山下泰裕選手に届いた、開催国の一般国民からの招待状(1980年モスクワ大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
〔始めに〕 先達てお知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、本連載をエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていくことになりました。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!
5歳の時に前回の東京オリンピックに出会い、類稀なオリンピック馬鹿に育った私からみると、10~15歳下に“オリンピック馬鹿の壁”が存在している気がしてならない。
その理由は明白だ。1980年に、共産圏(社会主義国)初の開催となったソビエト社会主義共和国連邦の首都モスクワで、オリンピックが開催されたからだ。
ただ開催された訳ではない。オリンピック史上初めて、大規模な参加ボイコットが起こったからだ。御存知の通り、日本も選手団を送り出してはいなかった。
丁度、小学生の多感な時に、オリンピックの感動を取り上げられてしまった世代は、実に可哀想だ。
当時、21歳の大学4年生だった私は、それまでのオリンピック以上の記憶を残しており無責任なことは書けない。また、お伝えしたい事柄も多いので、今回だけは少し長くなることを御容赦頂きたい。
・ボイコットの歴史と経緯
日本人初のオリンピアン金栗四三(かなくりしそう・大河ドラマ『いだてん』の主人公)さんなら、
「ベルリンは完走したかったのに、戦争で中止になった俺の気持ちが分かるか」
と、仰っただろう。
金メダル確実といわれながら、日本の戦争責任で1948年のロンドン大会に参加を許されなかった古橋広之進(フジヤマノトビウオ)さんは、
「招待されているなら行ったらいい」
と、仰ったそうだ。
そして、日本のオリンピックの父である嘉納治五郎先生なら、
「儂(わし)が命を懸けて招致した、1940年の東京オリンピックを返上しておきながら、今度はボイコットするとは何事だ‼」
と、叱って下さっただろう。
開催までわずか3か月という時期になって、日本オリンピック委員会(JOC)は、政府のボイコットの意向に沿い、オリンピック・モスクワ大会の不参加を決めた。
ただ、オリンピックに招待されたにもかかわらず、政治的問題で不参加を表明するボイコットは、小規模ではあったがこれが初めてではなかった。
1964年の東京オリンピックでは、来日までしていたのにインドネシアと北朝鮮の選手団が、開会式に参加せず帰国してしまった。
1972年のミュンヘン大会では、イスラム系テロ集団が、イスラエルの選手を人質にし殺害した“ミュンヘンオリンピック事件”を予見するかの様に、一部の中東諸国が不参加を表明した。
続く、1976年のモントリオール大会では、人種隔離政策を取る南アフリカの参加は認められなかったばかりか、ラグビーの試合でニュージーランドが南アフリカと対戦したという理由で、アフリカの数か国がボイコットしていた。
この様に、モスクワ大会以前にもオリンピック・ボイコットは有るには有ったが、その規模が小さかった為に、世界的なニュースには至っていなかった訳だ。
オリンピック・モスクワ大会のボイコットは、開催の前年1979年12月に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に端を発する。これは、アフガニスタンの内戦に、隣国のソビエト連邦が軍事政権を擁護する目的で始まった。
現代の若者には理解し難い問題かもしれないが、東西冷戦真只中の時代だ。東側・共産圏と敵対する西側・自由主義陣営の中心だったアメリカ合衆国大統領ジミー・カーター氏は、即座にソビエト連邦の軍事的撤退を要求し、撤退無き場合は、オリンピック・モスクワ大会をボイコットする声明を出した。
その日は、クリスマス当日だった。
日本では、年の瀬だったことも有り、ボイコットのニュースを横目で見ながら、師走の慌ただしさに紛れていたことを想い出す。
そして、新年を迎えるころには、そのめでたさも手伝って参加する(オリンピック)のではという楽観論が漂っていた。戦前から見られた、根拠なき楽観だ。
少し考えればわかりそうなものだが、オリンピック開催国が隣国に軍事侵攻し、それでもなお、平気な顔してオリンピックを開くことが妥当ならば、1940年に中国へ侵攻していた日本でも、無事にオリンピックが行われていた筈だからだ。
元々、オリンピックはスポーツの祭典なので、政治とは無関係だ。
しかし、開催国から招待され参加を決めるのは、各国のオリンピック委員会であって、政府ではない。
では何故、日本はオリンピック・モスクワ大会に参加することが出来なかったのか。
そこには、いつまでもアマチュアリズムに固執するJOCの弱点があったのだ。選手はアマチュアなので、競技をする事で収入は得られない。JOCも、現代の様に協賛企業によるスポンサーフィーが、潤沢に入ってくる時代ではなかった。
大概は、各競技大会の観客入場料が主な収入だった。不足する(実際は大半の)予算は、国(政府)からの補助金に頼っていた。
選手やコーチは、大学や企業に所属し部活として活動していた。遠征や合宿の費用は、その大半が持ち出しだった。
今年(2020年)になって、東京大会の延期が決まると1980年当時のモスクワ大会ボイコットに関する報道が、マスメディアで目にする機会が増えた様な気がする。見解は一様に、オリンピックに参加出来なかった選手を、可哀想だと憐れむ傾向が強い。
しかし、振り返り当時のスポーツが置かれていた状況を鑑みると、政府の意向に添わねばならないことが理解出来る。何せ、政府の補助金無しには、いかなるアマチュア競技も成り立っていなかったからだ。
JOCを始め、各競技団体が独自のスポンサーを集めることが出来ている、現在の日本スポーツ界からみると、まるで石器時代の印象なのだ。
冷戦当時でも、アメリカの意向通りの政策を取らざるを得なかった日本政府は、当然の様にJOCから“自主的に”不参加表明を出して欲しかった。そこには、アマチュアスポーツ、特にオリンピックに対して政府が強権を発動したかのような印象を残したくはなかったからだ。そこで、裏ルートといっていい方法でJOCに政府の意向を伝えていた。
JOCはJOCで、本心ではオリンピックに参加したいものの、政府からの補助金が削られてしまえば、選手強化も儘ならないという台所事情が在った。そこで、最終的決断が遅れてしまい、業を煮やしたオリンピック候補選手や監督コーチが、JOCが在った岸記念体育館(現在建て替え中)で集会を持った。あくまで、オリンピック参加を願う集会で、決してJOCの見解を改めさせようというものではなかった。
そこで、発言されたのが、よく映像で見掛ける柔道の山下泰裕選手の声高な訴えや、レスリングの金メダル候補、高田裕司選手の涙ながらの訴えだ。
その集会の結果、選手がこれだけ頼んでいるのだから、行かせてあげようよというコンセンサスが出来上がった。総て、高田選手の涙のお蔭だ。
当時大学生で、多くのオリンピック選手と同世代だった私は、200%選手側に立つ所存だった。しかしながら、かの集会での山下選手や高田選手の発言に、少し違和感が残った。
何度も書いて恐縮だが、1980年当時、日本のオリンピアンは、総てアマチュアだったのだ。アマチュアとは、あくまで趣味の範囲でスポーツを楽しみ極めることだと考えていた。ところが彼らの話の内容は、
「オリンピックで金メダルを獲る為に練習した」
とか、
「オリンピックが無くなった(出られなくなった)ら、何の為に努力して来たのか解らない」
と、いうものだった。
これでは、オリンピックに出場する、または、金メダルを獲得することが目的となっていて、日本が堅持しているアマチュアニズムと少しズレを生じている様に感じたからだ。これは、40年の月日が経ち、今回初めて公にするのだが。
ただ、一般市中では、選手が可愛そうなので行かせてやりたいという意見が多かった。その一方で、多くの著名人・知識人が、ボイコットに賛成していた記憶が有る。
そこには、単にイデオロギーで対抗する為、オリンピックをプロパガンダに使用せんとするアメリカと、終戦直後とその後の領土問題でソビエト連邦にたいして、独自の嫌悪感を持ち続ける世代が多かった日本では、少々違った感情が潜在していた筈だ。
また、オリンピックと同じ閏年(うるうどし)行われるアメリカ大統領選挙が、このボイコットに大きな影響を与えていたことは否定出来ない。何故なら、当時現職のジミー・カーター大統領(民主党)は、アメリカ男性としては少々小柄だったことも有り、どこか弱気な大統領と思われていた。
カーター大統領は、ベトナム戦争で国内が疲弊しどん底だったアメリカ国民にとって、8年続いた共和党政権に嫌気が差しての選出だったとも思われる。積極的選出ではなかったので、ジミー・カーター大統領の人気は芳しくなかった。二期目の選挙が、苦戦を予想されたカーター大統領にとって、乾坤一擲、強気を示そうとしてのボイコットだったと考えられないことでは無い。
しかし、この策は効果を示さず、1980年の大統領選挙でカーター氏は、現職大統領として歴史的な大敗で、その席をロナルド・レーガンしに明け渡すこととなった。
歴史に“もし”は禁物だが、カーター大統領がオリンピック・モスクワ大会のボイコットを持ち出さず、別の方法でソビエト連邦に抗議していたならば、違う選挙結果となっていた気が、私は今でもするのだ。
結果として、アメリカやそれに追従した日本を始め、西ドイツ・カナダ・アルゼンチン・韓国といった約50ヶ国が、モスクワ大会をボイコットした。東西冷戦の結果だ。
意外と知れられていないのが、この大会からIOCに正式加入していた中国も不参加だったことだ。東西対立では同じ東側に属する中国だったが、長年にわたってソビエト連邦との国境紛争が有り、西側諸国のボイコットに便乗する形で折角のオリンピック初参加を取り止めた。
こうした経緯が、日本に残る“オリンピック馬鹿の壁”と、オリンピックになると騒ぐのはオッサンばかりという忌々しき状況の基に成ったのだ。
・セバスチャン・コー選手にアマチュアの真髄を見た
アメリカ・西ドイツそして日本といった、西側のスポーツ強国がボイコットしたオリンピック・モスクワ大会。当然の結果として、メダルの約8割を開催国のソビエト連邦や東ドイツといった、ステートアマを擁する共産圏国が獲得した。
その中で、イタリア・フランス・英国の参加をしていた西側国選手が、獅子奮迅の活躍をした。少々期待外れだったのは、いつのオリンピックでも活躍が目立っていたオーストラリアが、競泳2種目の金メダル獲得に終わったことだ。完全に、世代の狭間だったのだろう。
一方で、フランス選手団の頑張りが有った。その頃から強化が進んだ柔道を中心に、6個の金メダルを獲得した。
西側諸国で、最も多い8個の金メダルを獲得したのはイタリアだ。いつも、アメリカの後塵を拝していた陸上競技を中心に、活躍が目立った。
英国選手団は、5個の金メダルを獲得した。イタリア・フランスより数は少なかったが、内容が良かった。
先ず、久々に競泳で金メダルを獲得(男子200m平泳ぎ)した。後の4個は、陸上競技でのものだ。‘陸上の英雄’と称される十種競技(デカスロン)の金メダルを、デイリー・トンプソン選手が獲得した。
また、好タイムでは無かったが、アラン・ウエルズ選手が、男子100mで金メダルを獲得した。英国にとっては、映画『炎のランナー』に描かれた、1924年オリンピック・パリ大会でハロルド・エイブラハムス選手以来の快挙だった。奇しくもウエルズ選手は、エイブラハムス選手の有力なライバルで、宗教上の理由(決勝が日曜日だった)で走ることが出来なかったエリック・リデル選手と同郷の、スコットランド・エディンバラの出身だった。英国だけでなく、スコティッシュの執念を感じるところだ。
そしてもう一人、重量な選手が金メダルを獲得している。
その選手の名は、セバスチャン・コー。陸上中距離選手だ。
大学を卒業したばかりだったセバスチャン・コー選手は、英国がアメリカに追従してオリンピック・モスクワ大会をボイコットする動きを見せると、
「私は、アマチュアの陸上選手だ。オリンピックに出る・出ないは、自分で決められる筈だ」
と、新聞に意見広告を出し、世論を盛り上げた。
英国オリンピック委員会(BOA)も、セバスチャン・コー選手の意見を尊重し、オリンピック派遣費用を出さないとする英国政府に対し、民間の募金を集める方法で抗った。
結果、セバスチャン・コー選手とBOAの運動が功を奏し、無事に英国選手団は、オリンピック・モスクワ大会に参加することになった。
セバスチャン・コー選手は、1,500mで金メダルを獲得した。後述するが、彼は次のロサンゼルス大会で同種目を連覇する。後に、国会議員となり男爵の称号を授かったセバスチャン・コー氏は、2012年に開催されたロンドン大会の招致委員長を務めた。現在、国際陸上競技連盟会長の任にあり、次期IOC委員長の有力候補でもある。
スポーツを極めた者が、世間的な指導者としても成長する。
私は、セバスチャン・コー氏の歩みに、アマチュアリズムの真髄を見た気がした。
一選手の民意が、大きな波となって目標達成したことを、極東の同じ島国で知った私は、日英の民度の差を痛感したものだった。
・ボイコットで被害を受けたのは、選手だけでは無かった。
もう、殆どの日本人が生まれる前で知らないか、記憶の奥底に埋没しているであろう事柄について書きたいと思う。
40年以上前、東京には『日本教育テレビ』という放送局が有った。略称は『NET』。エヌ・イー・ティーと読む。決して、“ネット”と読んではいけない。
この、教育の為(現在のEテレと思って欲しい)に開設された放送局は、日中の一時、教育テレビの名前通りの放送はしていた。ところがその一方で、朝の時間帯には日本初のワイドショー放送していた。夜には、開局当初からアメリカのドラマを放送していた。
そして、いち早く映画をテレビで放映し始めたものNETだった。そう、私の映画の師である、淀川長治先生が解説をして有名な『日曜洋画劇場』(開始当初は土曜日)がそれだ。
なので、一般視聴者は、教育の為の放送局とはNETを認知していなかった。
日本教育テレビと称したのには訳が有り、子供の情操教育の為の放送局としなければ、後発局には放送免許が交付されなかったからだ。なので当初は、NETは関東ローカルの扱い扱いだった訳だ。
その後、1973年になってやっと、NETに総合局としての免許が交付される。総合局に『教育』の冠はおかしいとのことで、1977年4月になって社名を『全国朝日放送株式会社』(略称はテレビ朝日)に変更した。
社名を‘テレビ朝日’に変更する一か月前の3月9日、衝撃的ニュースがNETから発せられた。
3年後に迫っていたオリンピック・モスクワ大会のテレビ独占放送権を、総合局になったばかりのNETが獲得したというのだ。契約料は約20億円。テレビの放送権の概念すら明確に理解出来ていなかった当時の私(18歳)でも、オリンピックに大きな動きが生じ始めているのを感じた。
それ迄のオリンピックといえば、主にNHKが放映していた。アナウンサーを始め、クルーは全員NHKの局員だった。民放は、ニュースで取り扱うのが精々だった。
1976年のオリンピック・モントリオール大会になって初めて、NHKと民放が“共同取材チーム”を組み、日本へ中継映像を送って来た。勿論、民放のアナウンサーが、オリンピックの実況をするのは、この時が初めてのことだった。とても新鮮に感じたことを思い出す。
そこへ来ての、NETの放送権独占である。最初は、どうなる事かと心配だった。
今考えれば、社名変更を記念して親会社の朝日新聞から、それなりの資金が投入された結果だったのだろう。
しかしその新会社の社運をかけたプロジェクトは、日本のボイコットで頓挫したのだった。当初は、2週間の開催期間に約200時間の放送が計画されていたが、極端に縮小せざるを得なかった。
日本人選手が出場しないオリンピックでは、放映スポンサーが付かないからだ。社名を変えても、民放は民放だ。ビジネスが優先するのは致し方ない。
私は、深夜ばかりになったオリンピック放送を、必死で追うことになった。
全く観ることが出来ないよりは、いくらかでもマシだと観念して。
以上が、ボイコットによって起こった、大きな被害の全貌だ。
・ボイコットによって、人生を狂わせた選手と、記録に残らなかった選手
スポーツにはそれぞれ、様々な局面で年齢制限が掛かるものだ。その結果として、出場の可否や史上最年少の記録に関わってくる。
今でも、競泳の最年少金メダリストは、1992年に女子200m平泳ぎの優勝者である岩崎恭子さん(当時14歳)だ。しかし、その12年前のオリンピック・モスクワ大会には、中学生だった岩崎恭子さんより若い小学生の派遣選手が居た。同じ200m平泳ぎの代表だった長崎宏子選手だ。
中学生がオリンピック期間中に急成長し、金メダルを獲得出来たのだから、もっと成長期の小学生に不可能な筈はない。しかも長崎選手は、次のオリンピック・ロスアンゼルス大会の前年に行なわれたプレ大会で優勝しているのだから、実力は折り紙付きである。
もし、オリンピック・モスクワ大会のボイコットが無ければ、長崎宏子選手が史上最年少金メダリストの記録に名を残したのではと、私は考えているのだ。
また、オリンピックとは直接関係ないところで、年齢制限の為、大きく人生を狂わせた選手がいる。長義和(ちょう よしがず)という選手だ。
1953年生まれの長選手は、1976年のオリンピック・モントリオール大会の自転車競技で、日本人初の入賞を果たす。翌年の日本競輪学校に合格するも、日本人初のオリンピックの自転車競技でのメダル獲得を目指し、プロ転向を辞退する。実際、1979年に行なわれたプレオリンピックで、長選手は銅メダルを獲得しているので、本番でも、有力なメダル候補であったのだ。
ただこれには、長義和選手も相当悩んだことだろう。何故なら、長選手の実力をもってすれば、プロの競輪選手となった暁には、当時のスポーツ選手としては最高給の賞金を獲得出来たと思われるからだ。
ところが、競輪選手になる為には日本競輪学校を卒業せねばならず、そこの入学年齢制限は、24歳未満と規定されているからだ。長選手にとって1977年の合格が、プロの競輪選手になる最初で最後のチャンスだったのだ。
実際、2歳年下でプロのスプリント選手権で連勝を始めていた(最終的に10連覇した)中野浩一選手と長選手は、5回練習で勝負したことがある。結果は、長選手の全勝だった。長選手の実力は、間違いなく本物だった。
そこへ来てのボイコットだ。長義和選手の絶望は、想像出来るものでは無い。
長和義さんは、オリンピック・モスクワ大会のボイコットか決まると、即座に競技生活を引退した。その後、自転車製品を作る会社で、主要部品の開発に携わった。
その開発過程では長義和さんの実力が、大いに役立ったことだろう。
・伝統を守れなかった選手と連覇を逃した選手
オリンピックに於ける日本の御家芸といえば、体操とレスリングが思い付く。
体操競技では、団体総合6連覇と個人総合の奪還が、モスクワの派遣チームには課せられた大命題だった。その主力選手だったのが、当時24歳だった具志堅幸司選手だ。具志堅選手は、ボイコットにより団体総合の6連覇は達成出来なかったが、個人総合は次のオリンピック・ロサンゼルス大会で達成する。
しかし、金メダル獲得後のインタビューで、
「やはり、団体総合の連覇がしたかった」
と、述べている。
現在、日本体操チームの中心である内村航平選手も、個人のメダルよりは団体でのメダルのこだわっている向きがある。
これも、日本の伝統なのであろうか。
具志堅幸司氏は現在、母校の日本体育大学の学長を務めている。
もう一つの御家芸レスリングで、ボイコットにより連覇を果たせなかった選手は、参加嘆願の集会で感極まって涙した高田裕司選手だ。
当時から、レスリングはオリンピック以外では注目されることは少なかった。当然、レスリングに関する情報も少なかった。それでも、高田裕司選手の金メダルは間違いないと、日本中が考えていた。
それもそうだろう、高田裕司選手は、前回のオリンピック・モントリオール大会で、全試合フォール勝ちを収めていた。現在とはルールが若干違うレスリングだが、全試合フォール勝ちは大変珍しかった。フォール勝ちは、柔道に例えるなら、一本勝ちに等しいものだ。
その上、高田選手は、オリンピック・モスクワ大会までに世界選手権を4回優勝しており、名実ともに当時の代表的レスリング選手であった訳だ。
自他ともに認める、金メダル有力候補だったので、テレビカメラが入っているのも忘れて、発言中に涙するのも無理の無いことだったかも知れない。
高田裕司氏は現在、山梨学院大学で自らを凌駕する選手を育成しようと、指導に奮闘する日々を送っている。
・アントン・ヘーシンク選手や前畑秀子選手に為れなかったチーム
オリンピックに於いて、開催国の有力選手を倒して金メダルを獲得することは、ことのほか大変な偉業として記憶される。
1964年の東京オリンピックで、日本発祥の柔道無差別級の金メダルを獲得した、オランダのアントン・ヘーシンク選手がその代表格だ。
古くは、1936年のオリンピック・ベルリン大会競泳で、地元のマルタ・ゲネンゲルを破り、金メダルを獲得した日本の前畑秀子選手を記憶している人も多いことだろう。
オリンピック・モスクワ大会が開かれるソビエト連邦で、最も盛んな女子球技といえば、何と言ってもバレーボールだ。そのライバルは、日本だった。実際、1964年の東京オリンピックから正式種目となったバレーボール女子では、それまでの4大会全てで、日本かソビエト連邦が金メダルを獲得していた。
前回の、オリンピック・モスクワ大会で、圧倒的強さを見せた日本女子バレーボールチームは、その後も成長していた。その強さは、『新・東洋の魔女』と称されていた位だ。開催国ソビエト連邦チームを圧倒して、日本の嫌ソ派の留飲を下げるところだったのだ。
しかしこれも、ボイコットによって儚い夢となってしまった。
・中継番組に出ていた瀬古選手
どのオリンピック大会でも、マラソンは花形競技だ。日本選手が出場していないオリンピック・モスクワ大会のマラソンも、実況生中継が深夜に放映されていた。
マラソンの有力金メダル候補であった瀬古利彦選手は、ゲストとして東京六本木のスタジオに来ていた。
当時、日本のマラソン陣は、瀬古選手に金メダルの期待が掛けられていただけではなかった。瀬古選手と共に参加を決めていたのは、長年のライバルだった宗茂・宗猛の双子ランナーだった。
3人の実力は物凄く、日本では3人の内誰が金メダルを獲得してもおかしくないと考えられていた。そればかりか、日本のマラソンメダル独占も夢ではないと期待を集めていた。
オリンピック・モスクワ大会のマラソンは、東ドイツのワデマール・チェルピンスキー選手が、モントリオール大会に続き連覇を果たした。
日本では、アベベ・ビキラ選手の史上初オリンピック連覇を、東京オリンピックの場で生観戦したことから、どこか神聖視している向きが有った。そこへ来てのチェルピンスキー選手の連覇だ。日本中で、
「瀬古選手が出ていれば」
の声が上がっていた。
テレビの中継番組で、マラソンの感想を聞かれた瀬古利彦選手は、差しさわりの無いことを述べるに過ぎなかった。しかし、その表情は、
「なーんだ、こんなもんか」
と、いった感情に満ち溢れていた。
例のモスクワ大会参加を嘆願する集会でもそうだったが、当時の瀬古利彦選手は多くを語らず、感情を押し殺していたのだった。しかし、こんなものかと表情に出てしまったのも訳があることだった。
金メダルを獲得したチェルピンスキー選手の記録は、高温にならないモスクワであったにもかかわらず、平凡なものだった。その上、チェルピンスキー選手がその前後に出場した福岡国際マラソンで、瀬古選手は圧倒的差を付けて全て先着していたからだ。
もしあの時、瀬古利彦選手が本音を吐露してしまっていたら、残念な気持ちがより一層日本中を覆ってしまったことだろう。
瀬古選手は、気遣いの出来る男だ。
現在、瀬古利彦氏は、日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダーの要職に在り、東京オリンピック対策として『マラソン・グランドチャンピオンシップ』を発案する等、競技振興に辣腕を振るっている。
また、明るいキャラクターを生かし、マスメディアの露出も多い。
或るテレビ番組では、衛星中継で出演したワデマール・チェルピンスキー氏に対し、明るく、
「オイ! オリンピックの勝ち方を教えてくれよ。俺に欠けているのは、それだけだから」
と、問い掛けていた。
今でも、スーパースターを演じて絵になる男。
瀬古利彦氏は、そんな大人だ。
・そして、山下泰裕選手には、こんな手紙が届いていた
私が知っている限りでは、ボイコットしたオリンピック・モスクワ大会の会場に、実際に訪れていたのは、幻の選手団の中でただ一人だけだった。それは、自他共に金メダルの有力候補だった柔道の山下泰裕選手だ。
山下選手の姿は、テレビの実況中継にしっかり映っていた。
会場の観客席に座っていた山下選手は、ソビエト連邦の観客の誰もが知っていた様だ。山下選手の近くを通った人々は、次々と彼の大きな背中に触れ、会場の畳を指さしながら、
「何で君は、あそこに居ないのだ」
と、尋ねている様だった。子供の様な笑顔で応える山下選手が、とても印象的だった。
試合が始まり次々と入場する選手も、観客席の山下選手を見付け手招きして、
「こっちへ降りて来いよ、一緒に戦おうじゃないか」
と、声を掛けていた。
山下泰裕選手は、観客席に座ったまま手すりに前のめりになり、登場する顔見知りのライバル達に、
「お前達、しっかり試合しろよ。無様な姿を見せたら、俺が承知しないぞ!」
と、応えていた。
柔道会場に居たライバルや観客だけでなく、世界中の人々が“最強の柔道家・山下泰裕”を認知していた証拠だ。
日本のオリンピック・モスクワ大会ボイコットが正式に決まった後、ソビエト連邦の一般市民から、山下泰裕選手宛にこんな手紙が届いたそうだ。そこには、
「私は、柔道を嗜む者です。貴殿には、最上級の尊敬の念を抱いています。
この度のオリンピック不参加の件、大変残念に思っています。
もし、貴殿にその気があるなら、柔道着だけを持ってウラジオストクかナホトカ迄来て下さい。それが例え、パスポートを持参しない密航でも構いません。貴殿の体力なら、手漕ぎボートでも着ることは可能でしょう。
着いても心配は無用です。柔道家の山下泰裕選手のことは、この国の国民なら誰でも知っています。きっと誰もが、貴殿をオリンピックの柔道会場まで案内することでしょう」
と、書いてあったそうだ。
山下泰裕選手と同じ母国民として、今でも思わず涙するエピソードだ。
オリンピック・モスクワ大会に出場出来なかった山下泰裕氏は、最近のテレビ番組の中、モスクワの会場で一つ失敗したことを語っている。それは、
「普段は、敗けた時しか見ることのない会場の天井も、その時だけは十分に見たんですよ。ところが、翌日になってやり残しを思い出しました」
そして、山下氏は膝を叩きながら、
「何で、試合後に会場に降りて、一回だけでもいいからオリンピックの畳の上に立っておかなかったのだろう後悔しました」
と、いうものだった。
柔道家・山下泰裕氏の勝負師としての人柄を垣間見る、私が大好きなエピソードです。
現在の山下泰裕氏は、母校・東海大学の副学長の傍らJOC会長の要職に在る。
それはまるで、日本オリンピックの父であり山下氏の大師匠でもある嘉納治五郎先生の志を受け継いでいるかの様でもある。
とても長くなりましたが、これが、私が伝えたいオリンピック・モスクワ大会です。
❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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