2020に伝えたい1964

聖火最終ランナーの孤独《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 
「聖火の最終ランナーは、坂井義則君です」
1964年10月10日の夕刻、NHKの鈴木文弥アナウンサーが、ギリシャ・アテネからトーチで繋いで来た聖火を、これから国立競技場の聖火台に点火するべく、颯爽と走る若者を紹介した。
画面には、西日をまともに受けて光り輝く、細身のランナーを映し出していた。満員に膨れ上がった国立競技場の観衆と、日本中・世界中のテレビの視聴者は、この聖火の最終ランナーを注視していた。
 
そろそろ、2020年オリンピック東京大会聖火最終ランナーの予想が出始めている。歴代のオリンピアン、特にメダリストが候補に挙がっている様だ。このところのオリンピックにおける日本選手の活躍で、候補に挙げられるメダリストが多数になっている。
 
1964年の場合はどうだっただろう。残念ながら私は幼過ぎて、開会式当日に聖火最終ランナーがテレビの画面に現れるまで感心を抱くことは無かった。
当時のことを調べ直していると、現代とは違い意外なランナーが聖火を点火していることが分かった。
聖火リレーは、1936年のベルリン大会に始まる。1960年のローマ大会までの間、冬のオリンピックも含めて8大会で行われているが、ヘルシンキ大会(1952年)を除いて、特段の有名メダリストが聖火最終ランナーを務めることは無かった。ヘルシンキ大会の最終ランナーは、パーヴォ・ヌルミとハンネス・コーレマイネンという、フィンランド国民ならだれでも知っているヒーローだ。ただし、活躍したのは1920年代で、ヘルシンキ大会当時はすでに歴史上の偉人だっただけの様だ。
 
「昭和20年8月6日生まれ。広島県出身の若者」
坂井義則選手をこう紹介したのは、開会式当日のアナウンスではなく、映画『東京オリンピック』の中だったと記憶している。6歳にはなっていたが、私には何のことか理解出来なかった。一緒に映画を観賞していた周りの大人たちが、“へぇー”とか“ほぉー”という感じの、不思議な反応をしたことだけは鮮明に覚えている。
昭和20年8月6日の広島と言えば、人類初の原子爆弾が投下された日だ。子供の私には大きな事柄ではなかったが、聖火最終ランナーの坂井選手には、大変大きな名誉と他人には言い難い苦労を背負う結果となってしまった。
 
坂井義則氏は先告の通り、原爆が投下された当日に誕生した。同じ広島ではあったが、生まれの地は広島県北東部、島根県と接する現在の三次市だったので、被爆者では無かった。ただし、当時電力会社に勤務していた坂井氏の父親は、被爆者手帳を所持していたそうである。
地元の県立三次高校3年生の時、坂井氏は国民体育大会の400mで優勝し、一躍注目されることとなった。勿論、東京オリンピック出場候補選手としてだ。国体優勝を機に、進路を当初進学の予定だった大学から、早稲田大学に変更する。
これは裏で、かなり政治的力が働いたようだった。当時の閣僚の一人に、早大競争部(陸上部)出身の有力OBが居たからだ。当然、誕生日と誕生地が、当人とは関係なく注目されたに違いなかった。
 
大学進学後、400m競争と1,600m(4X400m)リレーのオリンピック強化選手だった坂井氏だったが、残念なことに代表選考会で敗退しオリンピック出場の夢は果たせなかった。当人は後日、
「東京オリンピックに落選したことは、特にショックは無かった」
「当時、僕はまだ18歳で、本格的に陸上選手として活躍出来るのは、次のメキシコ大会(オリンピック)か、その次だと考えていた」
と語っている。事実、坂井氏は1966(昭和41)年のアジア大会で、400mで銀メダル、1,600mリレーで金メダルを獲得されている。
 
本来なら、予選敗退で通常の陸上選手・普通の大学生に戻ることが出来たはずの坂井氏だったが、想定外の力が働き自由な生活に介入してきた。坂井氏の誕生日に注目した、東京オリンピック組織協会の力だ。
オリンピック予選の後、坂井氏は次のインカレを目指し練習を始めていた。そんな頃、当時の競争部・中村清監督(瀬古利彦氏のコーチとして有名)を通じ、大会組織委員会が坂井選手を聖火ランナーとして推挙するとの連絡が入った。原爆が投下された当日、それも同じ広島県で生まれた若者が、聖火を競技場に運び込むことによって、戦後の混乱から日本が立派に立ち直ったという印象を世界に示したい政治的な思惑があったと考えるのは容易なことである。
ただし、この時点では坂井氏が、聖火最終ランナーと確定はしていなかったそうだ。
 
1980年に坂井氏の母校・早稲田大学大隈講堂である討論会が開催された。その年に開催されるオリンピック・モスクワ大会を、日本やアメリカを始めとする西側諸国が一斉にボイコットを表明した時のものだ。討論会の基調講演を買って出た坂井氏は、東京オリンピック当時を振り返って、訥々(とつとつ)と語り始めた。
ここからは、その現場にいた私の記憶を基に坂井氏の話をお伝えする。
 
1964(昭和34)年10月10日に国立競技場周辺を聖火リレーするランナーの候補10数人は、夏前から一同に集められ合宿して聖火リレーの練習をさせられることになったそうだ。合宿メンバーの中に、坂井氏より一つ歳下で長身の高校生が居た。身長185cmと見栄えが良いことから、メンバー内ではすでに、その高校生が聖火の最終ランナーとのコンセンサスが出来ていたそうだ。
ところが、合宿の最終盤になって急に坂井氏に、階段を登る練習が課せられた。映像で御存知の方もいると思うが、旧・国立競技場の聖火台は、167段の階段を駆け登った先に設置されていた。一転して、坂井氏が聖火最終ランナーに内定した証拠だった。
「周囲の目が冷たかったね。そりゃそうさ。僕は国体優勝しているものの、オリンピックに出る実力のない陸上選手だったのだから。それに、特に体が大きかった訳ではないし、見栄えも良くなかったし」
坂井氏は、年下の長身ランナーが可愛そうだと思ったそうだ。
聖火リレーの練習は激しさを増し、トーチを掲げる右腕を下げない様にコーチから檄が飛ばされたそうだ。その上、坂井氏には通常のメニューの他に、階段登りの特訓も加えられた。
「そりゃ、キツイなんてものじゃ無かったよ。元々僕は400mの選手で、トラックしか走ったことが無い。全力疾走だって、トラック一周(400m)を越えると無理なんだよ。そこに、走ったことが無い階段を登るなんて、練習が地獄の苦しみだったよ」
そして、
「それにさぁ、当時の陸上選手はウエイト(トレーニング)なんてしたことないし、上半身を鍛えた経験も無い。その証拠に、その頃の僕は、懸垂が出来ないほどの腕力しか持ち合わせていなかった。だから、右腕を下げない様、指示をされても辛くて維持するのがやっとだったよ」
と語り、場内を和ませた。さらに、
「当時のトーチは、今よりずっと重くて、右腕を掲げているだけでやっとなくらいだから、きれいなフォームでは走れっこ無いんだよ」
と語った。
「その上、皆が辛い練習をして肩で息をしている中、その後僕だけ階段登りの練習をしているでしょ。練習の辛さより、仲間の視線が刺さって辛かったよ」
と、本音も吐露していた。
 
いつもの陸上競技の練習より辛い聖火リレーの練習をしていた坂井義則氏は、合宿仲間の中で段々と孤立し始めたそうだ。
「なんであいつが最終ランナーなんだ」
暗黙の内に、選手だけでなくコーチからも白い目線が投げられるようになったそうだ。坂井氏の走行フォームは、相変わらずぎこちなく、右腕も下がり気味で、一人で行う階段登り練習も、毎日の様につまづいていたそうだ。
聖火リレー合宿が終わり、大学の寮に帰った途端、坂井氏は感情が爆発し、
「何で、あんな日に生まれちまったんだ!」
と、中村コーチに嘆いた。中村コーチは、
「馬鹿を言うものじゃ無い。俺の仲間にも、先の戦争で命を落とした者が沢山いる。お前が生まれたのは、原爆投下の日だろ。命を落とした非戦闘員がほとんどだろ。その方々は、お前が聖火を掲げて走る姿を誇りに思うはずだぞ」
と励ましてくれた。
「それでも、孤独で孤独で逃げ出したかった」
坂井氏は、本音を語ってくれた。
 
オリンピックの本番直前、国立競技場にやっと聖火台が取り付けられた。鋳物で作られた巨大な聖火台は、その製造が大変難しく、開会式直前にやっと間に合ったそうだ。
その時点になっても、大会組織委員会からは正式な聖火最終ランナーは告げられていなかった。暗黙の雰囲気から、坂井氏の孤独は続いていた。
「聖火台も付いたことだし、今日は最後(聖火台)までつなぐ練習をしよう」
聖火リレーのコーチから、メンバーへ告げられた。驚いたことに、坂井氏には国立競技場のゲートから、トラックのゴール地点まで走る様に指示がされた。
ゴール地点からトラックを1/3周走り、階段を聖火台まで登る部分は、一歳下の長身ランナーに指示がされた。
「もしかしたら彼が、聖火最終ランナーなのか?」
坂井氏は疑問を持つと共に、少しだけ気が楽になった。
国立競技上の一番高い所に立った長身ランナーは、聖火台の大きさに負けずとても見栄えが良いと坂井氏も感じた。
 
練習後、集められたメンバーに開会式当日の担当が告げられた。
坂井氏にはやはり、競技場ゲートから聖火台に聖火を点火するまでの役割が与えられた。後輩の長身ランナーは、坂井氏に万が一の事故が有った時のバックアップの役目となった。
坂井氏の孤独感がいっぱいの中、その日は解散となった。
 
1964年10月10日、着々と進む開会式のプログラムの中、ユニフォームに着替えた坂氏は、相変わらずの孤独感の中、国立競技場の下で聖火の到着を待っていた。
「競技場に入ったら、観衆全部が僕に白い目を向けるのではないか」
坂氏は、本気でそう思っていたそうだ。
 
国立競技場の下で、女子中学生のランナーから聖火を受け取った坂井氏は、大きく深呼吸をしてトラックと孤独感に向かって走り出した。
「競技場のゲートをくぐったら、満員の観衆より先に、真っ藍な空が目に入ったんだ。思わすこれが“紺碧の空”なんだなと思ったんだ。そうしたら無意識に、頭の中に“紺碧の空(早大の応援歌)”のイントロが流れたんだ」
坂井氏は、さらに笑顔で続けて
「だからさぁ、聖火を掲げて競技場を走っている僕の頭の中には、ずっと“紺碧の空”が流れてたんだ」
さらに、
「そうしたら、孤独感なんて感じなくなっていたし、苦手の階段なんて問題なく登り切れたんだ」
そして、
「不謹慎な話だから、ここだけの話にしておいてくれよ」
念を押すことも忘れてはいなかった。
 
坂井氏は大学卒業後、陸上生活に別れを告げ、フジテレビに入社した。自らが聖火ランナーに選ばれた時の、マスコミ対応が問題だと感じ、今後の選手たちの為に役立とうと思ったからだ。
スポーツ報道局に勤務した後、常務取締役まで出世し2005年に定年退職した。フジテレビの関係会社で、現場復帰を果たしたが、2014年に69歳の若さで逝去された。
 
もし、2020年の東京大会まで御存命だったとしたら、今度の聖火最終ランナーに坂井義則氏は、“孤独”にならない為にどの様な言葉を掛けたのだろう。
 
来年の開会式には、そんなことを思ってみてもいいかもしれない。
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-05-13 | Posted in 2020に伝えたい1964

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