2020に伝えたい1964

俺のストップウォッチは『9秒9』を指していた《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

「うゎぁ、カッコイイ!」
5歳の私は、テレビの前で声を上げた。画面では、筋骨隆々とした黒人選手が、先頭でゴールテープを切っていた。
 
1964年10月15日午後、オリンピック東京大会の陸上男子100m決勝が行われた。それまでのオリンピックで、最も多くこの競技で金メダルを獲得しているのがアメリカだ。そのアメリカ陸上競技陣が、自信をもって東京に送り込んできたのが、21歳のフロリダ農工大学の学生ボブ・ヘイズだった。
優勝は勿論のこと、当時10.0秒だった世界記録を、ヘイズ選手が破るのではと、世界中が期待を込めていた。人間が初めて、100mを9秒台で走る姿を、今度こそ観られるのではないかと思われていた。
鍛え上げられた太い両腕を、前後に大きく振る走法が実にダイナミックで、余計に新記録を予感させていた。テレビ中継のアナウンサーは、ヘイズ選手のことを“黒い弾丸”と呼び、その速さ、その迫力、そして格好良さを表現していた。
 
実際、ボブ・ヘイズ選手は、午前中の準決勝で9.9秒を叩き出した。しかし、追い風が有り、参考記録となった。
午後に行われた決勝戦では、ヘイズ選手は記録が出にくいと言われる第1コースに決まった。しかし、あっけ無い位にアッサリと金メダルを手にした。そして、記録はというと、オリンピック新記録ではあったが、10.0秒の世界タイ記録とコールされた。
 
幼かった私は、ボブ・ヘイズ選手のゴールシーンよりも、表彰式の光景をよく覚えている。表彰台の一番高い所に立ったヘイズ選手は、185㎝という陸上選手にしては大柄だったこともあって、余計に大きく見えた。
そして、センターポールに上がった星条旗と、同時に流れたアメリカ合衆国国歌が、ヘイズ選手が黒人だったことと共に、私にはすべて初めて目にするものだった。なので私は今でも、“星条旗”“アメリカ国歌”“黒人選手”の全てが、格好良いと感じてしまうのかもしれない。
子供の頃の体験は、いつまでたっても新鮮なのだ。
ボブ・ヘイズ選手はその後、4X100mリレーのアンカーも務め、世界新記録で2つ目の金メダルを獲得した。
 
意外だったのは、表彰式後のボブ・ヘイズ選手だった。
トラックでは、ランニングシャツから出ている太い腕と分厚い胸板が格好良かった。速そうで強そうに見えたからだ。
ところが、表彰式に現れたヘイズ選手は、青いトレーナーの上下を着用していて、自慢の体躯は見ることが出来なかった。しかも、レース中は掛けていなかった黒縁の眼鏡を掛けていた。レース中のダイナミックなイメージと異なり、知的なお兄さんといった印象だったことを覚えている。
しかも、ヘイズ選手は表彰台を降りた途端、観客席の方へ駆け寄った。そこには、小太りの黒人女性が居た。ボブ・ヘイズ選手のお母さんらしかった。スポーツ用のコンタクトレンズが無かった時代なので、ゴール直後のヘイズ選手は、お母さんを確認出来なかったのだろう。
そんなことより、格好良いお兄さんが、実は“ママっ子”だったことに、私は少し落胆したものだった。
 
東京オリンピックの7年後、中学生になった私は、テレビのニュースで、ボブ・ヘイズ選手と再会した。精神的に背伸びしていた私は、アメリカンフットボールに興味を持ち始めていた頃だった。そのシーズン、アメフトの最高峰『スーパーボウル』で、ダラス・カウボーイズが勝利した。スポーツ・ニュースでは、アメフトが取り上げられることは殆ど無かった時代だ。
試合の中で、俊足揃いの選手の中で一際目立つスピードの選手が居た。ニュースキャスターと解説者は、
「彼は、東京オリンピックの金メダリスト、ボブ・ヘイズ選手です」
と、紹介した。調べてみるとヘイズ選手は、オリンピック金メダルとスーパーボウルのチャンピオンリングの両方を獲得した初めてのアスリートだった。
ボブ・ヘイズ選手は私に、オリンピックとアメリカンフットボールという、生涯にわたって観続ける2つのコンテンツを紹介してくれたのだった。
 
今回の話は、これで終わらない。
 
オリンピック東京大会の10数年後、大学生だった私は或る映画会で両親と同世代の女性と懇意にさせて頂けることになった。その女性の父親は元陸上選手で、2度にわたって陸上800mの日本記録を樹立された方だった。直前のケガで参加出来なかったが、1932年のオリンピック・ロスアンゼルス大会の日本代表選手だった。
そのお方の名前は、岡田英夫さん。慶應義塾大学競走部(陸上部)のレジンドOBだ。
競技選手を引退した岡田さんは戦後、仕事の傍ら他大学の陸上部監督を務められた。そして1964年には、東京オリンピックの陸上競技審判長に任じられた。
 
1964年当時は、今と同じ電気で連動する時計と写真判定が導入されていた。ところが当時は未完成な部分もあり、電気時計が作動しなかった場合に備え、従来の手動時計も併用され、そちらが公式記録として残されていた。
手動時計での計測とは、ゴール地点で5人の審判員が階段状になった椅子に座り、一斉にストップウォッチを押すのだ。当然、結果にはバラツキが出る。当時のストップウォッチは、手巻き式のアナログだった。そこで、最も速いタイムと遅いタイムを外し、残り3つの記録を平均し公式記録とするものだった。
 
東京オリンピックの15年後、私は、岡田英夫さんとお逢い出来る機会に恵まれた。その当時、70代後半になられていた岡田さんは、年齢の為か床に臥せっておられた。それでも岡田さんは、オリンピック好きの私を幾度となく枕元に呼んで下さり、東京オリンピックの思い出話聞かせて下さった。
こうして私が、1964年の想い出を連載することが出来るのも、岡田英夫さんのお蔭と言っても過言ではない。
 
いつもの様に岡田さんの見舞いに訪れた私は、いつもの様にお話を伺っていた。
話題がボブ・ヘイズ選手になった時、岡田さんが急に真顔で、
「山田君にこの話はしていなかったな」
と改まってお話しされた。
「ヘイズのゴールは、審判席の最前列で判定したよ」
そして、多くの人に話すと信用されなくなるのでと前置きされて、
「実はな、あの時、俺のストップウォッチは“9.9”(秒)を指していたんだ」
驚く私に続けて、
「ノロマで無粋な奴が3人居て、“10.0”で押しやがったんだ。だから、公式記録が“10.0”になっちまったんだ」
と、残念そうに語った。そして、
「でもな、俺は、最も近い位置でヘイズのゴールを観たんだ。山田君なら、俺を信用するだろ?」
と言いながら、私の手を握ってこられた。流石に日本記録保持者だ。病弱な老人とは思えない力強さだった。
私はうなずきながら、岡田さんの計測結果をこれから信じていこうと思った。
 
私だけが知る、私と審判長だけが知る、人類が初めて10秒の壁を破った時の話です。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-06-10 | Posted in 2020に伝えたい1964

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