2020に伝えたい1964

オリンピック後に訪れた、我人生最大級のサプライズ《2020に伝えたい1964~Epilogue⑥~》


2022/02/28/公開
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 

 
「わっ!! オランダ大使館から呼び出された!!!」
PCでメールを確認中に、私は突拍子もない声を上げてしまった。
 
元々、物事を大袈裟な表現にしてしまうのが私の悪い癖だ。それが、ライティングを始めてからというもの、一層拍車が掛かっているのが実情だ。
しかし、この時受け取ったメールの文面は、私の声以上の驚きでしかなかった。
「どうしたの? 何が有ったの!?」
私の声に驚いたカミさんが、勢い込んで私の部屋に入って来た。
「大使館から呼び出しが掛かったって……」
カミさんは、私の声が本当なら大事であることを承知していた。35年以上も寝食を共にしていると、大使館内は治外法権だということ位、カミさんは‘門前の小僧’で知っていたのだ。
少々驚かせ過ぎたことを反省し、私は実際の事の顛末を告げた。
 
 
第32回近代オリンピック東京大会が開幕する直前の2021年7月10日、私は或るニュースをネットで発見した。それは、1964年の東京オリンピックで、開催国日本の柔道全階級制覇を阻止した、オランダのアントン・ヘーシンク選手(無差別級)に関することだった。
何でも当初の予定では、アントン・ヘーシンク選手が、1964年の東京オリンピックで実際に着用し武道館の畳に上がり、神永選手を破った時の柔道着が、57年振りに日本へ凱旋するというものだった。しかも、東京港区に在る在日本オランダ王国大使館で公開展示される筈だった。
ところが、東京オリンピックを無観客開催にした新型肺炎ウイルスの蔓延で、一般公開が出来なくなったというものだった。
オランダ大使館は、代替措置としてヘーシンク選手の柔道着を予定通り大使館に展示し、その様子をYouTubeに流すことにしたというのだ。
 
私は、オランダ大使館の計らいに感激し、YouTubeであっても公開してくれることに感謝の意を示そうと、大使館宛にメールしてみた。勿論、5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、ヘーシンク選手がオランダ選手団の旗手として入場した瞬間や、金メダルを獲得した時の感想をメールにしたためた。
礼儀として宛先を、“オランダ王国”そして“駐日全権特命大使”と正式名称を使って書いた。無論、日本語で。
加えて、2021年のF1界で、日本のHONDAエンジンを見事に操りチャンピオンに輝くことに為るオランダ人ドライバー、マックス・フェルスタッペン選手を応援していることも書き加えた。相手に敬意を示す為なら、何でも持って来てしまう、私の大袈裟を好む性格丸出しの文面だった。
 
YouTube公開は、オリンピック閉幕後とのことだったので、私は楽しみに待っていた。例えモニター越しでも、あの時の柔道着を観られることは、私にとってこの上ない喜びだったからだ。
 
 
ところが、私がメールを出した翌々日、私にはサプライズ・プレゼントとしか思えないメール返信が、オランダ大使館の日本人スタッフから届いたのだ。
メールの文面には、
『山田様のオリンピックに対する熱き想い、ヘーシンク選手に対する尊敬の意、そして、オランダに対する敬意は、大使始め全大使館員に伝えました。
誠に有難う御座います。
つきましては、オリンピック閉幕後とは為りますが、宜しければ大使館へいらっしゃって、実際に柔道着を御覧になりませんか。
8月10日以降で、御都合の宜しい日を御指定下さい』
と、有った。
私は、これまでに体験したことが無い程の喜びを感じた。
いい歳をして、カミさんが驚く様な声を上げてしまったことも、納得して頂けることだろう。
 
私の声に驚いたカミさんに、私は、事の次第をそう話した。カミさんは、
「当然、行くんでしょ?」
と、聞いてきた。私は、
「勿論! 何が起こっても行くに決まってるじゃん」
と、即答した。本心では、太陽が西から登っても行ってやるという勢いだった。
カミさんが部屋を出て行くと、私は早速、オランダ大使館スタッフに返信を打った。‘善は急げ’の諺通り、8月10日に伺うことを礼と共に書き添えた。
 
その翌日、大使館スタッフから、確認のメールが入った。文面には、
『8月10日の午後に御越し下さい。当日はあいにく大使が不在ですが、オリンピックを担当しているチーフオフィサー(一等書記官)が対応させて頂きます』
と、有った。大使に逢えようが無かろうが、私は一向に構わなかった。何しろ、逢いに行くのはアントン・ヘーシンク選手の柔道着なのだ。しかも、滅多なことでは入ることが出来ない、治外法権の地に行くことが出来るのだ。
 
それからというもの、私はまるで、遠足を控えた子供の心境だった。
オランダ大使館の所在地は、以前からよく知っていた。東京タワーの直ぐ傍だ。毎月、今でも続く淀川長治先生創設の映画の会が開かれる会場の近くだったからだ。
それより心を配ったのは、オランダ大使館までのアクセスと服装だった。
8月10日といえば、立秋は過ぎているものの、暑さ真っ盛りの時期だ。なるべくならば、車を運転して出掛けたいと考えていた。何故なら、大使館に出掛ける、それも、表敬訪問するのだからきちんと正装せねばと私は考えたからだ。しかも、クールビズ為るネクタイを結ばない服装は、日本でしか許されないと思ったからだ。
流石に、真夏にネクタイを結んで電車に乗るのは、勘弁して頂きたいと思った。それに、タクシーで向かおうにも、私の自宅は住宅地に在るので、タクシーを拾う前に、大汗をかいてしまう恐れが有ったからだ。
何にしても、大使館に失礼は許されないと考えた。
私は勝手に、日本代表の気分だった。
 
連日の熱戦が続いた東京オリンピックも無事閉幕した8月9日、私は翌日オランダ大使館へ来ていく服装を揃え始めた。
私は、柔道を始め、いくつかのスポーツをかじったことがあるので、スーツではなく紺のブレザーで出かけることにした。ブレザーは、アスリートの第一正装だ。シャツを白にすれば、何の問題も無い。
帽子は、ヘーシンクさんに憧れて買い求めたカンカン帽にした。まさにこの日の為に用意していた様なものだ。
 
問題は、ネクタイだ。ネクタイは、相手に対する敬意の表れでもある。
冷静に考えれば、今回はオランダの国色・オレンジを選ぶのが正当だ。ただ、私の手持ちの夏用ネクタイの中には、オレンジ色のものが無かった。(ポケット)チーフは運良く、麻のオレンジ色の物を持っていた。
ネクタイハンガーをクローゼットから取り出し、ベッドの上にぶち撒けてみた。そうしたら、もう何年も着用して来なかったオレンジ色のニットタイが見付かった。
多分、断捨離が出来る方なら、ときめかない第一候補だったことだろう。私は、自らの物持ちの良さに感謝した。
ただ、ニットタイはカジュアル用の物だ。私はしばし迷ったが、今回だけは色を優先することにした。
 
 
迎えて8月10日。待ち切れなくなった私は、30分も前にオランダ大使館前に着いてしまった。暫く車で待とうと考えたが、真夏の炎天下なのでエンジンを切る訳にはいかなかった。
しかしそこは、駐日大使館の前だ。私は迷った挙句、通用門の警備員(日本人)さんに声を掛けた。
「本日、13時に訪問する約束をしていた山田です。早く来過ぎましたので、門前で待たせて頂いて宜しいでしょうか」
「大使館の誰と御約束ですか?」
私は、書記官と、メールで対応して下さった日本人スタッフの名を告げた。
「書記官で宜しいですね。聞いてみます」
と、警備員さんは、あっさり言ってきた。
私はというと、少々焦っていた。何故なら、日本人スタッフ無しで、いきなりサシで書記官と逢ったりしたら、言葉はどうするのだろうと心配したからだ。自慢ではないが、私は英会話すらまともに出来ない。オランダ語に近いドイツ語を、大学時代に第二外国語として単位を取得したが、実際は“ABC(アー・ベー・ツェー)すら最後まで正確に言うことが出来ない語学力なのだ。
 
焦る私を尻目に、警備員さんは何やら内線電話で話し始めていた。同時に、もう一人の警備員さんが、
「何か身分を証明できる物は有りますか」
と、尋ねてきた。私が、運転免許証を差し出すと、
「控えさせて頂きます」
と、氏名・住所だけでなく、免許証番号まで丁寧に控え始めた。しかも、チップを読み取る機械に私の免許証をかざし、本籍の確認までする始末だった。
もし何か、良からぬ事が発覚し、ここで足止めに為ったり、大使館から出られなくなる様な事が無いことを私は祈った。
勿論、私に疾(やま)しいことは無いが、ここまで来てヘーシンク選手の柔道着を直接観られなかったりしたら、それこそ一生の悔いとして残ると思い恐れた。
 
「書記官に確認が取れました。どうぞお入り下さい」
警備員さんは、私の心配を他所にそう告げると、手元のスイッチで厳重にロックされた門扉を開いてくれた。私は、
「車で入って宜しいですか?」
と、尋ねた。
「はい。事務棟の前にプールが有ります。そのサイドに停めて結構です」
と、警備員さんは慣れた調子で教えてくれた。
私は車を大使館の敷地内に滑り込ませた。私にとって、数年振りの外国だ。
警備員さんの教えの通り、オランダ国旗が掲げられた事務棟の隣に、小学校に在る位の大きいプールが見付かった。
プールには、数人の大使館員と思しき男性が、バタフライで豪快に水飛沫を上げていた。
「俺も泳ぎたいなぁ。上手く泳げないけど」
と、私は車を降り、ブレザーとカンカン帽を着用しながら、独り‘ノリツッコミ’をしていた。
 

 
「山田さんですか。初めまして」
間も無く、大柄なオランダ大使館書記官が私に声を掛けてきた。オランダ人なので大柄なことには驚かなかったが、流暢な日本語には驚いた。そして、私は安心した。
30代後半から40歳位と思われる書記官は、にこやかな笑顔で挨拶もそこそこに、
「山田さんの記事、天狼院さんのですね、いつも楽しみに読んでいます」
と、驚くべきことを言い始めた。多分、当連載の第十回『その男は止めた。全力で止めた』を御読み下さったのだろう。
それにしても、見ず知らずの方が私何ぞの記事を読んで下さっているとは、天狼院の拡散力に驚かされた。それと同時に、いい加減なことは書けないと改めて身が引き締まる思いがした。
続けて書記官は、
「何しろ、『ヘーシンク 止めた』で検索すると、Wikipediaの次に山田さんの記事が出て来るんですよ」
と、さらに嬉しいことを教えてくれた。
書記官は、喜んでいる私に、
「さぁ、ここは暑いので早速大使館にご案内します」
と、私を誘って下さった。
 
オランダ王国大使館は、書記官によると明治時代に当時の竹中建設によって建てられたそうだ。運良く、震災と戦災で消失する事なく、現在もそのまま残り使われているとのことだった。
余談だが、もう直ぐ重要建築物に認定されそうな立派な洋館だ。
二階が全権大使の居住区で、一階がレセプション等を行うスペースだ。いずれにしても、そう簡単に足を踏み入れることが出来ない場所であることは間違い無い。
 
書記官は私を、大使館の玄関脇に在る応接室に通してくれた。メイドさんが、冷たい飲み物を運んできて下さった。
書記官は改めて挨拶を交わすと、今回、私を大使館に招いて下さった顛末を話して下さった。
「実は、山田さんがどんな方か解らなかったのですが、もしリアルで展示が公開されていたとしても、そのレセプションに御招きしようと思っていました」
と、更に私を喜ばせてくれた。続けて、
「山田さんを探そうとした矢先に、展示公開の中止が決まってしまって、どうやって御招きしようかと考えていた時にメールを頂きました。そこで、これ幸いと御運び頂いたのです」
と、流暢かつ綺麗な日本語で話して下さった。
 
書記官は御自分のことを、アントン・ヘーシンクさんと同じユトレヒトの出身で、ヘーシンクさんと同じく柔道を学んだことも話して下さった。続けて、柔道を切っ掛けに日本に興味を持ち、日本語を学ぼうと留学したまま大使館職員と為り現在に至ったそうだ。
道理で、日本語が上手な筈だ。
それから暫し、書記官と私はオランダのこと、日本のこと、ヘーシンクさんのこと、前回と今回の東京オリンピックのことを話した。勿論、F1のマックス・フェルスタッペン選手のことも話した。
日本語が上手で、友好的な書記官の対応に、私は感謝せずにはいられなかった。
 

 
「ではそろそろ、展示を紹介しましょう」
そう書記官は私に告げると、柔道着が展示されているスペースへ私を誘った。
広い玄関ホールに、アントン・ヘーシンク選手の柔道着が展示されていた。
そちらへ歩を進めようとする私に、
「山田さん、こちらの展示を先に御覧に為って下さい」
と、私を別室に連れて入った。
その部屋には、先客として御婦人が二人居らした。小柄な方の御婦人が、書記官に向かって何やら母国語で話しかけた。
書記官は私に、
「こちら、大使夫人です」
と、紹介して下さった。私は日本語で、
「初めまして、御招待頂きました山田と申します」
と、大使夫人に挨拶した。
書記官は、通訳して下さりながら私に事を詳しく紹介して下さった様だ。多分、私の記事のことも、説明してくれている様だった。
大使夫人は、私のネクタイを示し、
「いい色のネクタイですね」
と、褒めて下さった。私は、
「ニットタイで失礼します。オレンジのネクタイがこれしか無かったもので」
と、言い訳した。書記官が、丁寧に訳して下さった。
大使夫人は、書記官を介し、
「有難う、とっても嬉しいわ。そんな気遣いが出来る日本男性に、初めて御逢いしましたよ」
と、褒めて下さった。
多分これで、大使夫人は、ヘーシンク選手の柔道着と共に、私のことも覚えて下さることだろう。
 


 
展示スペースには、1964年当時のノベルティが沢山展示されていた。驚いたのは、当時の日本オリンピック委員会は、参加各国に対し戦国武将風の陣羽織を贈っていたのだった。今回も、オランダ選手団に贈られたオレンジ色の陣羽織が展示されていた。
更に、1964年の第18回大会では、メダルの他に日本語で書かれた表彰状が、贈られたそうだ。私はこの表彰状のことは、全く知らなかった。勿論、今回が初見だ。


 
「山田さん、これ、写真に撮って下さい」
書記官が私に、新聞のパネルを指し示した。オランダの新聞なので、私には全く理解出来なかったが、書かれている驚くべきことを教えて下さった。
何でも、天皇陛下にオランダ選手団が表敬訪問した際のことが書かれているそうだ。陛下は既に、ヘーシンク選手のことを御存知で、
「アントン・ヘーシンク選手が勝利したら、私は嬉しく思うでしょう」
と、ヘーシンク選手を激励したそうだ。加えて、
「今では、この記事を書いた記者も亡くなっているので、事の真偽は確かめようが有りません。しかし、新聞の日付が1964年10月7日に為っています(10日が開幕日)。私は、真実と思いたいです」
と、書記官は説明して下さった。私は、
「伝説か真実かが不明なら、より劇的な方を取りましょう」
と、書記官に告げた。
 

 
いよいよ、ホールに展示されたアントン・ヘーシンク選手の柔道着との対面だ。オランダ王国大使館のホールには、母国を代表する画家ゴッホの絵が飾られていた。それも、一番有名な『ひまわり』だ。
ヘーシンク選手の柔道着は、その、世界遺産に等しい絵画を遮るように展示されていた。
それもそうだろう、身長198cmの柔道家の道着は、絵画を隠すのには十分すぎる大きさだった。
私は暫く、柔道着を観ながら57年前の衝撃的場面を想い返していた。連載にも記したが、当時5歳だった私には知る由もない落胆が日本中を包んでいた。
ヘーシンク選手ほどでは無いが、それでも私より15cm近い長身の書記官と私は、現代柔道ならもしかして、ヘーシンク選手を倒せるのでは無いかと話した。
一つ気が付いた事があった。それは、道着のネーム刺繍が、“へーシン〔グ〕”と濁っていたことだ。
 

 
書記官によると、ヘーシンク選手のオランダ読みは、〔ク〕と〔グ〕の中間の発音だそうだ。
それにしても、本当に大きな柔道着だった。
57年も前に、こんな大きな道着を相手に、神永昭夫選手はよく闘ったものだと、改めて感じ入った。
 
私は、感動の余り、その場から動けずにいた。
近くで静かに私を見守っていた書記官の視線に、私は気付いた。
「すみません。観入ってしまいました」
と、私は書記官に告げた。
「いえいえ、いつまででもどうぞ」
と、書記官は優しい言葉を下さった。
それでも、いつまでも甘えている訳にはいかない。
「では、そろそろ」
と、私は申し出た。書記官は、
「もう一杯、冷たい飲み物を出しますから」
と、応接室へもう一度戻る様に促した。
 
応接室で待っていると、少し遅れて何やら手に持ちながら書記官が入って来た。
「これですね、山田さん。一般公開したら、販売する予定だったアメニティです。どうぞ、御持ち帰り下さい」
と、ポストカードと日本手拭いを私に手渡してくれた。
そのデザインは、東京オリンピックの柔道無差別級で、勝利したアントン・へーシング選手が、右手を突き出し仲間を止めている姿だ。このシーンを拙書『その男は止めた。全力で止めた』は、詳しく書いてあるので御読み頂けたら幸いだ。
「それ程までに、このシーンはオランダで有名なのですか?」
私は、書記官に尋ねた。
「勿論です。オランダでは、誰もがものシーンを知っています。何しろ、教科書に載っている位ですから」
と、書記官は答えてくれた。加えて、
「だからこそ、山田さんの記事のことを、私は知ったのですよ」
と、言って下さった。
私は再び、感激がぶり返して涙が出そうに為った。
 

 
予定の時間を大きく過ぎ、気が付くと私は2時間近く治外法権の場に滞在してしまった。
 
私は丁重に書記官へ礼を述べ、
「今日の事、記事にしても宜しいですか?」
と、確認した。書記官は、
「勿論、大丈夫です。いい記事にして下さい」
と、許可してくれた。
 
後ろ髪を引かれるとはこのことだ。
「では、改めて連絡します」
と、私は書記官に告げ、駐日オランダ王国大使館を後にした。
 
 
オランダ大使館訪問から1ヶ月後、私はこの顛末を天狼院の三浦店主に報告した。三浦店主は、撮ってきた私の写真を観ながら目を丸くして、
「長く書いていると、いいことが有るよねー」
と、共に喜んで下さった。
私は狂に乗って、
「連載の続編にしても良いですか?」
と、三浦店主に尋ねてみた。
「良いです、良いです」
三浦店主は、承諾してくれた。
 
そして始めることが出来たのが、この連載epilogueだ。
 
 
そして、これこそが、我人生最大級サプライズの一席だ。
 
 

【御挨拶】
今回をもって、連載『2020に伝えたい1964』の本当に本当の完結となります。
51回にもわたる長い連載を御講読頂き、有難う御座います。
この間、数々の御手伝いをして下さった、天狼院ライターズ倶楽部の仲間に感謝申し上げます。
また、御手を煩わせてしまった天狼院スタッフの皆様、重ねて御礼申し上げます。
そして何より、本企画を許可して下さった天狼院の三浦店主には、一角ならぬ御便宜を図って下さったことを一生忘れぬ所存です。
 
読者の皆様には、また新たな連載記事を提供できます様、励むことを御約束して、挨拶に代えさせて頂きます。
 
皆様、本当に有難う御座いました。
こんな連載を書けた私は、本当に幸せ者です。

 
 
≪完≫
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

【間もなく開講!】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜《全国通信受講対応》


2022-02-23 | Posted in 2020に伝えたい1964

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