2020に伝えたい1964

裸足の王者と無名の新人。そして、もう一人の男と忘れ得ぬ盟友 〔後編〕《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

『父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、
良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、
光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になってください。
父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。』
全文(原文ママ)
 
これは、遺書だ。
文豪の川端康成は「千万言尽くせぬ哀切」、後輩作家の三島由紀夫は「傷つきやすい雄雄しい、美しい自尊心による自殺」と絶賛した。劇作家の寺山修司は「自殺というよりは他殺であった」と評した。
これを書いたのは、オリンピック東京大会のマラソンで、3位に入賞した円谷幸吉選手だ。
遺書が書かれたのは、東京オリンピックから3年3か月後の1968年1月9日のことだった。その9か月後には、メキシコシティでオリンピックが開かれる時期だ。剃刀で、頸動脈を切っていたことと、遺書が発見されたので、死因は自殺と断定された。
当時、小学校3年生で、東京オリンピックのことを鮮明に覚えていた私は、円谷選手死亡のニュースに衝撃を受けた。
 
まだ幼かった私は、
「東京オリンピックのマラソンで、銅メダルを取った円谷選手は、次のオリンピック・メキシコ大会でもメダルを獲得するだろう」
と、勝手に思い込んでいた。子供だけではない。日本中が、応援し期待を掛けていた。
ところが、当の円谷選手は、東京オリンピック以降、調子が上がらなかった。自衛隊員という生真面目な性格から、余計に練習をする内、完全にオーバーワークとなっていた。その結果、左アキレス腱を断裂した。
それが回復した後、遅れを取り戻そうと更なるオーバーワークを重ねた円谷選手は、腰痛に悩まされる様になる。椎間板ヘルニアだった。
手術は成功したものの、その後は以前の様な練習も出来ず、精神的に追い詰められていたらしい。
円谷幸吉選手の自殺は、そうしたケガが原因と思われた。それ程までに、日本中の期待が集中していたのだ。東京オリンピックの陸上競技に出場した65名の日本選手の中で、唯一の入賞者でメダリストだったので、仕方が無いことだったかもしれない。しかし、惜しむらくは、円谷幸吉選手が、日本陸上選手団の中で、ただ一人、自己記録を塗り替えた選手として記憶されていたならば、もっと正当な賞賛となったことだろう。
円谷選手は、生涯でマラソン出場は、僅か6レースだった。優勝は一度も無く、タイムも東京オリンピックでの、2時間16分22秒8が最高だった。
後年、メキシコの後のオリンピック・ミュンヘン大会が迫った頃、“ピンク・ピクルス”というフォーク・デュオが『一人の道』という曲を発表した。円谷選手の死を題材にしたその曲は日本中が、円谷幸吉選手に死を忘れていない証拠だ。
27年余りの、短すぎる人生だった。
 
連覇で金メダルを獲得したアベベ・ビキラ選手は、メキシコ大会にも出場した。結果は、途中棄権で、これが最後のレースだった。しかし、エチオピアの同僚、マモ・ウォルデ選手が金メダルを獲得し、エチオピアはオリンピックのマラソン競技で、三連覇を果たすことになる。しかも、マモ選手は、次のミュンヘン大会のマラソンでも銅メダルを獲得し、アベベ選手と並ぶオリンピック二大会連続メダリストとなる。
この様なことから、東京オリンピックのマラソン競技の記憶を辿ると、メキシコとミュンヘンの両大会がセットとなって思い出されてくる。
アベベ選手は、メキシコ大会の半年後、交通事故に遭い車椅子生活となってしまった。そして、1973年に41歳の若さで逝去した。死因は、交通事故の後遺症で、脳内出血によるものとされている。
 
東京オリンピック・マラソン競技のもう一人のメダリスト、英国のベンジャミン・ベイジル・ヒートリー選手。アベベ選手がゴールするまで、世界最高記録保持者だった。しかも、オリンピックのマラソン史上、二人目の“世界記録保持でのメダリスト”だった。もう一人は、オリンピック・ベルリン大会の孫基禎(ソン・キジョン)選手だ。
ヒートリー選手は、東京オリンピックのマラソンが、最後のレースとなった。
1991年、東京で開催された『世界陸上』に、ヒートリー氏は英国選手団の監督として来日した。
選手本隊より早目に来日したヒートリー氏が、円谷幸吉選手の故郷である福島県須賀川市に開設された『円谷幸吉記念館』を訪れたニュースを、私は新聞で読んで記憶している。
表彰台に上がり、観衆に手を振る3人の写真を見た時、
「もう、僕一人しか生きていないのか」
と、悲しそうな表情をしたと、記事にあった。
私が5歳の時に感じた、凄みの中の紳士な雰囲気が、そこにはあった筈だ。
ベンジャミン・ベイジル・ヒートリー氏は、今年(2019年)8月3日にライバル2選手が待つ天国に旅立ってしまった。86歳だった。
 
この物語には、もう一人、円谷幸吉選手にとって盟友というべき選手がいる。
同い年で東京オリンピックのマラソン8位(当時は入賞とは認められなかった)だった、君原健二選手だ。東京オリンピックの選考会で、円谷選手を抑えて優勝した君原選手は、有力なメダル候補と期待されていた。
そんな二人の出会いは、オリンピックの6年前の高校時代、山口県で開かれた国民体育大会だった。円谷選手は5,000m、君原選手は1,500mに出場した。結果は共に、予選落ちだった。
国体で決勝にも残ることが出来ない両選手だったが、時代が後押しした。東京オリンピック開催が決まり、どの社会人チームも選手獲得に躍起になっていたからだ。そこで、円谷選手は自衛隊に進み体育学校へ入学する。君原選手は、地元の名門チーム八幡製鉄(現・新日鉄八幡)に入社する。
後に君原選手は、
「名門チームに入ったことで周りの雰囲気が変わり、自分の実力も格段に上がった」
と、語っている。
 
東京オリンピックでは、期待を集めた君原健二選手だったが、結果は8位だった。当時を振り返ってインタビューに答え、
「マラソンのスタートが迫ると、今までに感じたことのない緊張感に縛られた」
と、語っている。
レースを振り返って、
「折り返し地点前で、先頭のアベベ選手とすれ違いました。どこか遊んでいるかのような軽い走りに見えました。後方の集団に円谷選手の姿もありました。さあ後半戦だ、がんばろうと思ったのですが、体が動きませんでした。やはり、緊張から力が出し切れなかったのでしょう」
と語っている。私の記憶では、8位でゴールした君原選手は、どこか悔しそうに見えた。
 
控室に戻った君原選手は、簡易ベッドに横たわる円谷選手を発見する。悲しそうな感じから、棄権したのかといぶかしく思ったそうだ。円谷選手の銅メダル獲得を知ったのは、表彰式直前のことだった。後に、あの悔しそうな表情は、競技場で、観衆の目の前で抜かれたことから来るものだと理解出来たそうだ。
それから二人は、オリンピック・メキシコ大会を目指して切磋琢磨する。その中で、メダル獲得に躍起となっていたのは、やはり円谷選手の方だった。
「メキシコでメダルを獲得することは、国民に対する約束なんだ」
と、円谷選手が言っていたと君原選手は語っている。競技場で抜かれたことが、悔しく恥ずべきことだと感じたのは、円谷選手の性格によるものだった。
東京オリンピックのマラソンを走っていた円谷選手の姿は、子供の私にも分かる程、生真面目に感じられたぐらいだった。
 
そんな中での、円谷幸吉選手の自殺だ。君原健二選手の無念は、想像を絶するものがある。君原選手はコーチと連名で、
「ツブラヤクン シズカニネムレ キミノイシヲツギ メキシコデ ヒノマルヲアゲルコトヲチカウ」
(円谷君 静かに眠れ 君に遺志を継ぎ メキシコで 日の丸を掲げることを誓う)
と、弔電を打った。
 
後年、君原健二氏は、円谷選手が自殺した原因が、周囲や国民の期待からくるプレッシャー以外に在ったのではと語っている。それは、東京オリンピック前に、ニュージーランドで行われた合宿の帰路でのことだ。香港にトランジットで寄った際、円谷選手はダイヤの指輪を購入した。当時の旅行者は、高価な宝石や貴金属を香港で買ったものだ。一緒に指輪を購入した君原選手は、
「円谷君は、指輪を渡す相手(婚約者)が居ると直感しました。私には当時、そんな相手が居なかったので、帰ってから母親に渡しました」
と、語っている。
そんな君原選手は、東京オリンピック後に知り合った女性と結婚している。一方の円谷選手は、結婚を決意した女性が居ながら、メキシコ・オリンピックを優先しようとするチーム上層部の反対で結婚が破談となっていた。
そんな時代だったと言ってしまえば簡単だが、家庭を持つことで練習に一層実が入った君原選手と、目標の為に自分の意志を通すことが出来なかった円谷選手との違いは、一言で片付けられるものでは無いだろう。
君原健二氏は、70歳を優に超えた現在でも、円谷選手の死の原因は、結婚に反対されたことだと信じているらしい。
そして、今回この文章を書くにあたり知ったことでは、円谷選手の長兄の自宅が、東日本大震災で被害を受けた際、円谷選手の手紙の束が出てきた。その一部が公開されており、円谷選手の死の原因は、君原氏の説に一層近付いたらしい。
 
紆余曲折があったものの、君原健二選手は、オリンピック・メキシコ大会のマラソンのスタート地点に立った。そこで、
「このスタートに本当に立ちたかったのは、円谷君だ。今日は、円谷君の為に走ろう」
と、心に誓った。
史上初の高地での開催となったオリンピック・メキシコ大会。そのマラソン競技で、君原選手は見事に銀メダルを獲得する。後に、
「これは不思議なことなのですが、私は競技場近くで後ろを振り向いたのです。そこに激しく追い上げてくる選手の姿がありました。普段の私は、レース中は極力、振り返りません。バランスを崩して、遅くなりますから」
と、語っている。そして、
「後で思ったことですが、これは円谷君の無念・教訓が、私を振り返らせたのではないでしょうか。円谷君は、小学生の時に後ろを振り返って、お父さんに厳しく叱られたことがあり、その後は決してレース中に後ろは見なかったそうです」
とも、語っている。さらに、
「東京オリンピックの国立競技場のトラックで、円谷君が振り返って英国のヒートリーの位置を確認していれば、彼に追い抜かれることはなかったかもしれない。そういう無念と教訓です」
と、回想している。また、
「私が2位を走っていることは分かっていました。1人に抜かれても表彰台には立てる。そうも思ったのですが、ここまで来たら絶対に追い抜かれまいと、必死に走りました。円谷君がメキシコで欲しかったのは東京と同じ銅メダルではなく、これを上回る金か銀メダルだったはずですから」
と、亡き盟友のことを想っていた。
君原選手は、2時間23分31秒で2位フィニッシュした。ライアン選手とは14秒差のゴールだった。さらに、盟友をたたえて、
「今、振り返ると、よくぞオリンピックのマラソンで銅メダル、銀メダルと続いたものです。私の場合は、円谷君の支援を頂き、円谷君と一緒に取った銀メダルだと思えるのです」
と、語っている。
 
君原健二選手は、次のミュンヘン大会にも出場する。31歳となっていて、期待が少なかった君原選手だが、見事5位入賞を果たす。東京、メキシコ、ミュンヘンと、それぞれ8位・2位5位のシングル・フィニッシュだった。これは、オリンピック史上初のことだ。
そればかりではない。君原選手は、オリンピック・ミュンヘン大会の翌年(1973年)に第一線を退くまで、全てのマラソンを完走した。そして、それこそが誇れると語っている。
マラソンの完走は、一般市民ランナーとなった現在も続き、東京マラソンや盟友の名を冠した“円谷幸吉メモリアルマラソン”に出場している。そして、完走している。
2016年には、71歳の体で『ボストンマラソン優勝50周年特別招待』を受け、優勝当時と変わらぬ声援を受けた。勿論、完走している。
 
そして、君原健二氏は、盟友・円谷幸吉選手の墓参を、毎年欠かしたことがないという。
 
メダリスト全員が天国へ召された1964年の東京オリンピック・マラソン。
彼等の走りを体験した君原健二氏は、来年の東京オリンピック・マラソンにどんな声援を贈るのだろう。
 
 
 
≪終わり≫
 
 

〔追記〕
今回は、マラソンがテーマだったので、特別に記します。
本連載を書く切っ掛けでもあるNHKの大河ドラマ『いだてん』が最終回を迎えた。主人公の一人、金栗四三(かなくりしそう)氏の晩年エピソードに、筆者が伝えたいものが省略されていました。
東京オリンピックの3年後、オリンピック・ストックホルム大会55周年を記念して、金栗氏の元に届いた招待状は、
『貴方は1912年7月14日、ストックホルムのオリンピックスタジアムをスタートしてより、一切の届出がなく、未だに世界のどこかを走り続けているのでしょう。スウェーデンオリンピック委員会は、あなたに第5回オリンピック大会のマラソン競技を完走することを要請いたします。』
と、いうものでした。75歳になっていた金栗四三氏は、ストックホルムに赴(おもむ)き、行方不明になったと思われる地点からオリンピックスタジアムまで、自動車で向かいました。そして、スタジアム内をゆっくりと走って、用意されたゴールテープを切った時、場内アナウンスが流れました。それは、
『日本の金栗選手、ただいまゴールイン!タイムは、54年と8カ月6日5時間32分20秒3。』
更に、こう続けて
『これをもちまして第5回ストックホルムオリンピックの全日程を終了いたします。』
場内は、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こりました。
 
北欧らしい、何とも心憎い粋な演出でした。
これこそ、真のオリンピック精神だと、筆者は思います。信じます。

 
 
 
 
【注】文中、君原健二氏の回想表記は、一部、産経新聞2019年7月に掲載された『話の肖像画 マラソンランナー・君原健二』のインタビューを参考にした

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

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2019-12-23 | Posted in 2020に伝えたい1964

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