2020に伝えたい1964

東京がオリンピックで盛り上がっていた時、大阪では《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

今年(2019年)の夏は、昨年に比べややマシだったものの、それでも日本は猛暑に襲われた。気温が、摂氏35度に迫るたび、来年のオリンピック開催時の気候が心配された。
 
前回の東京オリンピックを経験している者にとって、スポーツ、それもオリンピックでの暑さを気にし始めたのは、1984年に開催されたオリンピック・ロスアンゼルス大会のマラソン競技だった。
先ず、女子マラソンでスイスのガブリエラ・アンデルセン選手が、意識朦朧となりながらゴールした。現代ならそれが、熱中症と直ぐに分かるが、当時はその概念がなかった。
続いて、男子マラソンでは、当時世界最強と思われていた日本の瀬古利彦選手が、カリフォルニア独特の強い直射日光にさらされ、35km付近で先頭集団から遅れた。この瞬間、太平洋を挟んだ日本で、テレビを通じて応援していた私達は、猛暑の中でのスポーツが、選手に必要以上の負荷をかけると気が付いた。
 
そこまで、オリンピックの暑さを気にもしなかったのは、1980年のモスクワ大会に日本を含む西側諸国が参加せず、その前の1976年モントリオール(カナダ)大会と1972年ミュンヘン(西ドイツ・当時)大会は、比較的寒冷な地で開催されたからだった。東京より緯度が低い(南方)メキシコシティで開催された1968年の大会は、東京と同じく10月に開催されたので、さほどの暑さを感じなかった。しかも、海抜2,500mの高地開催だったので、酸素の薄さを気にするばかりだった。しかしその結果、空気の薄さから空気抵抗が低く、驚異的な世界記録が、特に陸上競技で連発したものだった。
 
その反面、東京の前に開催された1960年のローマ大会は、真夏の開催だったので、マラソン競技(当時は男子のみ)等は、夜にスタートしたものだった。
では何故、1964年の東京オリンピックは、夏ではなく10月に開催されたのだろうか。しかも、温暖化が進んだ現代と違い、当時の東京の10月は、ちゃんと秋の気候だったのだ。
 
今回、この記事を書くにあたり調べてみたところ、当時の日本オリンピック委員会は、温度のことより雨を心配し、台風や雨の心配が少ない秋に開催したそうだ。
また、当時は、オリンピック開催時期に関する明確な取り決めも無かった。
したがって、初の10月開催としたことにも、特段の異議が挟まれることも無かった様だ。
では何故、来年の東京オリンピックは、真夏の開催になってしまうのか。それは、現代では、国際オリンピック委員会(IOC)に7月から8月開催を明示する取り決めが出来たからだった。
その取り決めが出来たのは、1984年のロスアンゼルス大会からだ。丁度、オリンピックが、厳格なアマチュア規定からプロかへ、大きく舵を切った時期と重なっている。
 
真夏開催の取り決めに、大きく関わったのはアメリカのオリンピック委員会だ。
日本に於いては、国民を挙げて熱狂するオリンピックだが、世界的に見ると稀な方だ。日本と同じく、オリンピックに注目する国は、アメリカとせいぜい英国くらいらしい。
プロ化したオリンピックに大きな影響を与えるのが、巨大な協賛金を支払うスポンサー企業だ。その多くは、アメリカの企業かアメリカを大きな市場とする業界だ。特に、アメリカのマスメディアの影響は強く、他のスポーツ(特にMLB)が佳境に入る10月に、オリンピックを開催されては、提供される協賛金が減ってしまい、たまったものではなくなるからだ。
 
オリンピックの真夏開催の取り決めに関し、大きな影響力を発揮したと思われるMLBは、1964年の東京オリンピックを例に取っている。
 
1964年当時、日本に於いて最も人気のあるスポーツというと、既にプロ野球に移行していた。長嶋茂雄氏がプロ野球にデビューして、もう6年が経とうとしていた時期だった。プロ野球に人気が、隆盛となりつつあった時期だった。
1964年の東京オリンピックの開会式当日、実は日本シリーズの行方を決する第7戦が行われていた。勿論、プロ野球機構も手を拱(コマね)いていたのでは無く、オリンピックまでには、ペナントレースは無論、日本シリーズも終了しておく日程を組んでいた。また、両リーグ優勝が決まり次第、残りのペナントレース終了を待たず、日本シリーズを並行して行い、日程を詰める努力をしていた。
ところが、策は功を奏さなかった。セントラルリーグの優勝は、最終年にまで縺れ込み、シーズン最終戦で阪神タイガースが優勝した。続いて始まった日本シリーズは、それでも10月9日に第7戦が行われる予定だった。
 
セントラルリーグ優勝の阪神タイガースと、パシフィックリーグ優勝の大阪ホークス(現・ソフトバンク・ホークスの前身)との間で争われた1964年のプロ野球日本シリーズは、オリンピックに対抗して“御堂筋シリーズ”という名がついた。大阪のチーム同士だったからだ。また、両チームの外国人助っ人が活躍したことから“外人シリーズ”とも呼ばれた。
昨年10月に亡くなったホークスのジョー・スタンカ投手と、今年の9月に亡くなったタイガースのジーン・バッキー投手の両エースが投げ合ったからだ。
順調に日程を消化した1964年の日本シリーズは、タイガース3勝ホークス2勝で迎えた第6戦が、雨で順延となってしまった。しかも、その第6戦にホークスが勝利したことにより、第7戦に縺れ込んでしまったのだった。
その結果、東京オリンピックの開会式と重なった第7戦は、5万人収容の甲子園球場で行われたにもかかわらず、わずか15,000人の観衆の中で行われたのだった。当時の集計は、現代ほど正確では無く、多分、かなりの水増しが行われていたとしても不思議はない。それにしても、日本一巨大な甲子園球場で、多く見積もっても1/3に満たない観客では、さぞかしガラガラな惨憺たる光景だったことだろう。
しかも、第7戦だけでは無く、甲子園で行われた4試合は全て、観客が2万人を切っていたとの記録もある。東京では無く大阪で開催されたにもかかわらず、人気のプロ野球の観客が、これほどまで少なかったということは、マスメディアを通じた国民の関心が、全てオリンピックに傾いていた証拠となってしまった。
 
この、1964年の日本プロ野球が、オリンピックにより注目を失ってしまった事が、MLBやその他のアメリカのマスメディアが、オリンピックの真夏開催にこだわる根拠とされているのだ。
 
来年、灼熱の真夏の東京で開催されるオリンピック。選手や観客の安全を祈るばかりである。
 
“御堂筋シリーズ”と名付けられた位近所同士での開催だったので、せめて慣習に囚われず、移動日を無くしておけばと、今となっては思たりする。
もう、55年も遅いけど。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-10-14 | Posted in 2020に伝えたい1964

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