ旅行の目的の一つは、ハンブルクでバレエを観ることで、すでにチケットも買っていたのだ。ハンブルクに住んでいる人と知り合えるなんて、なんて運がいいんだろう。
 
「えーっ! ハンブルクですか? 実は私はハンブルクバレエの大ファンで、来週ハンブルクに行くんですよ。
今年の冬にハンブルクバレエが日本で椿姫の公演をしたんですが、残念なことに私は会社の会議で行けなかったんです。椿姫を見た友人が、もう卒倒しそうに素晴らしかったわ、今まで見た最高のバレエだった、と大絶賛していて、それを聞いてめちゃくちゃ悔しかったんです。それで、日本のバレエ雑誌で、5月に椿姫をハンブルグでやることを知って、絶対見に行こうって思ったんです、椿姫のチケットも買ってあるんですよ」
 
「ええー!そうなの?」 とさすがに彼女は驚いたようだったが、
「来週、ハンブルクに来るの? 私たちも椿姫を見に行くのよ。じゃあ、またその時会えるわね」 とまた盛り上がった。
 
開演のベルが鳴り、バレエが始まった。ダンサーが至近距離で踊っている。表情もよく見えるし、彼らの息づかいまで聞こえてくる。すごい、一番前で見ると、こんなにも迫力があるんだ。
 
無駄な筋肉が一つもない美しい肉体、優美な動き、繊細な感情表現に見惚れているうちに、あっという間に時間が過ぎた。
 
公演が終わって、帰ろうとしている私に、モニカさんは話しかけた。
「よかったら、晩御飯を一緒にいかが? もちろん無理にとは言わないけれど、せっかくここでお会いしたんだし」
 
その言葉に私は考え込んだ。私の中には「旅のリスク管理マニュアル」があって、「乗り物では寝ないこと」「小銭は分けて持つこと」などいろいろな項目がある。中でも最も重要な項目が、「初対面の人に誘われても絶対に家や食事に行かないこと」だった。何かが起こったときに、知らない土地で自分を守る自信はないから、今までも食事などに誘われても、すべて断ってきたのだ。
 
しかしこの時は、ものすごく気持ちが揺れた。一人旅で一番寂しいのは食事の時だ。特にヨーロッパでは、食事にはだいたいカップルで来るから、 一人でレストランに入るのは勇気がいる。私はいつもスーパーで何かを買って帰って、ホテルで一人で食べていた。もう何日もの間、人と一緒に食事をしていなかったし、人とゆっくり話をしたこともなかった。携帯電話もネットそんなに発達していない時代だから、今のように友人にラインすることもできず、夜ベッドに入ると、ひとりぼっちで淋しいと思うこともあった。モニカさん夫妻と食事をして、バレエの話ができたら。どんなに楽しいだろう?
の間で張りが
私の頭の中では、「絶対にやめるべき。何か起こってからでは遅い」という考えと「何も起こりっこないから、行って楽しい思いをしたほうがいい」という考えの間を針が行ったり来たりしていたが、最後は楽しい食事の方に軍配があがった。「ご一緒させて下さい」と私が言うと、二人はにっこり微笑んだ。
 
私たちはそれから食事に行き、楽しいひとときを過ごした後、彼らは私をユースホステルまで送ってくれ、「また来週会いましょうね」 と言って別れたのだった。
 
 
 
それから私は音楽の街ライプチヒや、魔女の街ヴェルニケローゲなどを訪れた後、ハンブルクに行った。ホテルに荷物を置いて、モニカさん夫妻と待ち合わせしているハンブルク州立歌劇場に向かう。
 
ご夫妻はもういらしていて、多くの友人達に囲まれていた。めざとく私を見つけたモニカさんが私に近づいてきて、「ハンブルクへようこそ。私たちのバレエファンクラブの仲間を紹介するわ」と言って、お友達に紹介してくれた。既に私のことを話していたらしく、「あなたが、わざわざ日本からハンブルクバレエを見に来たクレイジーなファンね」 とみんなに笑顔で言われた。
 
ハンブルクバレエの椿姫は私の予想を遙かに超えて素晴らしく、はるばるここまで見に来て良かったと心から思った。 今までは幕間には、一人でうろうろしていたが、今見たばかりのバレエの感想を人と話すことが出来る。それがとても楽しかった。
 
バレエが終わったあと、モニカさん夫妻は「せっかくここまで来たんだから、楽屋口に行きましょう」と楽屋口に連れて行ってくれた。私は今まで楽屋口など行ったことがなく、舞台を終えたダンサーたちが出てくるのを、目を丸くして見ていた。
 
彼女たちは、ほとんどのダンサーと知り合いらしく、いろんなダンサーと話をしている。歌舞伎の後援会の人が、役者さんと話をするような感じなんだろうな、と思いながら見ていた。
 
間近で見るダンサーたちは、思ったより小柄だったが、ちょっとしたしぐさ、立ち振る舞いが美しい。ぼんやりと眺めていたら、モニカさんは、私に手招きをし、いろんなダンサーのところに連れて行き、わざわざ日本からきたから、サインしてあげて、と言ってくれた。わっ、ダンサーと話をするなんてはじめてだ。主役の2人をはじめ、いろんなダンサーと思いがけず話をすることもでき、私は驚くやら嬉しいやらで頭がぼーっとしていた。
 
「ジョンがいるから、彼のサイン貰いましょう。ジョンがこの楽屋口から出てくることはめったにないのよ。あなたホントついてるわ」
めざとく芸術監督で振付家のジョン・ノイマイヤーの姿を見つけたモニカさんは、私を彼の所に連れて行くと、「この女性は、わざわざ日本からあなたのバレエを見に来たんですよ」と言ってくれた。ノイマイヤーさんはにこやかに「わざわざありがとう」と言ってサインをしてくれた。うわあ、ノイマイヤーのサインまでもらっちゃった。帰ったら友達にに自慢しよう!
 
モニカさん夫妻と一緒に食事に行き、ホテルに送ってもらい、長かった一日が終わった。
「あなた、今度ハンブルクに来ることがあったら、うちに泊めてあげるから、来る前に連絡していらっしゃいね。できたら夏のバレエ週間の時にいらっしゃい。たくさんの演目を日替わりで見ることができて、楽しいわよ」 と別れ際に、ご夫妻は言ってくれた。
一人ぼっちの旅の最後に、お盆と正月がいっぺんにきたみたいだ。私は、世界的な振付家とダンサーたちのサインで一杯になったプログラムを眺めながら思った。
 
翌日、私は偶然の出会いとご夫妻の優しさに感謝しながら、たくさんの思い出を胸に日本に帰った。
 
 
 
その後も、モニカさん夫妻とは時々連絡を取り合っていた。翌年の春に「今年のバレエ週間にハンブルクに来るんなら、うちに泊まったら?」とまた彼女が連絡をくれた。
 
ドイツの家庭ってどんな感じだろう? せっかくだから行っちゃおうかな、と夏に再びハンブルクに行った。空港にはその日来れないモニカさんの代わりに、「JUNKO」という札を持って息子さんが迎えに来てくれていて、私を家まで連れて行ってくれた。息子さんは、全然別のところに住んでいると言う。わざわざ私を迎えに来てくれて、本当に感謝しかない。家に着くと、暖かい笑顔でモニカさんご夫妻が迎えてくれた。
 
家の中は白が基調で家の中が明るく、日本の家よりも天井が高い。居間には、古めかしい肖像画や落ち着いた絵がかかっている。おばあさんの時代に描かれた絵だそうだ。私は、ダイニングの壁にびっしりと飾ってあるダンサーの写真に思わず目を奪われて真剣に見つめる。居間から見るお庭は鼻が咲き乱れていて綺麗だった。
 
この滞在中にいろいろとお話を聞くことができた。ご主人は元エンジニアで、既にリタイヤされておられる。ドイツの歴史などについていろいろ教えてくれた。アクティブなモニカさんは、テニス好き。ガーデニングも大好きで、お庭には色とりどり薔薇や季節の花が咲いてとても綺麗だ。お子さんは私を迎えに来てくれた息子さん以外に、大学院にいっているの息子さんとその弟さんとい3人の息子さんがいた。旦那さんをはじめ、みんなすごく背が高く、身長170センチの私が見上げなければならないくらいだった。
 
結局モニカさん夫妻の家に1週間くらいお世話になった。天気がよければ、庭でゆっくりと朝食を食べて、買い物にいったり、二人が行っているスポーツジムに連れて行ってもらってエアロビをしたり、近所の農家に自転車でイチゴ摘みに行ったりした。観光名所の市庁舎や動物園、美術館にも行った。
 
スーパーでの買い物は楽しい。チーズやハムの種類が恐ろしくたくさんある。野菜や果物は箱の中にドンと山盛り入れられていて、自分で必要な量だけ取って買う。日本の半額以下じゃないだろうかと思うぐらい野菜や果物類は安い。
 
バレエも毎晩のように見に行った。ご夫妻と一緒に行くこともあったし、彼女たちが行かないときは一人で見に行った。劇場で会う知り合いもだんだんと増えていった。私が一週間で日本に帰ると言うと、彼らには「日本みたいに遠いとこから来て、何で1週間しかいないの?」と真顔で聞かれた。
 
ドイツ人の働き方について聞いてみたら、朝は7時過ぎに会社に行き、終わるの4時ぐらいで、夜はゆったりと過ごすそうだ。うらやましいと思ったのが有休の多さで、年間で6週間の有休を、みんな完全消化するらしい。それで、みんな7月になると、バカンスで南の島に行ったりしているんだなあ。驚いたのは、風邪や病気の時用には別に病気休暇があることだった。
 
休みがたくさんあってうらやましい。これだけ休みが多くても、ドイツの労働生産性は非常に高い。あれから20年近く経った今でも、日本の労働生産性の低さは相変わらずだ。
 
食事も生活も、堅実で質素な生活をしているけれども、貧しい人のために毎月寄付をしたり、旧東ドイツの親戚のために何か送ったりするモニカさん夫妻の姿を見ていて考えさせられることも多かった。
 
ベルリンの壁の崩壊後の話や、旧東ドイツの人々との軋轢、トルコからの移民の問題、など、日本では遠い異国の話として聞いていた話が、ドイツに来ると現実的で身近な話になる。
 
 
 
それから役20年の間に、何回かハンブルクに行った。はじめはバレエを見るために行っていた私だが、だんだんモニカさん夫妻に会うほうが楽しみになった。ご夫妻のホスピタリティ、堅実な考え方、常に人に親切にするという考え、など、彼らから学んだことはとても多い。。私がはじめて会った時に大学生だった息子さんは、いつのまにか結婚して3人のお子さんのパパになった。ご夫妻も孫が小さい頃はよく預かって世話をしていて、楽しそうだった。子供たちの成長を見ていると、本当に時が経つのは早いなあと思う。
 
モニカさん夫妻と出会ったことは、憧れのスター選手に会うような、強烈な体験ではなかった。でもあの偶然の出会いは、線香花火のように、長い間チカチカと燃え続けて、私の生活に彩りを与えてくれ、私の生き方や考え方にも影響を与えてくれた。そんな出会いに恵まれた私は幸せだ。
 
今は当分行けそうにないが、コロナが落ち着いて海外に行けるようになったら、彼らに会いにハンブルクに行こう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
西野順子(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)

神戸出身。電機メーカーで人材開発、労務管理、採用、システム開発等に携わる。2020年に独立し、仕事もプライベートも充実した豊かな生活を送りたい人のライフキャリアの実現を支援している。キャリア・コンサルタント、社会保険労務士、通訳案内士

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

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2021-05-24 | Posted in 週刊READING LIFE vol.129

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