なんだ! この大男は!!《2020に伝えたい1964》
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
「うわぁ、でっけぇ選手!!」
「ソ連のジャボチンスキーだ。重量挙げの」
私が5歳だった1964年10月11日午後、幼稚園のホールで驚きの声を上げた私に、園長先生の長男さんが呟くように教えてくれた。
テレビでは、前日行なわれたオリンピック東京大会の開会式が、再放送されていた。私は、日本のお相撲さんの様に丸々と太った選手が、普通は両手で支えるのがやっとの国旗を、片手で軽々と持っている光景に驚愕した。ただ片手で持っているのではない、その旗手の手は国旗ポールの一番下を持っており、そればかりか、右腕をトラックと平行に肩の高さで伸ばしていたのだ。
まるで、自らの腕力(かいなぢから)を誇示するかの様に。
お兄さんの情報には、間違いがあった。
残されている入場行進の映像では、この大会で30個もの金メダルを獲得するソビエト連邦選手団の先頭には、真っ赤な国旗を“確かに”片手で持つ選手が映し出されている。その様子と体格からして、重量挙げの選手と推測される。それはいい。ところが、その旗手は黒いセルフレームの眼鏡を掛けているのだった。コンタクトレンズが一般的に普及していなかった当時、近視のスポーツ選手の多くは、眼鏡を掛けたままプレイしていた。そして、当時の眼鏡の多くは、重いガラスレンズで、太いセルフレームの物がほとんどだった。その当時では、よく見かけた光景だ。でも、重量挙げヘビー級(90㎏超級)の金メダリストは、眼鏡を掛けていなかった。しかも、入場行進で確認した大柄な選手より、もっと長身な選手だった。
今回、この記事を書く為に記録と映像を確認したところ、ソ連の旗手は『ジャボチンスキー』という名の選手では無かった。
旗手を務めた選手の名は、ユーリ・ウラゾフという、これまたロシア人を代表する様な名の選手だった。オリンピック東京大会では重量挙げヘビー級の銀メダルを獲得した選手だ。その前のローマ大会にも出場しており、その際は見事に金メダルを獲得している選手だった。
よってその時、私が教えてもらった情報は、不正確であったことが確定した。
ところが、思い返してみると『ソ連の旗手=ジャボチンスキー』の記憶は、伝説と記憶としては、残しておいても良いと考えられなくもない。実際、東京の次のメキシコ大会では、ジャボチンスキー選手がソビエト連邦選手団の旗手を務めている。当然、右腕を伸ばした、ウラゾフ選手と同じポーズで。
『レオニード・イヴァノヴィッチ・ジャボチンスキー』という、ロシア人丸出しの名前は、“ソビエト社会主義共和国連邦”というソ連の正式国名を声高に言ってしまう教育を受けた世代には、衝撃とともに記憶している。身の丈190cm体重165kgのウクライナ出身の26歳の重量挙げ選手は、東京大会のヘビー級で衝撃の世界新記録を出すと共に、金メダルを獲得した。
重量挙げ二日目のフェザー級で、日本の三宅義信選手が金メダルを獲得して以来、すっかり重量挙げの虜になってしまった我々子供達は皆、ジャボチンスキー選手のファンになってしまった。
シャフトが折れてしまうのではと思う程、多くの‘重り’を左右に付け撓(しな)ったバーベルを、ジャボチンスキー選手は表情一つ変えず、気合もろとも頭上に差し上げた。
勢いよく降ろされたバーベルは、大きな音を立てて渋谷公会堂の舞台の上で弾んだ。その迫力は、テレビを通じてでも十分に伝わった。それと共に、人間の力の限界はとんでもないものだと感じられた。
半世紀以上経っても、ジャボチンスキー選手の衝撃が薄れないのは、別の理由もある。
まずは、開会式の入場行進。オリンピック発祥の地ギリシャの選手団を先頭にした行進は、ラストで開催国の日本の登場となる。その間は、英語表記でアルファベット順で入場してくることになる。
頭文字が“A”のオーストラリアや“C”のカナダ、そして“D”のドイツといった、比較的大人数の選手団は前半に多かった。中盤は、カメルーン・モンゴル・マリといった、東京大会が初出場となる国々が続いた。
そして、後半には“U”が頭文字の二大国、アメリカ合衆国(U.S.A.)とソビエト社会主義共和国連邦(U.S.S.R.)が、続けて入場してくる。開催国の日本を凌ぐその両選手団は、最後尾がトラックに足を踏み込んだ時、先頭の旗手は既にフィールド内の待機場所に着いてしまった程だった。
両国選手団は、実に対照的だった。アメリカの選手は、星条旗のトリコロール(三色)と同じ、真っ青なブレザーに真っ赤なネクタイ、そして純白のスラックスという出で立ちだった。そればかりではない、メッシュの革で作られた靴も白だった。その上、男子選手はカウボーイが被るテンガロンハットを頭の上に乗せていた。雲一つない東京の空は、眩しかった。碧眼の選手ばかりでは無かったが、多くの選手が、レイバンのサングラスを掛けていた。そう、マッカーサー元帥が厚木に降り立った時のサングラスだ。行進の脚は揃っていたものの、周りの選手達とお喋りしたり、中にはカメラや8ミリで国立霞ヶ丘競技場にギッシリ詰まった観客を撮り始める選手もいた。
実に若々しく、自由の国を体現している様で、子供心で憧れるには十分過ぎる程だった。
一方のソ連選手団はというと、地味なカーキ色のスーツで、ポイントといえば上着の左胸に挿した赤いポケットチーフだけだった。天皇陛下の前に進むと、そのチーフは、選手の手で取り出された。赤いチーフは、ソ連の国旗を模(かたど)っていた。
選手団はどこか、オリンピアンの行進というより。メイデイのデモ行進か、赤の広場で行われる軍事パレードを思い起こさせた。どこか暗く、強制感が漂っていた。躍動感が、無かったからだ。
ただそれだけだった。
大柄で、ピンと伸ばした太い腕一本で国旗を差し出す旗手を除いては。
ソビエト連邦選手団は、アメリカに準じる金メダルを獲得した。同時に僕達は、赤地に黄色い(正式には金色)金槌と鎌と星が描かれた国旗と、暗く重々しい国歌(現・ロシア国歌と同じ)に接することとなった。
街中では、戦後19年経っても対日宣戦布告やシベリア抑留から、根強い反ソ感情に満ちていた。その上、日本の得意競技であった体操やバレーボールで金メダルを争うことになり、より一層の向かい風となっていた。
そんな中で、僕等幼稚園児は『ジャボチンスキー』という、いかにもソビエト連邦の名前を憶えてしまった。
それは多分、世界新記録となる重さのバーベルを降ろした後の、無邪気に喜んだ笑顔が印象的だったからだろう。“大きな赤ん坊”という表現が有るが、ジャボチンスキー選手以上に当てはまる選手は、それ以降現れていない。
東京大会後しばらくの間、我々子供達は長めの棒を手にすると決まって、棒の端を握り、腕を真っ直ぐ伸ばして、
「ジャボチンスキー!」
と、大声で叫んだものだった。
オリンピック東京大会以降、メキシコ大会でも金メダルを連続で獲得したレオニード・ジャボチンスキー選手は、その間とその後19回も世界記録更新した。それにより、同じく何度も世界記録を塗り替え、オリンピックチャンピオンになった陸上棒高跳びのセルゲイ・ブブカ選手同様、記録にも記憶にも残る選手となった。
ジャボチンスキー選手とブブカ選手は、共にウクライナ出身だ。時代の流れで、金メダルを獲得した表彰台では、どちらの時も“ソ連国旗”が掲揚され、現・ロシア連邦国歌が流れた。
残念なことに、2016年77歳でこの世を去ったレオニード・ジャボチンスキー氏。
来る2020年のオリンピック東京大会では、ウクライナ国旗である青黄二色旗が上がるたびに、ウクライナ国歌『ウクライナは滅びず』を、天国で熱唱されることだろう。
「本音では、半世紀以上前の東京で、この旗の旗手として参加し、この国旗を揚げ、この国歌を歌いたかった」
と言いながら。
❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。
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