2020に伝えたい1964

その男は止めた。全力で止めた《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

「うゎぁ、大きくて格好良い選手だなぁ」
5歳の私の第一印象だった。
「ヘーシンクだ。柔道の」
隣にいた幼稚園の園長先生の長男(当時20代)さんが、つぶやく様に教えてくれた。
 
1964年のオリンピック東京大会開会式の翌日。私は、幼稚園のホールにある大型カラーテレビで、園長先生の御一家と一緒に開会式の再放送を観ていた。
この連載を書くにあたり、細くなってしまった記憶を手繰り寄せた時、私は、開会式を二度観ていたことを思い出した。再放送の日は、翌日の日曜日だった。私が通っていたのは、キリスト教系の幼稚園だった為、日曜の午前中は礼拝と日曜学校があった。私は日曜学校へは、中学校に入るまで通っていた。
当時、3年保育の3年目だったことと、日曜学校へも行っていたこともあり、私は、園長先生のご家族にも可愛がって頂いていた。特に、長男の方は、牧師になる為に進学していた上智大学のアメフト部に在籍していたことも有り、体格も良く、子供の私にタックルの仕方等を教えてくれていた。
その日、日曜学校が終わった後、
「オイ! 開会式をもう一度観ないか? 家には電話しておくし、帰りは送ってあげるから」
と、私を誘ってくれた。スポーツ好きのお兄さんと、もう一度開会式を観られるなんて、私には断る理由が無かった。
 
オランダ選手団の旗手を務めたアントン・ヘーシンク選手は、その長身を入場行進の時から生かしていた。198cmとも2mともいわれた長身は、手にする国旗が天皇陛下(昭和天皇)の前の通過する時、いかんなく発揮された。
他国の旗手達は、陛下に対して国旗に敬礼をさせる際、軽く傾けるだけだった。そうしないと、入場行進用に大きく作られた国旗がトラックを擦ってしまい、自国に対して礼を失することになる。
しかし、揃いの青いブレザーのユニフォームとカンカン帽がキマッテいた長身のアントン・ヘーシンク選手は、オランダ国旗を肩の高さに掲げると、ポールをトラックと平行になるまで90度倒した。オランダ国旗が、同じ配色のフランス国旗になった。それでも、国旗がトラックを擦らない高さを、ヘーシンク選手の肩は持ち合わせていた。
腰を90度傾ける“最敬礼”と同じ意味を持つその国旗敬礼を観た私は、礼儀正しさよりも格好良さを感じた。
 
アントン・ヘーシンク選手は、オランダの柔道代表選手だ。御存知の通り、1964年のオリンピック東京大会で、柔道無差別級の金メダルに輝いた。これで話が終わってしまうが、実は終わりではなく始まりだったのだ。
 
オランダの貧しい家庭に1934年生まれた、アントン・ヘーシンク選手は、12歳の時から建築現場で働かなければならなかった。彼の12歳の時といえば1946年、終戦直後だ。ナチス・ドイツに占領されていたオランダは、『アンネの日記』でもお解りの通り、国土の荒廃は悲惨を極めていた。その上、海外の植民地は次々と独立してしまい、オランダの経済も困窮を極めていた。
そんな中、柔道に出会ったヘーシンク選手は、恵まれた体格を生かしてメキメキと実力を上げていった。日本から派遣された指導者にも認められ、来日時には講道館や名門の天理大学で稽古した。ヘーシンク選手の来日は、柔道を引退するまで続き、毎年2か月は日本で暮らしていたという。
日本では、1950年代半ばだったこともあり、ヘーシンク選手は和風の生活で通した。当時の外国人が、畳に座ったり布団で寝たりするのは、相当の苦痛が伴ったであろう。しかし彼は、それを通じて柔道の『礼に始まり礼に終わる』という、日本の神髄に触れることになる。
 
1956年に初めて東京で行われた、第1回世界柔道選手権大会で、アントン・ヘーシンク選手は外国人で唯一人、銅メダルを獲得する。その後、1961年にパリで開かれた第3回大会で、前回大会優勝の曽根康治という日本人選手を破り、見事に金メダルを獲得する。
この時既に、世界一の実力を備えた柔道選手となっていたのだ。
 
ところが、オリンピック東京大会前になると、
「ヘーシンクは大きいだけだ」
「日本の柔道には伝統がある」
等と、根拠の無い憶測が飛び交った。当時5歳の私には判断が付かなかったが、園長先生の長男さんも、
「それでも、多分、勝てると思うよ」
と、言っていた。
しかしこれは、
「日本発祥の柔道では負ける訳にはいかない」
といった、願望の表れでしかなかった。冷静な状況判断と情報収集を怠る、戦前日本の悪い癖が残っていたのだった。
 
1988年のこと、たまたま知り合いの韓国の方と一緒に、オリンピック・ソウル大会で、公開競技(正式種目ではない)として行われたテコンドーをテレビ観戦していた。
決勝戦で、韓国の選手がアメリカの選手に敗れると、隣席に居た同世代の韓国の方は、泣き崩れて狼狽した。反応の大袈裟さに私が驚いていると、
「神永が、ヘーシンクに押さえ込まれたのと同じなんだぞ!」
と叫び始めた。私も、その大変さが瞬時に理解出来た。
それ位、オリンピック東京大会の柔道競技で、アントン・ヘーシンク選手の金メダル獲得は衝撃的だった。正確には、全階級に於いて日本が金メダルを獲得するという、楽観的願望が崩れた瞬間だった。
作家の瀬戸内晴美(現・寂聴)さんは、その時敗れた神永昭夫選手を、
「敗れて居住まいを正す時、顔面蒼白になって泣いているようにも見えた」
と、感想を述べている。
その試合をテレビ観戦した私は、同じく、日本中に無力感が漂ったのを記憶している。
 
柔道競技は、オリンピック東京大会で、初めて正式競技となった。現代では、フランス・ブラジルといった、発祥の日本より多くの競技人口を誇る国がある。1964年当時は、日本以外で柔道を競技として嗜(たしな)む者は兎に角、柔道を日本発祥の武道だと知っているだけで、現在の“日本マニア”の様に扱われていた。
そんな訳で、なんだかんだといってもオリンピックでは、日本が金メダルを独占するだろうと思われていた。
東京大会の柔道競技は、68㎏以下級・80㎏以下級・80㎏超級・無差別の4階級で争われた。現在では、81㎏以下級が中量級扱いなので、柔道競技者全体が国際的に大型化している証拠だろう。
また、現在でも柔道全日本選手権は、体重無差別で競われていることから、日本で柔道とは“無差別で争う”ものとの考え方が強い。“柔よく剛を制す”“小よく大を制す”の諺(ことわざ)にある通り、体格の劣る日本人でも無差別級で勝利することこそが、柔道発祥の国としての誇りでもあるようだ。
 
1964年10月20日に、柔道競技は始まった。会場は、九段の北の丸公園に新設された日本武道館だ。奈良に在る、世界文化遺産の法隆寺・夢殿を模(かたど)った武道館は、現在でも現役で毎年の柔道日本選手権の他、数々のライブ会場として活躍している。そればかりか、来たる2020年の東京オリンピックでも、柔道会場となるらしい。
それにしても、ウエイトリフティングの会場だった渋谷公会堂といい、この武道館といい、後にライブ会場となる施設を建てたことは、前回の東京オリンピックが、日本の文化に大きな一石を投じた証拠といってもいいだろう。
 
日本の柔道チームは、68㎏以下級は中谷雄英選手が、80㎏以下級は岡野功選手が、順調に金メダルを獲得した。問題は、80㎏超級と無差別級だった。オリンピックの柔道競技で、無差別級が廃止された現代では、超重量級選手を2人要する事態が、なかなか理解出来ないかもしれない。無差別級がオリンピックで行われた最後の大会となるロスアンゼルス大会で、たまたま、山下泰裕選手と斉藤仁選手という、史上類をみない選手が出場出来たことによって、大きな問題とはならなかった。
しかし、1964年の東京では、日本における大型の柔道家は、173㎝86㎏で東京教育大学(現・筑波大)出身の猪熊功選手だった。しかし、いかにも小柄過ぎた。現に、猪熊選手は、体重無差別で競われる全日本柔道選手権史上、最軽量の優勝者として記録が残っている。
もう一人無差別級候補は、179㎝104㎏で明治大学出身の神永昭夫選手だった。当時としては大柄な柔道家だったが、身長2mに達するアントン・ヘーシンク選手と比べると、はるかに小柄だった。
首脳陣は、最後までエントリーを迷った末、まだヘーシンク選手と闘ったことが無いとの理由で、神永選手を無差別級に出場させる決断をした。
それが功を奏したのか、身長173㎝の猪熊功選手は、80㎏超級決勝で自分より30㎏以上重いカナダの選手を破り、金メダルを獲得した。
対するアントン・ヘーシンク選手は、
「猪熊でも神永でも、どちらが来ても勝って見せる」
と、自信満々だった。
 
1964年10月23日(金曜日)。
予選でヘーシンク選手に、神永選手は敗れた。しかし、これは手の内を隠し切った神永選手の作戦だった。敗者復活戦を勝ち上がり、神永選手は決勝戦で再びヘーシンク選手と相まみえた。
私は、数十年後のオリンピック回顧番組で、神永昭夫選手が、
「東京オリンピックの直前、左膝の靱帯を切ってしまっていて、十分に歩くとこもままなら無かった。そのことを、周囲に知られない様にするのに必死だった」
と、語った姿を見て大きな疑問を抱えた。
何故、出場を辞退しなかったのかとの問いに、神永選手は、
「何を言っても、日本の伝統を守れなかった言い訳にしかならない。そんな雰囲気が、日本中に満ちていた」
と、当時の状況を語っていた。そして、
「第一、当時は、あんな身長2mもある選手と、稽古する機会も無かった。それに、大型選手にどう対処するのかさえ指導も無かった」
と、語っていた。
神永昭夫選手も、当然、悔しかったことだろう。現役を引退し、指導者となった神永氏は、1976年オリンピック・モントリオール大会で、柔道無差別級に於いて金メダルを獲得する上村春樹選手を育て上げた。
この、神永氏よりはるかに小柄な上村選手が獲得した金メダルは、日本初のオリンピック無差別級金メダルだったのだ。
 
東京オリンピックの決勝戦9分22秒で、アントン・ヘーシンク選手は神永昭夫選手を袈裟固めで破った。
勝負ありブザーが武道館に轟いた。
次の瞬間、ヘーシンク選手は身を起こすと、グローブの様に大きな手を観客席の或る方向へ突き出した。そしてオランダ語で、
「来るな! 来るんじゃない!!」
と、まさに鬼の形相で叫んだ。突き出された大きな手の先には、驚喜したオランダ選手が、開会式の時と同じユニフォームで国旗を手に畳に駆け上がろうとしていた。
その選手達を、アントン・ヘーシンク選手は必死で止めたのだった。
後日、その時の様子をヘーシンク選手は、
「武道館の畳は、決勝を闘う私と神永だけのものだ。それ以外の者は、何人たりとも上がらせる訳にはいかない。それが、柔道という日本の武道の流儀だからだ」
と、語っていた。
応援に来た選手達の気持ちも、ヘーシンク選手は心得ていて、神永選手と共に居住まいを正し、礼をし握手すると、自ら畳を降りてオランダ選手団の中に飛び込んでいった。
 
この、ややもすれば日本に対する無礼とも取られ兼ねないオランダ選手の行為を、私が後日、理解することになる。
 
私達がオランダと聞くと、江戸時代の鎖国中でも、清国(中国)と共に長崎・平戸で貿易を許されていた、どちらかというと親日的な国と認識しているはずだ。オランダを通じて、数々の文明も伝わっている。
ところがオランダ側からは日本の事を、第二次世界大戦中に自国が占領していた東南アジアの植民地に侵入し、敗戦後はその独立を手助けしたと解釈されていたのだった。
事実、戦前は、現在のインドネシアにあたる、当時の蘭領インドシナで産出される石油に、オランダは頼り切っていた。その、エネルギー供給源であり、富の産出元を手放す切っ掛けを作ったのだから、日本の事をよく思わない方も多かったことだろう。
自国を不幸に陥れた、いわば敵国の国技、しかも、敵国開催の大会で敵国の選手を破ったのだから、その喜びは格別だったことだろう。
 
私が、オランダは決して親日国では無いと知ったのは、オリンピック東京大会の7年後、昭和天皇の欧州歴訪の時だった。戦争犯罪者の天皇を迎え入れるなとのデモが、現地で起こっているとのニュースを見た時だ。
白馬事件等で、数多くのBC級戦犯が処刑されたことを知るのも、もっと後の事だった。
その上、もう許しを請う必要が無くなったと思われた1989年初頭、昭和天皇崩御に伴う大喪の礼に、欧州各国は元首である国王陛下が参列して下さった。大戦時宣戦布告をした英国ですら、御高齢のエリザベス女王ではなかったが、チャールズ皇太子が名代として参列して下さった。王政ではない共和国の殆どが、大統領を真冬の寒さ厳しい東京へ送って下さった。
ところが、オランダ王室だけは、どなたの参列も無かった。オランダを代表したのは、外務大臣だった。このことで私は、武道館の畳に駆け上がりそうになった選手達の気持ちが、やっと理解出来た。
そして改めて、アントン・ヘーシンク選手の偉大な行動に、頭が下がる思いがした。
 
後年、東京オリンピックの想い出を、アントン・ヘーシンク氏は何度も語っていた。覚えているのは、無差別級で自分が勝利したことを日本のファンに向かって、
「日本の武道で勝ってしまった外国人の私を、ましてや、勝てなかった神永選手を、決して責めないで欲しい」
続けて、
「もしあの時、私が神永に敗れ、日本が金メダルを独占していたならば、マイナー競技であった柔道が、その後もオリンピック競技であり続けることは無かっただろう」
と、語っていた。事実、東京の次のメキシコでは、柔道は正式種目から外された。そして、その4年後のミュンヘン大会で、復活した。東京オリンピックからの歳月で、柔道が急速に世界中に広まった証拠だろう。
さらにヘーシンク氏は、
「私の事を、嘉納治五郎先生は『柔道をオリンピックに残した男』と認めて下さるだろう」
とも語っていた。
 
56年前と同じ会場で行われる2020年の東京オリンピック柔道。
2010年に惜しくも他界されたアントン・ヘーシンク氏は、多分、嘉納治五郎先生の隣席から、暖かい声援を送って下さることだろう。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-08-12 | Posted in 2020に伝えたい1964

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