2020に伝えたい1964

最後のゴールに沸き起こった大拍手《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

今年(2019)年に開催され、大盛況を見せたラグビーワールドカップで分かる通り、日本人は本物の競技を観ると盛り上がるものだ。また、判官贔屓的応援をするものだ。
これは、55年前の第18回オリンピック東京大会でも、見られた光景だった。
 
現代と違い、1964(昭和39)年当時は、テレビでのスポーツ中継自体が少なかった。大相撲中継と、プロ野球(特に巨人戦)の中継はあったが、その他の球技、水泳や陸上競技等を、オリンピックで初めて観る機会を私達は得るのだった。
もっとも、競技自体を知らなかった訳では無い。スポーツニュースは、その頃から各局で放映されていたし、陸上競技は、体育の授業や運動会でお馴染みだった。
ただ、いくら世界の一流選手が揃っていたとしても、陸上競技観戦で盛り上がるとは思っていなかった。
 
ところが、1964年10月14日、陸上競技が始まるとその独特の緊迫感に、当時5歳だった私は、目が吸い寄せられた。
初日の午前中には、短距離種目の予選が行われた。お昼の休憩を過ぎると、男子10,000m走がスタートした。当時は、長距離走種目は男子のみだった。また、10,000m走は予選が無く、いきなり決勝だったことを記憶している。
そしてもう一つ、現代と大きく違うことは、10,000m走に出場した選手の多くが、5,000m走や最終日のマラソンにも出場していたことだ。中には、1952年オリンピック・ヘルシンキ大会のエミール・ザトペック(チェコスロバキア・『人間機関車』と呼ばれた)の様に、同一大会の5,000m走・10,000m走・マラソンと3種目に出場した選手もいた位だ。因みに、ザトペック選手は、その全てで金メダルを獲得している。
現代では、5,000m走・10,000m走とマラソンでは、競技特性が違い別種目と考えられている。時代が何周りもしてしまった感がある。
 
東京オリンピックの10,000m走は、その劇的展開と予想外の結果から、後に大番狂わせのレースとして、多くの人に記憶されることになる。
私はというと、国立競技場のトラックを25周もする長丁場のレースでありながら、全く飽きずに観ていた記憶が有る。何故なら、トラックをただ走っているだけなのに、選手同士がぶつかり合ったり、何事か話をしていたからだ。
5歳だった私の目線では、先頭をキープする長身のオーストラリア選手、ロン・クラークが、このまま走り切るかと感じていた。実際、テレビ実況では、
「先頭は、世界記録保持者のクラークです」
と、いかにも本命が来たという様な、アナウンスを入れていた。世界記録保持者のクラークに対し、追う二人の選手は1分以上も遅い記録しかもっていなかったからだ。
 
10,000m走は、30分弱の間トラックを回り続ける競技なので、周回遅れの選手が出て来る。ルールで、抜かれる選手がコースを譲らなければならない。しかし、その分コースが狭くなる事が有るので、選手同士がどうしても接触する。長距離走とはいえ、全速力で走っていれば、たとえオリンピアンでもそう簡単に避けることは出来ないからだ。そして、周回遅れの選手を如何に抜くかということも、この種目の見所となる訳だ。
1964年10月14日のレースでも、最終盤にドラマが有った。周回遅れを抜く際に、先頭のクラークとアメリカの選手がぶつかった。そのこで、アメリカ選手は遅れたが、その隙を突いたチュニジア選手が一気にトップに立った。5歳の私には、チュニジアがどこに位置する国なのか知る由も無かったが、‘モハメド・ガムーディ’という、独特の響きの名前は記憶に残った。
レースは、ラストの直線に入った時に奇跡が起こった。3番手に遅れたアメリカの選手が、一気に捲りを掛け大外から先頭に立ちそのままゴールした。まるで、短距離走の様なラストスパートだった。
2位には、チュニジアのガムーディ選手。3位には、クラーク選手が入った。
優勝タイムは、28分24秒4。これは、当時のオリンピック新記録であり、ビリー・ミルズ選手が記録した初の28分台だった。
 
このゴールは、今回の話の1/3に過ぎない。
 
東京オリンピックの陸上競技で、最初の表彰台に立った3選手は、この後も他競技を続けた。
ビリー・ミルズ選手とロン・クラーク選手は、マラソンにも出場した。ミルズ選手は、14位という結果だった。クラーク選手は、10km付近までアベベ選手以下を抑え独走していたが、中盤から失速し9位でフィニッシュした。
モハメド・ガムーディ選手は、5,000m走に出場した。順調に予選を突破したが、体調不良により決勝は棄権した。
私は後に、この3選手のことを、それぞれ再会することになる。
 
先に蛇足から入ってしまうが、優勝候補の一角で10,000m走4位だったエチオピアのマモ・ウォルデ選手は、レース中の接触でメダルに手が届かなかった。マラソンにも出場したが、その時のケガが原因で、途中棄権の憂き目にあった。
マモ・ウォルデ選手と再会したのは、1968年のメキシコ・オリンピックでのこと。空気の薄い高地でのレースに苦しむ選手達の中で、高地出身のマモ・ウォルデ選手は、何事も無かったように苦しさを見せず、トップでゴールした。エチオピアは、オリンピックのマラソン競技で3連覇となったのだった。
 
改めて、銅メダルのロン・ウイリアム・クラーク選手。
東京オリンピックで、人間機関車ザトペックの再来を期待(5,000m走・10,000m走・マラソンの三冠達成)されたクラーク選手だったが、獲得したのは10,000m走の銅メダルのみだった。メキシコ・オリンピックにも出場したが、高地の空気の薄さを克服出来ず、途中棄権してしまった。
数回の世界記録更新はあったものの、陸上競技選手としては不完全燃焼だったクラーク選手が、21世紀に入ってから、嬉しいニュースを私に届けてくれた。アテネ・オリンピックが開かれた2004年、人気の観光地であるオーストリアのゴールドコースト市の市長に、“ロナルド・ウイリアム・クラーク”という男性が、市長選に当選した。私は、
「ロン・クラーク選手と同姓同名の人が、市長選に当選したんだ」
と、思っていた。ところが、国際ニュースで観た新市長の顔は、東京オリンピックで颯爽と国立競技場のトラックを駆け抜けていた長身ランナーのそれだった。
私は、思わず嬉しくなった。
クラーク選手は、2015年に惜しくもお亡くなりになった。
 
次に、銀メダルのガムーディ選手。
1968年のメキシコ・オリンピックで、5,000m走と10,000m走に出場したガムーディ選手は当然の様に、金メダル・銅メダルを獲得した。その際は、太平洋を隔てた私は、テレビを通じ全力でなじみとなったモハメド・ガムーディ選手を応援した。5,000m走で金メダルを獲得した表彰式では、初めて聴くチュニジア国歌と、初めて見る赤地に白い三日月のチュニジア国旗が深く印象に残った。
次いで、1972年のミュンヘン・オリンピックでも私は、ガムーディ選手に再会する。34歳のベテラン選手になっていた金メダリストは、並み居る若手を引き連れトップを走ったかと思うと、2位でフィニッシュした。
合計4個のメダリストは、現在も元気に御存命とのことだ。是非、来年の国立競技場に御招待したいものだ。
 
金メダリストのビリー・ミルズ選手とは、1984年に再会した。
映画館での再会だった。『ロンリーウェイ(原題:Running Brave)』と題した映画は、その名の通り、孤独の中で努力し、金メダリストとなったウイリアム(ビリー)・ミルズ選手の伝記映画だった。余りヒットしなかったが、私は東京オリンピックのことも有り、真っ先に映画館に駆け込んだ。
ビリー・ミルズ選手は、アメリカの先住民であるスー族の出身だ。スー族といえば、南軍のカスター将軍を打ち破ったことでも有名な、勇猛果敢で知られる民族だ。ところが、1964年の東京オリンピック当時は、黒人の民権運動が起こった時代だったので、少数民族の先住民達も虐げられていた時代でもあった。
実際、ビリー・ミルズ選手も、進学等でいわれのない差別を受けた。特に酷かったのは、得意の陸上競技で大会優勝をしても、記念写真に載せてもらえなかったことだ。
このことにより、ビリー・ミルズ選手は‘世に知られない選手’となって仕舞い、東京オリンピックでも、全くノーマークの選手とみられていたのだった。ミルズ選手は、その事に触れ金メダル獲得後に、
「人々が私の金メダルが偶然だと思っていることを、いつも意外に思っている」
と、語っていた。
今回、この記事を書くにあたり調べて判明したことだが、この、ビリー・ミルズ選手が獲得した陸上10,000m走の金メダルは、同種目でアメリカ初のものだった。もっと、賞賛されても良かったと思える。
 
時計の針をもう一度1964年10月14日に戻す。
熱狂の中でゴールした10,000m走だったが、全てが終わる迄まだ3分以上を要した。
1位のビリー・ミルズ選手以下、数人の選手がゴールした後、遥か後方を周回遅れの選手達が次々とゴールラインを越えて行った。あと1周走る為だ。
それらの選手が、次々とゴールした。最後方でゴールラインを越えた小柄なランナーは、2周遅れだったのかまだ走り続けた。約1分後、その選手がゴールラインに近付くと、あと1周を知らせるベルが鳴らされた。この選手は、何と3周遅れだったのだ。
ナンバーカード67のその選手は、スピードを緩めることなく、ただ一人、誰も競う相手が居ないトラックを走り続けた。場内では、激励の意味の拍手が起こり、ゴールの瞬間には、最高潮に達した。激闘の先頭集団がゴールした時より、大きな拍手で讃えられたナンバーカード67の選手を観て、私は思わず涙が出てきた。諦めずにゴールを目指す姿に、感動を覚えたからだ。
この光景こそが、オリンピックの創始者ピエール・クーベルタン男爵が言った、
「オリンピックは、参加することに意義がある」
を象徴するものだと、私は後年、感じ入ったものだ。
 
私が中学生だった、1972(昭和47)年、ナンバーカード67の選手と再会する。
小学5年生に上がる弟が、使わなくなった教科書(4年生用)を処分しようとしていた。何気なく国語の教科書を手に取った私は、『ゼッケン67』と在ったページに目を止めた。
読んでみると思った通り、東京オリンピックの10,000m走で、3週の遅れを乗り越えゴールした選手のことが記されていた。時代が出ているのは、現在は差別用語に当たるとして使われない‘ゼッケン’という語句が、子供の教科書に載っていたことだ。
その選手とは、スリランカ(当時のセイロン)のラナトゥンゲ・カルナナンダという名の選手だった。省略はあったもののカルナナンダ選手の生い立ちと、オリンピックに出場するまでの苦労が記されていた。
私は、5歳の時に観た光景を思い出した。そして、ゴールの瞬間の感動は、決して間違っていなかったと確信した。学校の教科書に載るぐらいの事柄なのだから。
この時、カルナナンダ選手が残した31分台の記録は、彼の生涯最高タイムだった。そればかりか、しばらくの間スリランカの最高記録でもあった。
ラナトゥンゲ・カルナナンダ選手は、東京オリンピックの10年後、38歳の若さで事故により亡くなった。
 
クーベルタン男爵は、天国の入り口で、
「私の言葉を体現した選手」
として、賞賛と共にカルナナンダ選手に金メダルを授与したのではないだろうか。
 
私はこの記事を書くに当たり、そんな想像をしていた。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-11-25 | Posted in 2020に伝えたい1964

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