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2020に伝えたい1964

日本初の金メダルが、後に十字架となった《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 
2012年、オリンピック・ロンドン大会のボクシングミドル級で、村田諒太選手が金メダルを獲得した。
その時私は、48年前の5歳だった時を思い出していた。
 
祖父母と離れて暮らしていた私は、たまにしか会えない為か、意外と多くの影響を受けながら成長した。毎年正月には、父の実家に挨拶へ連れていかれていた。私が4歳だった時の正月、当時よく特番で組まれていたボクシングの試合を、テレビ観戦したことを記憶している。新年早々、親の実家でボクシングとはどこかおかしいと思われるかもしれない。それは、私の祖母が、明治生まれにもかかわらず大変ボクシングが好きだったからだ。祖母は、剣道師範の一家に生まれ、二人の兄をそれぞれ旧帝國陸海軍の士官学校へ行かせた環境で育ったので、格闘技、特にボクシングに興味を持ったのだそうだ。
当時、祖母の贔屓選手は、後の世界チャンピオン・ファイティング原田選手、そのライバルの青木勝利選手、そして、オリンピック・ローマ大会の銅メダリストの田辺清選手だった。私の記憶では、その時にテレビ観戦したのは、青木選手と田辺選手の二試合だった。
少し横道に逸れるが、当時のボクシング界は、現在とは大きく異なっていた。先ず、世界チャンピオンは8人しか居なかった(現在、68名!)。従って、同じく8名しかいなかった日本チャンピオン(正確には6名)や東洋(現・東洋太平洋)チャンピオンも、大変貴重な存在だった。同時に、世界タイトル戦ばかりでなく、日本タイトル戦でもゴールデンタイムのテレビ中継がよく行われていた。何しろ、世界タイトルマッチともなると、テレビ中継の視聴率が60%を超えることもあったというから驚くしかない。
しかも、現在の日本ボクシング界とは大きく隔たり、日本の選手は階級制が有るボクシングにもかかわらず、体格的に見劣りしたものだった。そのうえ、コ―チング技術も世界のそれとは大きく遅れていて、精神論が前面に出た時代遅れのものだった。
また、オーディエンス(観客)も戦前戦中生まれの方が多かったせいか、ボクシング本来の“打たせない技術”よりも、勇猛果敢に攻めまくる敢闘精神を喜んでいた傾向があった。
そんな人気選手の代表格が、世界チャンピオンで後に世界ボクシング殿堂入りを、日本人として初めて果たしたファイティング原田選手だった。リングネーム通り、試合開始と同時に両拳を振り回し、防御を顧みず打ちまくるスタイルが、人気を博していた。
 
そんな、ファイティング原田選手と正反対だったのが、田辺清選手と東京オリンピックのバンタム級に出場した桜井孝雄選手だった。何故なら、田辺・桜井の両選手は、オリンピック出場経験がることからアマチュアボクシング出身だったからだ。奇しくも二人は、当時、大学ボクシング界を席巻していた中央大学の同窓(田辺選手が2年先輩)だった。
現代と違い、ボクシングのプロとアマチュアのスタイルが大きく違い、防御でも採点がもらえるアマチュアには、攻撃的選手がほとんど存在しなかった。その結果として、人気が有りテレビ中継も有ったプロの試合は多くの観客が押し寄せたのに対し、アマチュアの試合は観客どころか注目もされなかった。ただ、オリンピックや国体の競技種目だったので存在したようなものだった。
 
今回、アマチュアボクシングに関して調べてみたところ、近代オリンピックに於いてボクシングは、1904年の第3回オリンピック・セントルイス大会から正式種目になっていた。格闘技としては、レスリングに次ぐ歴史を持っている。
日本のメダリストは、ローマ大会の田辺選手(フライ級)が初だ。1960年のローマ大会のボクシング競技では、有名選手が多く出場していて、特に、ライトヘビー級で金メダルを獲得した後の世界ヘビー級チャンピオンモハメッド・アリ(当時、カシアス・マーセラス・クレイ)選手が有名だ。現に、1996年のオリンピック・アトランタ大会の聖火最終ランナーに、モハメッド・アリ氏はパーキンソン病を患っているにもかかわらず選ばれている位だ。
他にも、サンドロ・ロポポロ、カルメロ・ボッシの地元イタリア人メダリストが居た。共に、世界チャンピオンになった両選手は、奇しくも日本でタイトルを失ったこと(藤猛選手と輪島功一選手)で、日本のボクシングファンの記憶に残ることとなった。
 
東京オリンピックのボクシング競技は、現在東京ドームホテルが建っている場所にあった後楽園アイスパレスに特設のリングを設(しつら)えて行われた。スケートリンクとして使われていた時は、入場ゲート右手にオリンピック・ボクシング競技各階級金メダリストの名が、記念レリーフとして飾られていた。
出場した中では、ヘビー級で金メダルを獲得し、後にモハメッド・アリ氏と激しく世界タイトルを争ったジョー・フレージャー選手が有名だ。そして、バンタム級に出場した桜井孝雄選手が、日本初のボクシング競技の金メダルを獲得した。
ただ残念なことに、当時5歳だった私は、桜井選手の金メダル獲得を余り鮮明に記憶していない。何故なら、ボクシング競技の決勝戦は、1964年10月23日に軽い階級から順々に行なわれたからだ。私は確かに、各階級の決勝戦をテレビで観ていたのだが、2戦目のバンタム級は桜井選手と韓国の選手で決勝が闘われた為、他の階級と比べてどこか迫力が無かった印象が残っている。それ程までに、当時、アジアのボクシング技術は外国に比べて遅れていたのかも知れない。
ただ、5歳だった私には、桜井選手が当時珍しいサウスポーで、他の選手と反対の右拳をリードブローに使っていた姿を不思議に感じていた。しかしそれは、違和感ではなく、どこか格好良く見えていた。
 
桜井孝雄選手に関して、私はむしろ、プロに転向してからの方が印象に残っている。それも、残念なことにあまり良い印象ではない。
アマチュア出身の桜井選手は、“打たさず打つ”という典型的なアマチュアスタイルを貫いていたからだ。プロ転向後も、インタビュー等の受け答えがとてもクールだった。
桜井選手は、そのボクシングスタイルや態度が災いして、人気選手にはなれなかった。彼に試合後には、『安全運転』の文字が必ずといっていい程、新聞紙面に載ったものだ。勝ってもK.O.勝ちが少なく、大差ではあったが判定勝ちばかりだった。これでは、当時の敢闘精神好きな日本のボクシングファンには、人気が出る筈も無かったのだ。
そんな桜井選手を何とかしようと、所属ジムの三迫仁志会長は、屈(かが)む様に
大きくダッキングして直ぐに打ち返す、“かえる跳び”を考案したという。しかし、身体を左右に揺さ振り相手パンチを避けるウィービングを多く使うアマチュアボクシングの癖が抜けず、桜井選手は“かえる跳び”を習得出来なかった。
この“かえる跳び”を後年体得し、世界チャンピオンに成ったのが、三迫ジムの後輩の輪島功一選手だ。
 
それでも、桜井孝雄選手は1968年7月に、同年2月にファイティング原田選手からタイトルを奪ったライオネル・ローズ選手(オーストラリア)に挑戦している。この試合、桜井選手は序盤で珍しくダウンを奪った。後半に差し掛かる迄は、明らかにポイントでリードしていた。ところが、中盤を過ぎる辺りから、いつもの『安全運転』が始まり、結局は僅差の判定で世界タイトルに手が届かなかった。
桜井選手はその後、東洋タイトルは獲得したものの、二度と世界タイトルには挑戦しないまま引退した。
『安全運転』を地で行くボクシング人生だった。
 
桜井孝雄選手は、プロとアマチュアに厳格な壁が存在した時代のボクシング界を象徴する選手でもある。
オリンピックで金メダルと獲得した選手なので、期待されてのプロ転向だった筈だ。ところが、オリンピック後は母校の職員として残り、後進を指導する約束を金メダル獲得前にしていた為に、三迫ジム入り発表時、アマチュアボクシング界からは、裏切り者となじられたそうだ。現に、プロ入りが原因で桜井選手は、母校のOB会名簿に載せてもらえないでいる。また、受賞する筈だった文化章も取り消されている。
プロ入りしてからは、ディフェンス重視のアマチュアスタイルが嫌われ、陰では、
「所詮、アマチュア出身」
と、叩かれた。
まるで、日本初の金メダルを獲得したが為に、その後の人生が狂ってしまった様にも見える。
 
引退後の桜井孝雄氏は、余り表立った活動をせず、2012年1月、70年の人生に幕を閉じた。死因は、食道癌。癌が発見された時には、余命1年が告げられていた。
桜井孝雄氏が亡くなったのは、オリンピック・ロンドン大会の半年前のことだ。
まるで、自分のみが日本人金メダルボクサーだと、誇りたかったのではと私は感じてならない。
 
そしてもう一つ、私は思うことがある。
桜井孝雄選手と同じく、東洋バンタム級チャンピオンには成ったものの、世界タイトルに手が届かなかったボクサーに、漫画『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈が居る。
『あしたのジョー』の原作者・高森朝雄(梶原一騎)氏は、真っ白になる迄燃え尽きたジョーの姿と通して、日本のボクシングファンが思い描いた理想的な桜井孝雄選手を表現しようとしたのではないか。
 
今では私は、ディフェンスがしっかりしたサウスポーボクサーを贔屓にしている。
多分、桜井孝雄選手を観た時の印象が強く残っているからだろう。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2020-03-09 | Posted in 2020に伝えたい1964

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