先にニュースで知っていた旗手《2020に伝えたい1964》
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
1964年のオリンピック東京大会前には、現代程ではないにしろ、歴代のオリンピアンのドキュメンタリー番組やニュースが多く放映されていた。
当時、5歳の幼稚園児だった私は、その全てを記憶してはいなかったが、いくつかの人名や事柄を、今でもしっかりと想い出せるものがある。それ程までに当時のテレビは、東洋初のオリンピックを盛り上げようとしていた。
オリンピックが始まる数か月前、不思議な映像がテレビから流れてた記憶が有る。子供の目を通すと、日本人選手によく似た東洋人選手が、練習の手を停めてインタビューに答えているかの様に見えたのだ。
流暢な日本語で受け答えするその選手には、国名も含めて、何やら漢字の名前がテロップで流れた。ただ、名前の横に出て来る国旗は、日本のものでは無かった。
私はその選手の事を、開会式の入場行進で再確認したと記憶している。
NHKのテレビ画面では、鈴木文弥アナウンサーが、
「続いては、台湾選手団の入場であります。旗手を務めますのは、前回ローマ大会の陸上十種競技銀メダリストの“アジアの鉄人”楊伝広(ヨウ デンコウ)選手であります」
と、“TAIWAN”と書かれたプラカードに続く、“青天白日満地紅旗(せいてんはくじつまんちこうき)”を堂々と掲げた旗手を紹介していた。
楊伝広選手は、ニックネームが示す通り、陸上十種競技の選手だ。この競技のチャンピオンは、『King of Athlete』の称号で呼ばれる。複数の種目でトップクラスの力量である万能選手好む、欧米的考え方からくる称号だ。
今回、55年前の記憶を探るに当たり、いろいろと調べてみた。その結果、新たな事実も知ることが出来た。
先ず、陸上競技の十種競技(デカスロン)のこと。
今では、トライアスロンの出現により誰でも知られる存在となった十種競技だが、始まりは意外と古く、1904年に開催された第3回オリンピック・セントルイス大会から正式競技となった。
競技は2日間連続で行われ、1日目は100m走・走り幅跳・砲丸投・走り高跳・400m走。2日目は、110mハードル走・円盤投・棒高跳・やり投・1,500m走。たった2日間で、短距離走X3・投てき競技X3・跳躍競技X3・中距離走X1をこなすのだから、陸上の王者という称号も納得がいくところだ。各競技のタイムや記録を、既定のポイントに換算し、その合計得点で争うのが陸上十種競技だ。
当然、陸上競技が発祥したヨーロッパ各国から、歴代チャンピオンが多く出ている。勢い、他の陸上競技と同じ様に、日本を含めたアジア勢の活躍は、滅多に見ることが出来ない。
そんな中、元々陸上短距離種目の選手だった楊伝広選手は、日本だけでなくアジア全体の期待の星となった。
台湾の台東市出身の楊伝広選手は、アミ族という台湾の原住民を先祖に持つ選手だ。俗に言う“内省人”で、大陸からやって来た“外省人”ではなかった。険しい山が多い台湾の原住民族なので、アジア民族の中では極めて身体能力が高く、スポーツ選手として理想的ではあった。
1933(昭和8)年の生まレということは、幼少期(12歳の途中)までは、日本の教育で成長したと考えられる。したがって、私が記憶していた『楊伝広選手が、流暢な日本語で受け答えしていた』は、多分、間違いないことだろう。
ネットで見付けることが出来た、楊伝広選手の唯一の写真でも、日本製のスパイクを履いていた。このことからも、日本と相当関わりの強い選手だったことが分かる。
1954年にフィリピンのマニラで開催されたアジア競技大会において、楊伝広選手は、陸上十種競技で金メダルを獲得する。次いで、1958(昭和33)年に東京で開催されたアジア競技大会では、110mハードルと走り幅跳で銀メダル、400mハードルで銅メダルを獲得している。そして十種競技では、見事に連覇を果たしている。
この頃から『東洋の鉄人』の称号で呼ばれる様になる。
アジア中の期待を背負った形で、1960(昭和35)年オリンピック・ローマ大会に、楊伝広せんしゅは出場する。今回、英文で残された記録を紐解いてみると、驚くべき事実が分かった。
楊選手は、100m走・110mハードル走・走り幅跳・走り高跳・棒高跳で、1位を記録した。しかも、110mハードル走では、アジア新記録を出していた。そればかりか、走り幅跳でもアジア・タイ記録だった。その上、400m走も2位だった。欧米人が得意とする短距離系種目で、これだけの上位に来るということは、まさに『東洋の鉄人』の面目躍如である。
ところが、あまり得意ではない1,500m走が12位だった。そして、専門外であった投てき競技の中で、やり投は何とか4位と健闘したものの、円盤投は11位・砲丸投は14位と大きく遅れてしまった。
その結果、楊伝広選手は、アメリカ合衆国のレイファー・ジョンソン選手に逆転を許し、銀メダルという結果に終わった。
金メダルのジョンソン選手は、楊選手が苦手とする投てき競技で確実に得点を重ね、短距離走と跳躍競技ではトップを走る楊選手に必死に喰らい付いていった。そして、楊選手が1位を逃した1,500m走と砲丸投で、トップの記録を叩き出した。派手さは無いもののその堅実さが、金メダルの要因だったようだ。
この二人の争いは、オリンピック史上屈指の名勝負として語り継がれることとなった。
得点は、3位に入ったソビエト連邦の選手が、7,809点だったのに対し、金メダルのジョンソン選手が8,392点、楊選手が8,334点と大差のワンツー・フィニッシュだった。しかも、二人の得点差58点は、まれにみる僅差だった。
因みに、東京大会の陸上十種競技金メダルの得点が、7,887点だったことからも、二人の凄さが解かってくる。
楊伝広選手はその後、東京オリンピックの前年1963年4月の陸上大会で、当時の世界記録も達成する。当然、翌年の東京での期待が高まった。入場行進での旗手の役目は、当然といえば当然だった。
それは日本でも同じで、オリンピック前には、5歳の子供が観られる様な時間に、楊伝広選手のドキュメンタリー番組が放映されたり、ニュースで取り上げられていたことにも納得出来ることだ。
オリンピック東京大会では、得意の短距離種目で思う様に記録を出せなかった楊伝広選手は、それでも苦手だった投てき種目で何とか巻き返し、5位に入賞した。期待されたメダル、それも金メダルには手が届かなかった。
しかし、陸上競技に十種競技という総合力を問う素晴らしい種目が有ることを、アジア圏の人々に楊伝広選手は知らしめた。
特に、母国の台湾では、現在も陸上競技の英雄として、日本で例えると織田幹雄(日本初の金メダリスト・アムステルダム大会陸上三段跳び)の様な存在となった。その為、東京大会での旗手姿が、僕等子供の目線からも、実に凛々しく見えたものだった。
両親と同い年の楊伝広選手。僕には多分、昔の礼儀正しい日本の大人の姿と、映っていたのだろう。
❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。
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