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2020に伝えたい1964


1964年には、新語ならぬ新諺が存在した《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 
『鬼に金棒』という諺(ことわざ)がある。素手でも強い鬼が、鉄の棒迄持ったら余計に強くなるという意味で使われる。転じて、強い立場の者がより良い条件を得て一段と強く為る意味でも使われる。
この諺には続きがあり、『弁慶に薙刀(なぎなた)』だそうだ。反対語は『陸にあがった河童(かっぱ)』。英語でも同じ意味の諺があり『Adding wings to a tiger.』(虎に翼)という。
 
1960(昭和35)年頃、日本では『鬼に金棒』と語呂合わせの新しい諺が出現した。正確には、『鬼に金棒』を接頭語的に用いることが多かった。その諺とは、
『鬼に金棒、小野に鉄棒』
というものだった。語呂が良かったことから、子供でも直ぐに覚えることが出来た。今回調べてみたところ、この新諺は、ラジオで中継を担当したNHKの鈴木文弥アナウンサーが、言い始め使い始めたらしい。
小野とは、1965年のオリンピック・ローマ大会で入場行進の旗手を務め、1964年のオリンピック東京大会では日本選手団の主将を務めた、体操の小野喬(たかし)選手だ。
記録映像には、右腕をまっすぐ伸ばし、少し声高に選手宣誓を行った、小野選手の姿が残っている。当時5歳だった私は、小野選手の宣誓が少し気になっていた。それは、名字と名前の間に0.数秒の間が開いていたことだ。文字で表すと、
「選手代表、小野  喬」
といった感じだ。今回、小野選手のインタビュー(21世紀になってから収録された)を発見し、私はその理由を知ることになった。名字の名前に間が開いたのは、宣誓の終了と同時に鳩を飛ばす合図の為だったそうだ。
 
新しい諺にもなり、東京オリンピックの選手団主将を務める小野選手は、現代なら同じ体操の内村航平選手の様な存在だった。しかし、来年の東京オリンピックで体操個人総合三連覇を狙う内村選手に比べると、小野選手は、そこまでの記憶に残る成績を残しているとは言い切れない。何故なら、個人総合の金メダルを獲っていないからだ。
それでも、金銀銅合わせて13個の獲得メダル数は、日本のオリンピック史上、最多の個数を誇るものだ。それは、日本がオリンピックの舞台に16年振りに復帰した、1952年のオリンピック・ヘルシンキ大会から1964年の東京オリンピック迄4大会連続出場し、かつ、その全ての大会でメダルを獲得している証明でもある。
オリンピック4大会連続出場かつ、連続メダル獲得は、柔道の谷亮子(旧姓・田村)選手に更新される迄、日本人選手最多記録だった。

小野喬選手は1931(昭和6)年、秋田県生まれ。日本が復帰したオリンピック・ヘルシンキ大会に21歳の若さで出場し、種目別の跳馬で銅メダル(同点で)を獲得している。しかしまだ、『鬼に鉄棒』では無かった。
4年後の1956年に開催されたオリンピック・メルボルン大会。25歳と選手として全盛期を迎えつつあった小野選手は、その実力を一気に開花させる。跳馬では着地に失敗し大きく順位を落としたが、平行棒で3位(銅メダル)、手脚が短い日本人選手には不利と言われるあん馬では2位(銀メダル)を獲得した。総合力が問われる個人総合でも、コンスタントに得点を重ねた小野選手は、日本体操史上初の2位に入った。
団体総合でも、前回(ヘルシンキ)の5位から一気に2位へと順位を押し上げた。
そして、自信が最も得意とする鉄棒では、当時‘鉄棒の神様’と称されていたソビエト連邦の選手を僅かな差でかわし、見事に初の金メダルを獲得する。『小野に鉄棒』の始まりだった。
また、この快挙(金メダル)について小野選手は、東京教育大学(現・筑波大学)を卒業した後、慶應義塾大学へ学士入学していて、練習に集中出来る環境に有ったことを上げていた。
 
1960年に開催されたオリンピック・ローマ大会で小野選手は、日本選手団の旗手を務めた。名実共に日本の中心選手となった証拠だった。それ以上に小野選手は、種目別のつり輪と平行棒で銅メダルを獲得する。同じく跳馬では、同点で日本体操史上初となる金メダルを獲得した。
そして、得意種目の鉄棒では2位に大差をつけて連覇を果たした。まさに『小野に鉄棒』の面目躍如だった。
その上、小野選手を中心とした日本男子体操チームは、予定通り規定演技を完璧に決め、自由演技でその差を広げて念願の団体総合で金メダルを獲得した。その立役者となったのは、小野選手の圧倒的な鉄棒の演技が有った。
ただ惜しむらくは、種目別の2種目で金メダルを獲得した小野選手が、念願の個人総合での金メダルを逃してしまったことだった。2大会連続の銀メダル、それも総合力を問われる個人総合での成績は、賞賛されるべきものだった。
しかし、小野選手とは1歳違いの同級生(日本的には)だった、ライバルのソビエト連邦のボリス・シャハリン選手は、小野選手を上回る種目別3種目で金メダルを獲得(内1種目は小野選手と同点の跳馬)した。体操選手としては比較的大柄なシャハリン選手は、個人総合でもわずかな差で小野選手を抑え、金メダルを獲得した。
ボリス・シャハリン選手は、同級生の小野選手に一大会遅れはしたが、1956年のメルボルン大会から3大会連続してオリンピック出場を果たしている。オリンピックの舞台で獲得したメダル総数は、くしくもライバル小野選手と同数の13個。しかし、金メダルの獲得数は7個と、5個の小野選手を上回っている。
 
小野選手が、33歳で迎えた東京オリンピック。選手として全盛期は過ぎているものの、体操チームの精神的柱としてメンバーに加えられた。そればかりではなく、小野喬選手には、1958年に結婚していた妻の清子選手と、ローマに続く2大会連続の夫婦で出場という、他に真似出来ない快挙を期待されてもいた。
当の小野選手は、日本選手団の主将に任ぜられたことに加え、自身も肩の故障に悩まされており、チームにさしたる貢献は出来ないと考えていた。当時のニュースでも紹介される体操選手は、個人総合で日本史上初の金メダリストとなる遠藤幸雄選手や、跳馬の技に名を残し跳馬のスペシャリストだった山下治広(おさひろ)選手の若手選手ばかりだった。当時5歳だった私にも、その雰囲気が十分に伝わっていた。
それ以上に私が感じたことは、現代の体操選手が採点に影響を及ぼさない様に、決して苦しそうな表情をしないのに対し、小野選手を始め1964年の体操選手達は、日本ばかりでは無く各国の選手も、歯を食いしばっていたことだ。それはまるで、いかにも表情で気合を作っているかのように感じられた。
 
物事は何事も、予定通りには運ばないものだ。
東京オリンピックでの小野選手がそうだった。
日本選手団の主将として、堂々と選手宣誓をし、大役を果たした小野選手だった。実際の体操選手としては、若手を見守るベテラン選手の役目だった。実際、出場全選手が参加する個人総合では、前々回のメルボルン大会、そして、前回のローマ大会と連続して小差(1位と)の銀メダルを獲得していた小野選手だったが、肩の故障も影響し11位という不本意な結果となっていた。残るは、代名詞『小野に鉄棒』の種目別に出場するだけの筈だった。
ところが、あにはからんや、連覇を目指す団体総合で小野選手に大きな役回りがやって来た。それは、あん馬でエースの遠藤選手が、思わず尻餅を着いたことに始まる。
失敗が連鎖するのは、団体競技の恐ろしいところで、早田選手が平行棒で、鶴見選手が鉄棒で得点を伸ばせなかった。その結果、ライバルのソビエト連邦に点差を広げて最終種目の鉄棒となるところが、その点差がジリジリ詰められる形になった。
地元で団体総合という大きな種目での連覇達成は、日本体操チームの念願であった。その目標に対する危機感は、テレビで応援していた子供にも痛い程理解出来ていた。
 
肩の故障で最終演技者に廻っていた小野選手が、マット上に現れた。固唾を飲んで、日本中が見守っていた。応援しつつも、祈っていた。
肩の痛みからか、いつにも増して歯を食いしばった小野選手は、大技は使わなかったものの、無難に演技をまとめた。テレビ中継の鈴木文弥アナウンサーは、元祖の『鬼に金棒、小野に鉄棒』を使いながら、ゆったりとした口調で実況していた。
結果、日本男子体操チームは、ローマに続く団体総合の金メダルを獲得した。日本中が、歓喜というより安堵した瞬間だった。
 
一方、小野選手の専売特許であった種目別の鉄棒。
他の日本選手は、誰もメダルに手が届かなかった。鉄棒はその華やかさから、出来ることなら、日本選手にメダルを獲得してもらいたかったところだ。
1964年東京オリンピック男子体操種目別の鉄棒は、小野喬選手の長年のライバル、ソビエト連邦のボリス・シャハリン選手が金メダルを獲得した。彼だって、鉄棒は得意種目だったのだ。それはまるで、
『鬼に金棒、小野に鉄棒』に続いて、『ボリスにも鉄棒』の諺を付け加えたくなる瞬間でもあった。
 
前回と同じく、今回の東京オリンピックでも期待を集める日本男子体操チーム。
来年は、どんな新しい諺が生まれることだろう。
 
 
 
《追記》
お楽しみ頂いている本連載ですが、東京オリンピックの一年延期に伴い、来月以降の予定が変更となります。6月以降は、『2020に伝えたい1964・エキストラ』として、毎月第4週に更新となります。2021年6月までの予定で13回にわたり、1968年のメキシコ大会から2016年のリオデジャネイロ大会までの想い出を、1964年を絡めながら書き連ねていきたいと存じます。いつかは皆さんの、御記憶があるオリンピックに出会うのではないでしょうか。
どうぞ、御期待下さい。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち 
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2020-05-11 | Posted in 2020に伝えたい1964

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