その名は、ドンとドーン 《2020に伝えたい1964》
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
このところのオリンピックでは、必ずといっていい程、各大会をシンボライズする選手が現れるものだ。たいがいの場合、その選手の競技はメイン競技の陸上か水泳だ。
特に最近の大会を振り返ると、印象深い水泳選手が多く出現している。記憶に新しいところでは、2004年のオリンピック・アテネ大会から2016年のリオデジャネイロ大会に出場した、アメリカのマイケル・フェルプス選手が挙げられる。“水の怪物”“ボルチモアの弾丸”の異名を取るフェルプス選手は、その名の通り、オリンピックだけで合計23個の金メダルを含む28個ものメダルを獲得している。
マイケル・フェルプス選手程でなくとも、シドニー大会からアテネ大会で活躍したオーストラリアのイアン・ソープ選手や、ロスアンゼルス大会からソウル大会、そして、バルセロナ大会まで出場したアメリカのマット・ビオンディ選手が居た。
日本選手でも、アテネ・北京の両大会で、オリンピック新記録や世界新記録を叩き出しながら100m200m平泳ぎで、二種目連覇を果たした北島康介選手は、日本以上に世界で有名だ。
私個人としては、1984年のロスアンゼルス大会と続くソウル大会に出場した、当時の西ドイツのミハエル・グロス選手が印象に残っている。それは、記録やメダル数ではなく、グロス選手が201cmの雲を衝く様な長身だったことだ。その上、両腕を拡げたリーチは211cmに達していて、その姿から“アルバトロス”と呼ばれていた。特にバタフライ種目では、真っ直ぐ泳がないとコースロープに腕が引っかかる始末だった。
また、1972年のオリンピック・ミュンヘン大会に出場した、アメリカのマーク・スピッツ選手も印象に残っている。何故なら、出場した全7種目総てで、スピッツ選手が金メダルを獲得したからだ。7個もの金メダルを、重そうに首から下げた彼の写真が印象的だった。
私が何故、多数のメダルを獲得する水泳選手に注目する様になったのか。それは当然、1964(昭和39)年のオリンピック東京大会にさかのぼる。
先ずは、当時5歳だった私でも、ドン・ショランダー選手に付けられた“水の芸術品”という、丹下健三氏が設計した代々木競技場(水泳会場)の荘厳さに負けないニックネームの仰々(ぎょうぎょう)しさは、十分に理解出来るものだった。
ショランダー選手は、合計4個の金メダルを獲得した。少なく感じるかもしれないが、56年前の男子水泳は全体で10種目しかオリンピックで競われなかった。次の東京大会では18種目に増えるので、ショランダー選手の獲得メダル数は、現代なら8個位に値するものだろう。
ドン・ショランダー選手は、自由形の選手だった。1964年の東京大会の自由形は、100m・400m・1,500mで行われていた。ショランダー選手が金メダルを獲得したのは、4X100mと4x200mリレー、そして、100m・400mだった。リレー2種目と100mは、同じ短距離種目なので理解出来る。しかし、400mともなると、完全に中長距離のカテゴリーとなる。陸上競技に例えると、100m選手が1,500m走をも同一大会で走る様なものだ。陸上も水泳も、カテゴライズが厳しい現代では、ドン・ショランダー選手の結果は、まず、考えられない快挙だろう。
ドン・ショランダー選手は、戦後の1946年生まれ。東京オリンピック当時は、まだ18歳の高校生だった。
今回調べたところでは、ショランダー選手はノースカロライナ州で生を受けた。直ぐに、オレゴン州に移った。地元の高校に進み、アメリカン・フットボール部を目指したが、身長が足りないという理由で入部が叶わなかった。その結果、水泳選手を目指すこととなり、実力を一気に開花させたそうだ。
ドン・ショランダー選手の公称180㎝の身長は、当時でも小柄な部類に入っていた。フットボール選手としても、水泳選手としても。
東京オリンピックの翌年、彼はアイビーリーグの名門イェール大学に入学する。そして大学4年の時、オリンピック・メキシコ大会にも出場した。
前回の東京オリンピックでは、女子にも注目の水泳選手が出場していた。オーストラリアからやって来たドーン・フレーザーという、大柄(ショランダー選手と同じ180㎝)な選手だった。1937年生まれなので、東京オリンピック当時は27歳という当時としては、‘大’が付くベテラン選手だった。
それもその筈、ドーン・フレーザー選手は、1956年に地元で開催されたオリンピック・メルボルン大会から、1960年のローマ大会、そして東京大会と三大会連続で出場している。ベテラン選手になるのも、もっともなことだ。
ただ、フレーザー選手が、単なるベテラン選手で無かったのは、出場した三大会全てで、100m自由形の金メダルを獲得していることだ。ベテランの女子選手が少なく、そして、水泳での連続金メダル獲得も珍しかった時代のことなのでなおさらだ。
もう一つ表彰式で、私が発見したことがある。1964年当時、オーストラリアの選手が金メダルを獲得すると、オーストラリア国旗が掲揚されるものの、流れる国歌は、英国と同じ“ゴッド・セーブ・ザ・クィーン”だった。当時はまだ、英連邦の関係性が強かった時代だった証明でもある。
そんな訳で、ドーン・フレーザー選手は、子供の眼にもどこか特別感が強い選手に映った。
しかも、競技とは全く別のことで、ドーン・フレーザー選手はニュースで取り上げられていた。ニュースでは、フレーザー選手が選手村から外出し、銀座でショッピングする前に事件が起こったと伝えていた。その事件とは、皇居前を通り掛かったフレーザー選手が、皇居に掲揚されていたオリンピック旗を手に入れようと、ポールによじ登ったというものだった。当然、警官に追われた為、思わずお堀に飛び込んで逃げようとしたそうだ。オリンピック金メダリストも逃げ切ることが出来ず、警察署(多分、丸の内署)に連行され、厳重注意を受けたというものだった。
子供心に、豪快な選手だなぁと感じたものだ。
21世紀に入り、私はひょんなことで、ドン・ショランダー氏とドーン・フレーザーさんの名を目にした。
2001年1月、ジョージ・W・ブッシュ大統領(ジュニアの方)の就任式の招待客を、私は外電で確かめていた。その中に、“Donald Arthur Schollander”の名を見付けた。見覚えがある名だったので、私は調べることにした。ネットの時代になっていたので、思いの外、簡単に答えに当たった。
その招待客は、東京オリンピックで活躍した“水の芸術品”ドン・ショランダー氏だった。ブッシュ大統領とはイェール大学の同級生で、“スカル・アンド・ボーンズ”という名の秘密結社(といっても、同好会程度のもの)でも一緒だったそうなのだ。
どうりで、大統領就任式に招待される訳だ。
一方のドーン・フレーザーさんの名に出会ったのは、2009年のこと。71歳になっていた彼女が、ブリスベンの自宅に押し入って来た強盗を、格闘の末撃退したというニュースだった。押し入った強盗も、まさか三大会連続金メダリストで、皇居のお堀に飛び込んで警察から逃げ切ろうとしたおばあさんの家とは思わなかったことだろう。
命が残って、良かったというものだったろう。
ドン・ショランダー氏とドーン・フレーザーさん。どちらも御存命だ。
来年の有明プールには、是非、お揃いでお運び頂きたいものだ。
❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。
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