2020に伝えたい1964


何故か日本が立派に感じた(1968年メキシコ大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 

〔始めに〕
前回、お知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、今号より1年間、本連載のエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていきます。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!
初回の今回は、1968年10月に開催されたオリンピック・メキシコ大会です。

 
 
赤いブレザーに純白のパンツ。
当時、日本とメキシコのユニフォームは、同じ配色だった。小学校4年生で9歳になっていた私は、当然、メキシコチームに親近感が湧いたものだった。
当時はまだ、メキシコという‘地球の裏側’的異国に、関心を示す日本人は多くなかった。私はといえば、たまたま、三菱鉱山に在籍していた親戚が居て、メキシコへ赴任する際の羽田(!)見送りを、何度かした経験が有った。
その伯父さんの話では、メキシコは高地にあって空気が薄いと聞いていた。そのことが、アスリートにどんな影響があるのかは、小学生の私には理解し得ない事柄だった。ただ、記憶していることは、中南米の人々は日本人と比べて大変のんびりしているということだ。私が子供の頃よく言われていた、
「今日、出来ることを、明日に伸ばすな」
の忠告が、全く通じず、むしろ、
「明日でよいことを、今日するな」
と、言われる始末だったらしい。
 
第19回近代オリンピック・メキシコ大会は、東京大会から丁度4年後の1968(昭和43)年10月12日に始まった。この大会以降、夏季オリンピック大会が、秋に行なわれた例はない。
4年前に、地元東京でのオリンピックを体験した私は、見事に“オリンピック馬鹿”に成長を遂げていた。それは、自分でも驚く程の記憶が今でも残っていることでも解かる様に。
妙な形で記憶しているのが、9歳だった私は、既にメキシコの正式国名が『メキシコ合衆国』ということと、国歌はマーチ風だということを知っていたことだ。実はそれには、父方の祖母の影響から来るものだった。
 
話は、オリンピック・メキシコ大会の前年(1967年)の年明け早々に、日本人でボクシング世界バンタム級チャンピオンだったファイティング原田と、メキシコ人の挑戦者ジョー・メデルとのタイトルマッチにさかのぼる。
正月で、父親の実家に居た私は、ボクシング好きの祖母と一緒にこの試合をテレビ観戦した。メキシコから乗り込んできた挑戦者は、『ロープ際の魔術師』の異名を持ち、実際、4年前に逆転のカウンターパンチ一発で原田選手に勝利したハード・パンチャーだった。これは、祖母からの受け売りだ。
タイトルマッチ前のセレモニーでも、端正な顔立ちのメデル選手と、勇壮なメキシコ国歌がとても印象的だった。試合は、判定でチャンピオンが勝利したが、私は、
「これが、次にオリンピックが開かれるメキシコという国か」
と、妙な関心をしていた。
 
オリンピック・メキシコ大会で、開催国メキシコは、3個の金メダルを獲得している。その内の一つの表彰式を、私は鮮明に覚えている。
それは、東京に引き続き日本が惨敗を喫した競泳競技でのことだ。日本競泳陣は、8種目の入賞は有ったものの、メダルは一つも獲得出来なかった。この大会から、大幅に競技が増えたにもかかわらずだ。
そんな新種目の一つ、男子100m平泳ぎで地元の18歳フェリペ・ムニョス選手は、若かったこともありノーマークのダークホースだった。ところが、予選・準決勝・決勝とレースが進むにつれて、驚異的に持ちタイムを縮めていった。丁度、1992年のオリンピック・バルセロナ大会の岩崎恭子選手がそうだった様に。
ムニョス選手は、メキシコ初の競泳種目金メダルを期待する大観衆の声援に押され、この種目で初代のオリンピック・チャンピオンとなった。表彰式では、場内割れんばかりの国歌合唱のさなか、若いムニョス選手は号泣してしまい掲揚される国旗を全く見ることが出来ないくらい感激していた。
その表彰式をテレビで観た私は、フェリペ・ムニョス選手に貰い泣きしながら、メキシコ国歌をハミングで唄った。これは、ジョー・メデル選手のお蔭だった。
 
熱い気質の反面、冷め易い気質をメキシコの人々は有していた。そのことに直面したのは、メキシコの国技と言っていいサッカーでのことだった。
以前も、この連載で記したが、日本はこのメキシコ大会で得点王(6試合で7得点)となる釜本邦茂選手等の活躍で、予選リーグでブラジルを下し決勝トーナメントに進出する。トーナメント一回戦でも、同じく金メダル候補のフランスを倒す。そして、準決勝は敗れたものの、3位決定戦に進出した。
その、銅メダルを懸けた3位決定戦の相手が、なんと地元メキシコだったのだ。
ハンガリー(金メダル)とブルガリアの東欧国同士の争いとなった決勝戦の2日前、10月24日に行われた3位決定戦は、決勝と同じアステカスタジアムでキックオフを迎えた。違っていたのは、集まった観衆が地元のメダル獲得を期待した10万人超だったことだ。この数字は、決勝戦の観衆の1.5倍だったのだ。
日本にとっては、史上類を見ない超アウェーでの試合は、予想も出来ない日本ペースで進行した。小学4年生だった私は、登校時間が迫る中、ランドセルを背負ったまま必死で応援していた。
前半、エース釜本選手の2ゴールでペースを掴んだ日本は、なかなかモメンタムを手放さなかった。選手以上に苛立った10万人超のメキシコの観衆は、後半も20分を過ぎた辺りから、自国選手に対する激しいブーイングと落胆の溜息を漏らし始めた。
それはそうだろう、スペイン語圏の国がサッカーで東洋の島国に劣勢となるとは、一瞬たりとも考えたことは無かったろう。ましてや、勝利に対して、一遍の疑いも挟まなかったことだろう。
観衆は、目の前で徐々に動きが悪くなって来た自国の選手に見切りを付け、観客席に蹴り込まれたボールを返そうとしなかったり、仕舞には日本を応援する声まで聞こえる様になった。
ロスタイムに入る頃は、大半の観衆は出口へ歩を進めていた。
これが、9歳の私が観た『アステカの奇跡』だ。
 
この大会、日本選手団は全体で、東京大会と同じ世界で3番目の金メダル獲得数だった。ところが、金メダル数もメダル総数も東京大会に劣った。原因として挙げられたのは、高地対策が不足していたことだった。標高2,400mに位置するメキシコシティは、空気抵抗が平地より20%少なく、特に陸上競技では世界新記録が連発した。一方で、薄い酸素は、日本選手を窮地にまで追い込んでいた。
要は、日本人の潜在的な身体能力が、思ったほど無かったことが証明されたに過ぎなかったのだ。
 
世界記録で金メダルを獲得した選手の中で、問題となる行動をとった選手が居た。陸上男子200m走で人類初の19秒台(19秒83)でゴールしたアメリカの黒人選手トミー・スミスは、同じく銅メダルを獲得したジョン・カーロス選手と共に、国歌が流れる表彰式で星条旗に向かい黒い皮手袋をはめた拳を突き上げた。
この行為が、ブラック・パワー・サリュートという黒人差別に抗議する示威行為だと、私は後々知ることになる。ただ、テレビ画面からでも伝わったその‘ものものしさ’は、子供の眼にもただ事とは思えなかった。
二選手の抗議行為に対し、近代オリンピック史上最も政治的行為だとして、IOCは即時両選手に永久追放処分を下したのだった。
ただ私は、二選手によってブラック・パワー・ソリュートの際に突き上げられた拳が、左右バラバラだったので一組の手袋を分けたと感じ、どこかセコい感覚が残った。それ以上に、表彰式に現れた両選手が、ウエアのフロントジッパーを留めず、前をわざと開けて『USA』のロゴを分断している様に感じた。
その前に、両選手が表彰台に上がる際に、靴を履いておらず黒い靴下裸足だったことや、金メダルのスミス選手は、不自然な黒いスカーフを首に巻いていたこと、そればかりか、2位に入ったオーストラリアの選手まで、二選手に同調するかのように同じバッチを付けていたことを私は見逃さなかった。
子供だったので、どういった経緯なのかは判断出来なかったが、どこかちぐはぐな感じを否めなかった。
 
陸上競技では、暗い話ばかりではなかった。
マラソンで連続出場となった日本の君原健二選手は、直前に自死した盟友の円谷幸吉選手の遺志を継ぎ、見事に銀メダルを獲得した。
男子100m走では、アメリカのジム・ハインズ選手が、人類初の9秒台でゴールしてみせた。高地ならではの記録だった。
そればかりではない。走り幅跳びで、世界新記録並びにオリンピック新記録で金メダルを獲得したボブ・ビーモン選手の8m90cmは、その後23年間も破られることがなかった世界新記録だった。しかも、その記録は、未だにオリンピック記録のまま半世紀が過ぎている。
 
少し余談を挟むと、昨年放映されていた大河ドラマ『いだてん』のオープニング。1964年当時の東京の風景と、東京オリンピックの競技風景が使われていた。
ただ、数か所間違いも有ったりした。
お気付きの方もいらっしゃったかも知れないが、代表的間違いは、東京オリンピックの走高跳では、背面跳びが見られなかったということだ。
ベリーロールで争われていた走高跳に、革命的な跳び方を用いたのはディックス・フォスベリーというアメリカの選手だ。私は、フォスベリー選手が初めてバーに背を向けて跳び上がった時、
「晴れの舞台で、何を冗談みたいなことをしているのか」
と、訝(いぶか)しく思ったものだ。もしかして、思い通りにいかなくてヤケになったのかとも思った。
ところが、当のフォスベリー選手は大真面目で背面跳びによって、見事に金メダルを獲得したのだった。
この背面跳びは現在でも、英語表記は『Fosbury flop(フォスベリー・フロップ)』と呼ばれている。
 
初の途上国開催となった1968年のオリンピック・メキシコ大会。
政治的な問題が、ちらほら垣間見えたが、大きな混乱にはならず無事幕を閉じた。
全体的にみて、東京よりも準備が遅れがちだったなと私は感じていた。
それはまるで、最終日に間に合えば、全て丸く収まるとでも言いたげだった。
 
9歳になっていた私は、かえって日本の準備が素晴らしく、もっと誇らしく感じたものだった。
 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち 
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2020-05-25 | Posted in 2020に伝えたい1964

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