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2020に伝えたい1964

不思議なポールの御話(日本初の金メダルを記念して)《2020に伝えたい1964》


2021/06/29/公開
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 

 
第18回近代オリンピック東京大会(1964年)のメインスタジアムであった旧・国立霞ヶ丘競技場。その第4コーナー内側のフィールドに、普段使われていない掲揚ポールが立っていた。意識していないと、ポールの存在そのものを御存知無い方も多いことだろう。
 
しかし、前回のオリンピック東京大会を知っている世代は、そのポールが意味するところを覚えている者が多い。
当時、5歳だった筆者も、そのポールの名が『織田ポール』ということを覚えている。そればかりか、ポールの長さが“15m21cm”という、細かなことまで記憶している。
それには、記憶に残る様な事が在ったからだ。
 
前回の東京オリンピック開幕が迫った1964(昭和34)年9月、オリンピックに関する子供用の小冊子が、都内の小学校や幼稚園に配布された。その中身は、オリンピック発祥に関する歴史や、行われる競技・施設の紹介といったものだった。
旧・国立競技場の紹介文の中に、例の不思議なポールに関するのもが在った。
そのポールは、第9回オリンピック・アムステルダム(オランダ)大会で、日本選手が史上初めて金メダルを獲得したことに因んで立てられていると有った。
 
アムステルダム大会で、日本史上初の金メダルを獲得したのは、当時、早稲田大学体育会競争部(陸上部)の学生だった織田幹雄選手。種目は、陸上三段跳びだった。
その快挙を記念して、オリンピック開催の為に改装された旧・国立競技場に、特別な掲揚ポールが立てられ『織田ポール』と名付けられた。ポールの長さは、アムステルダム大会で、織田幹雄選手が記録した“15m21cm”と定められた。
織田幹雄選手の功績は、この『織田ポール』だけでなく、現・代々木公園の米軍キャンプ跡地に在った、選手村の練習用フィールドも『織田フィールド』と名付けられた。
“15m21cm”の『織田ポール』は、新・国立競技場には移設されず、現在はJOCの倉庫に保管されている。『織田フィールド』は現在、国立オリンピック記念青少年総合センターとして、色々な合宿所として活用されている。
 
どうしてここまで、織田幹雄選手の金メダルが特別視されるのか。
それは、単なる金メダル第一号で終わらなかったからだ。
陸上三段跳びで日本選手団は、1928年アムステルダム大会・1932年ロサンゼルス大会・1936年ベルリン大会と三連覇を達成しているのだ。ロサンゼルス大会では、織田幹雄選手とは早稲田大学の後輩にあたる南部忠平選手が、ベルリン大会では田島直人選手が、並み居る強豪外国人選手を抑え優勝したのだ。
その、栄光の記録の先鞭を付けたのだから、戦前を知っていて戦中・戦後の屈辱を味わった世代には、織田幹雄選手は特別なヒーローだったのだろう。
 
しかし、1928年当時、織田幹雄選手の金メダル獲得は、日本でそれ程広まるニュースではなかったそうだ。
今回調べたところによると、アムステルダム大会ではメダル授与式が行われず、代わりに国旗掲揚式だけが行われた。驚いたことに、織田幹雄選手自身は、その掲揚式を待たずに次なる競技会へ出発していた。
更に驚いたことに、国旗掲揚式で使用する日の丸が、オランダのオリンピック委員会が用意していなかったそうだ。何しろ、当時、日本の選手は全くのノーマークだったからだ。
挙句の果ては、掲揚式で演奏する『君が代』の楽譜が無く、居合わせた日本人から口伝えしたそうだ。楽団は突然のことに全曲覚え切ることが出来ず、史上初の日本国歌演奏は、途中から演奏されたのだった。
用意されていなかった日の丸は急遽、選手随行団が持っていた、選手がウイニングラン時に使用する巨大な国旗が使用された。
もし機会が有ったら、オリンピック・アムステルダム大会の陸上三段跳び国旗掲揚式の写真を御覧頂きたい。2位の星条旗(アメリカ合衆国旗)3位のスェーデン国旗に比べて、格段に大きい日の丸を確認することが出来る。
 
筆者は密かに、旧・国立競技場に『織田ポール』が立てられたのは、この1928年の国旗掲揚式が所以なのではと思っている。
しかも、15m余りの長いポールにしたのは、大きな日の丸でも付けられる様にとの思いからだとも考えている。
 
1905(明治38)年広島県生まれの織田幹雄選手は、金メダルを獲得し大学を卒業した後、朝日新聞社の記者となった。オリンピックがアマチュア選手の祭典だった当時、模範となるエリートだった。
陸上三段跳び連覇を目指したオリンピック・ロサンゼルス大会では、選手団の旗手を務めた。しかし、前年負った脚の怪我により記録は振るわず、連覇は夢と消えた。
しかし、織田選手の夢を後輩の南部忠平選手が果たしたのだから、希望のバトンはしっかりと繋がっていたのだ。
 
戦後、現役を引退していた織田幹雄氏は、自らと同じ様に世界の舞台で戦うことが出来る選手の育成に尽力した。
前回の東京オリンピック招致が決まると、日本陸上競技連盟(JAAF)強化委員長を務めた。
東京オリンピック本番では、陸上競技日本代表総監督に就任した。
このことから、聖火リレーの最終ランナーに、同郷の坂井義則選手が選ばれたのではないかと噂された。
陸上競技の陣頭指揮に立った織田幹雄氏は、狙い通り国立競技場の表彰式に立った円谷幸吉選手(マラソン・3位)の姿を見て、大層喜んでいらした。
 
後年、1980年のモスクワ大会ボイコットに対し、終始反対の態度を崩さなかった。あくまで、オリンピックに参加せよと言い続けた。
それは、戦争によりオリンピック開催を返上したり、戦争責任によってオリンピック参加を認められなかった体験から来るものだったろう。
今回の、オリンピック一年延期に関しても、織田幹雄さんなら多分、
「東京大会は、遣るべし」
の態度を貫かれたのではないだろうか。
 
織田幹雄氏は、1998(平成10)年に逝去されるまで、JAAFの名誉会長職を務められていた。後進育成を生涯にわたって貫かれたのだ。
 
57年前以上に陸上競技で有望な日本選手が出場する今回のオリンピック東京大会。
織田幹雄さんは、どんな声援を贈って下さるのだろう。
 
 
《以下、次号》
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部湘南編集部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2021-06-24 | Posted in 2020に伝えたい1964

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