伝説が再び目の前に現れた(1984年ロサンゼルス大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
〔始めに〕 先達てお知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、本連載をエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていくことになりました。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!
「8年待った割には、メダルが少ないなぁ」
25歳に為っていた私は、オリンピック・ロサンゼルス大会終了後、咄嗟にそう思った。
前項で書いた通り、前回の1980年モスクワ(ソビエト連邦)大会に、日本オリンピック協会は一人の選手も派遣しなかった。私達オリンピックファンは、世界の情勢を理解しつつも、じっと我慢するしかなかった。その背景には、4年経てばきっと次のオリンピックを観ることが出来ると信じていたからだ。
そして、1976年のモントリオール(カナダ)大会以来、8年振りとなるこのロサンゼルス大会を首を長くして待ちわびていたのだった。
・またもボイコット
ところがだ、楽しみにしていたオリンピック・ロサンゼルス大会も、モスクワ大会と同じく、参加ボイコットの嵐が吹き荒れてしまった。その背景に在ったのは、またしても軍事侵攻だった。
ロサンゼルス大会の前年、1983年に中米カリブ海に浮かぶ小さな島国グレナダで事は起こった。独立国であったグレナダで、社会主義国キューバの支援を受けた革命組織によるクーデターが起こった。支援したのはキューバだけでなく、裏では社会主義国の中心であったソビエト連邦の陰があった。
このクーデターを不服としたアメリカが、配下の中米諸国の後ろ盾となり、グレナダに侵攻する事件が起きた。
この様に、実のところはアメリカとソビエト連邦の冷戦の一部だったグレナダ侵攻は、西側職の間では『第二のキューバ危機』として受け取られていた。
当時私は、社会人3年目の25歳に為っていた。毎日数紙の新聞に目を通す様に為って居り、こうした社会情勢には敏感になっていた。
ただ、ソビエト連邦を中心とした東側諸国のロスアンゼルス大会ボイコットを、モスクワ大会に参加しなかったアメリカに対する報復手段でしかなかったと、私は今でも思っている。
余談ではあるが、こうした報復合戦を見るにつけ、復讐は無限のループを描くものだと、私はこの時から考える様になった。そして、現代ではよく使われる『リベンジ』という外来語を使うことが無い。そして、企業内の“復讐劇”を描いて高い視聴率を集めているテレビドラマも、敬遠して観ていないのだ。
モスクワ大会に続いて、参加ボイコットが頻発したオリンピック・ロサンゼルス大会は、1984年7月28日に開幕した。ロスアンゼルスに於いて1932年に続く二度目の開催だった。
この大会を政治的理由でボイコットしたのは、ソビエト連邦の他、ベトナム・モンゴル・キューバ・朝鮮民主主義人民共和国といった同盟国だ。その他にも、毎大会多数のメダルを獲得する強国の東ドイツ、体操の強国ブルガリア、投擲競技で数多くの名選手を輩出したホーランドやハンガリーの参加が無かった。
1964年の東京オリンピックを知る者からすると、アベベ・ビキラ選手の母国エチオピア、そして、“東京の恋人”ベラ・チャスラフスカ選手のチェコスロバキアの国名が無かったことが残念でならなかった。
また、そうしたスポーツ強国が不参加だったにもかかわらず、日本選手団は、金メダルの獲得数が10に留まった。私には、それが不満だった。
それでも、ルーマニアとユーゴスラビア連邦の社会主義国が、参加していた。特にルーマニアは、ロスアンゼルス大会で開催国アメリカに次ぐメダルを獲得した。
そしてオリンピック史上初となる、中華人民共和国が参加した。同じ社会主義国でも、ソビエト連邦と仲違いしていたからだ。
ただ、この大会から、台湾の国名が『中華民国』でも『TAIWAN』でもなくなり、これ以降『チャーニーズ・タイペイ』という、中国共産党が名付けた呼称を使わざるを得なくなった。
・異例の開会式と商業化
この、オリンピック・ロサンゼルス大会が、空気を一新したと感じるには、開会式を観るだけで十分だった。何しろ、個人用ジェット推進飛行装置・ロケットベルトを付けた通称『ロケットマン』が、1932年のオリンピック・ロサンゼルス大会でも使用された、ロスアンゼルス・メモリアル・コロシアムのスタンド上部から、フィールド内に舞い降りたのだ。
今でも、1984年のオリンピック・ロサンゼルス大会の映像が流れる時、決まってその光景が放映されるので、御覧に為った方も多いことだろう。
その上、開会式で使われた音楽は、映画『スターウォーズ』のメインテーマを作曲したことで知られるジョン・ウィリアムス。
どれをとっても、それ迄のオリンピックとは桁違いのスケールだった。
このスケールを成し遂げたのは、実業家で後にアメリカメジャーリーグ(MLB)のコミッショナーに就任することになるピーター・ユベロス氏だ。オリンピック・ロサンゼルス大会の組織委員長に就任したユベロス氏は、それまでの、開催都市主導による大会で、大きな欠損(赤字)が続いていたことから、オリンピックを一気に商業化して、大きな利益が出るイベントに変貌させた。
ユベロス氏の取った方針は、テレビ放映権料の大幅増額、協賛スポンサー制度による多額のスポンサー収入、確実な集客(入場観客)、記念グッズの販売、といったものだった。
来年開催される東京オリンピックでも、谷口亮氏がデザインした“ミライトワ”“ソメイティ”というマスコットキャラクターが有る。この、マスコットの元祖ともいうべき存在が、このオリンピック・ロサンゼルス大会のマスコット“イーグルサム”だ。星条旗をあしらった衣装とシルクハットを身に付けた、アメリカの国鳥ボールドイーグル(白頭鷲)がモデルのマスコットだ。
ネット販売等、未来の商法であったその当時でも、“イーグルサム”のグッズは、日本でも販売され、飛ぶように売れていたことを思い出す。
ただ、日本に於いては伏線が有り、アメリカ合衆国建国200年に当たった1976年、建国200年以年のグッズが本国アメリカより日本の方が好まれていた事実があった。
こうしてロサンゼルス大会に始まったオリンピックの商業化は、その後一気に加速したのだった。
何しろ、オリンピック・ロサンゼルス大会は、実に400億円もの黒字を叩き出したのだ。その利益は、その後のアメリカに於ける選手強化に、大いになく立つこととなった。
アマチュアニズムの終焉と、商業オリンピック誕生の瞬間でもあった。
・異例の開会式②
オリンピック・ロスアンゼルス大会で、アメリカ合衆国選手団の主将を務めたのは、陸上400mハードルの世界記録保持者で、この大会でも金メダルを獲得するエドウィン・モーゼス選手だった。記録的にも優れた陸上選手だったが、それより真面目で実直な人柄が、選手団の中でも際立っていたのだった。
その、モーゼス選手の性格が災いして、小さな事件が起きた。全選手団を代表して行う、選手宣誓の時だ。エドウィン・モーゼス選手は緊張の余り、思わず宣誓の途中で言葉に詰まってしまったのだ。真面目な性格のモーゼス選手のこと、何回も練習して来たのにだ。多分、言葉に詰まってしまったのは、生真面目故の完璧を期そうとした結果だったのだろう。
ただ、前代未聞の出来事だったことは事実だ。
また、この大会から各国選手団が、綺麗に整列し歩調を合わせて入場行進することが無くなった。
ただ一ヶ国、日本選手団だけは学校の運動会の様な行進を見せ、逆の意味で目立つ結果となった。
・日本選手のこと
スポーツ強国の東欧諸国が不参加だった大会にしては、日本選手団は振るわなかった。主要競技の陸上と競泳で、メダルはおろか入賞(この大会から8位迄を入賞と規定)も数える程だった。
猛暑のロスアンゼルスで開かれた大会だったので、金メダルが確実と期待されていた男子マラソン(この大会から、女子マラソンが始まった)の瀬古利彦選手も、35km過ぎで、先頭集団から遅れを取った。御家業のレスリングでも、期待の高田裕司選手が準決勝で敗れた(結果は3位)他、多くが決勝戦で敗れ、金メダルを逃していた。
柔道も、軽量級は良かったものの、中量級以降に取りこぼしが多かった。
そんな中で、『射撃競技ラピッド・ファイヤー・ピストル』という競技で、オリンピック・ロサンゼルス大会、日本選手団初の金メダルが獲得された。勿論、射撃競技での日本選手のメダル獲得は、この時が初めてだった。
獲得したのは、自衛隊員だった蒲池猛夫選手。この小柄で目立たなかった蒲池選手は、その時既に48歳。お孫さん迄誕生していた。おじいちゃん選手のメダル獲得は、日本のオリンピック史上初のことであり、大変注目された。なので、聞き慣れない舌を噛みそうな競技名でも、私が記憶しているのだった。
このロスアンゼルス大会では、当時21歳だったアーチェリーの山本博選手が、同競技初の銅メダルを獲得した。この20年後、41歳に為っていた山本選手は、世紀をまたいで銀メダルに昇格している。
この大会は、オジサンが、オリンピックで活躍するハシリだったのかもしれない。
日本がボイコットしたモスクワ大会以前は、金メダルラッシュだった男子体操競技。日本のエース、具志堅幸司選手(個人総合・種目別つり輪)と、現在タレントとして活躍している森末慎二選手(鉄棒)が、金メダルを獲得した。
しかし、モントリオール大会迄オリンピック5連覇していた団体総合は、アメリカ・中国に敗れ銅メダルに留まった。ソビエト連邦や東ドイツといった、強豪国が出場していなかったのにだ。表彰式で、銅メダルを受け取った具志堅選手の、色濃く落胆した表情が印象に残っている。
それでも、3回の演技全てで10点満点を叩き出した森末選手の鉄棒は、『御見事!』の一言でしか表現出来ない快挙だった。
意外と知られていないのが、この大会で公開競技として野球が行われていたことだ。この当時は勿論、プロ選手は参加しておらず、日本は社会人と学生の混合チームだった。
日本で余り注目されなかったのは、その当時、日本のアマチュア野球は、キューバや韓国に後れを取っており、あろうことかアジア予選決勝で、台湾に敗退してしまっていたからだ。日本チームは当初、ロスアンゼルス大会に参加する権利が無かったのだ。
ところが、キューバのボイコットによって出場枠が空き、敗者復活的扱いで日本が参加することに為ったのだ。
急造された日本チームは、後にプロ野球で活躍する選手が集められた。オリンピック前に一敗地にまみれていた日本チームは、みるみる内にまとまりが良くなり、遂には決勝戦で開催国で野球の母国であるアメリカ合衆国を倒し、金メダルを獲得する。
後に、正式種目となった野球だが、日本が金メダルを獲得出来たのは、この、ロスアンゼルス大会だけだ。
これも、何かの因縁かも知れない。
そして、現在も映像がよく流れる柔道競技。
山下泰裕・斉藤仁のライバル選手が、最強コンビとなり柔道会場であったイーグルス・ネット・アリーナを席巻した。
現代の攻めを重視した派手な柔道とは違い、受け(防御)が極めて強かった山下・斉藤両選手は、日本古来の柔術に近い重厚感あふれる闘い方だった。その証拠に、幾度となく両選手が相まみえた全日本柔道選手権決勝では、明確な“一本勝ち”は無く、山下選手の小差判定勝ちばかりだった。受け重視の、玄人好みのスタイルだったからだろう。何しろ古来の柔道は、時間無制限で競われるものだったのだから。
岩の様な体躯の斉藤仁選手は、最重量級であった95kg超級で、圧倒的な強さで金メダルを獲得した。それはまるで、対戦相手の総てが格下と感じさせる強さだった。何しろ斉藤選手は、‘倒されそうもない’のではなく、‘動きそうもない’力強さだった。
一方の山下泰裕選手。この大会が最後となる、柔道無差別級に出場した。以前の項でも述べたが、柔道発祥の国として日本では、この無差別級を大変重要と考える傾向が有る。それにより、殆ど差が無いライバルだった山下・斉藤の両選手だったが、3歳年長だったこととわずかの差で、山下選手の方が上と見られていたのだろう。私達一般のファンは、どちらがどちらの種目に出場しても、間違いなく2個の金メダルが日本に持ち帰られるだろうと、安心して観戦していた。
記録映像で御存知だろうが山下泰裕選手は、無差別級二回戦で右脚ふくらはぎに肉離れを発症してしまった。右脚は左構えの山下選手にとって軸脚となる脚だ。対戦相手を投げる際、軸脚には二人分(しかも巨漢)の体重の他に相乗的に重さが掛かる重要な箇所だ。その、キーとなる箇所を、山下選手は痛めてしまったのだ。時差が逆転している日本で、大きな大きな衝撃が走った。
それは4年前、モスクワ大会ボイコットの際の光景が被るからだ。当時まだ学生だった山下選手には、次があるとの安堵感が日本の観客には有った。ところが、このロスアンゼルス大会は、もしかしたら山下選手にとって最初で最後のオリンピックとなる可能性があったからだ。
しかし私は、どこかで、
「山下泰裕程の選手なら、例え片足で闘ったとしても並み居るライバルを苦も無く倒すだろう」
と、“勝手に”思い込んでいたからだ。
実際、山下選手は、怪我をした以降の3試合で総て“一本勝ち”を収めた。それは総て、寝技によるものだった。受けが強い山下選手なら、片足と為って例え転ぶことがあろうとも、寝技に持ち込めば十分過ぎる勝機があると、私は考えていたからだ。
今日では伝説となっている決勝戦、エジプトのモハメッド・ラシュワン選手との対戦。
後に、山下選手の痛めている右脚を、ラシュワン選手は攻めなかったとして国際フェアプレー賞を受賞している。しかし、映像をよく観ると事実は異なっていたことが解る。
山下選手を稀代の柔道家として尊敬していたラシュワン選手は、勿論、怪我をした脚を攻める様な卑怯な真似をしなかった。いや、正確には出来なかった筈だ。日本人ではなくとも、ラシュワン選手には柔道家としての矜持が有ったからだ。実際、山下選手が脚を痛めた後の試合で、右脚を攻めて膝を着かせた選手がいた。アリーナはブーイングの嵐と為り、山下選手の鬼神の様な“送り襟締め”に、相手がたまらず降参した時には、割れんばかりの歓声が上がったものだった。“送り襟締め”は大変危険を伴う技で、一つ間違うと相手を失神させてしまう技だ。通常、格上の者は使わない技でも有ったのだ。
痛めた右脚を攻めようとしないラシュワン選手に、山下選手は、
「どうした。攻めてみろ」
と、言わんばかりに通常の構えでは後ろに引いている軸脚の右脚を、一歩前に出した。これは、山下選手が繰り出した作戦だった。自分よりかなり大型のラシュワン選手を、山下選手といえども片脚で倒し寝技に持ち込むのは至難の業だったのだろう。
ラシュワン選手は、誘われたかの様に山下選手の右脚を刈り(払い)に出た。いつもとは逆の右構えに組み替えていた山下選手は、待ってましたとばかりにラシュワン選手の技をすかし(かわし)た。
もんどりうって倒れたラシュワン選手を、山下選手はすかさず押さえ込みに入った。これまでに見たこともない、力強い押さえ込みだった。
柔道無差別級の表彰式でのこと。
痛めた右脚で闘い抜いた山下泰裕選手は疲労困憊し、オリンピックチャンピオンのみが昇ることを許される表彰台の最上段に、自力では上がることが出来なかった。そこに、山下選手の右側に居たモハメッド・ラシュワン選手が、何の声掛けもないままこれが当然とばかりに手を貸し、山下選手の巨体を表彰台の最上段に上げた。
私は今でも、この行為こそが、ラシュワン選手の尊敬とフェアプレーの表れだったと思っている。
アリーナは、聞いたこともない歓声に包まれていた。
実は、少しだけ柔道をかじったことがある私は、1学年上の山下選手と、2学年下の斉藤選手を間近で見たことがある。
記憶しているのは、両選手とも途轍もないオーラが有ったことだ。
・競泳プールに舞い降りたアルバトロス
日本選手が殆ど活躍出来なかった競泳種目だったが、一人の選手が私の眼を釘付けにした。
その選手の名は、ミハエル・グロス。いかにもな名が示す通り、当時の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の選手だ。201cmという、雲を衝く様な長身が一目で彼と解かる存在感だった。その上、金髪に碧眼の風貌と水泳選手らしい鍛え上げられた逆三角形の上半身が、実に格好良かった。
1964年、前回の東京オリンピックと同い年のグロス選手は、自由形とバタフライこなす、万能スイマーのはしりだった。
ミハエル・グロス選手の特徴は、その長身以上のリーチに有った。211cmといわれるグロス選手のリーチは、ニックネームのアルバトロス(あほうどり)が示す通り、特にバタフライで有利に働いた。
100mバタフライでは、12年振りに世界新記録を更新し、金メダルを獲得した。表彰式で流れるドイツ国家『皇帝』が、とても似合う光景だった。
ところが、長過ぎるリーチが災いをもたらすことも有った。競泳プールのコース幅は、2m50cm。211cmのリーチを誇るグロス選手は、バタフライの競技中、少しでも振れたりすると、手がコースロープを叩いてしまうのだった。実際、200mバタフライでは、最後のターンで少しだけ左に曲がったグロス選手の左手が、数回コースロープを叩いてしまい失速してしまった。結果は、銀メダルだった。
この、200mバタフライの金メダルは、次のソウル大会まで待つことになったのだ。
それでも私は、ミハエル・グロス選手が、これまでに見た競泳選手の中で最強だったと思っている。
・四冠王登場
1964年の東京オリンピックを記録し名作と評価が高い市川崑監督作品の『東京オリンピック』。その中で、陸上競技を観戦する一人の黒人男性が映り込んでいる。キャップを被った細身の黒人男性を、映画観賞当時小学生だった私は、さしたる興味もなく観過ごしていた。
その黒人男性が、1936年ベルリン大会の陸上競技に於いて、100m・200m・4X100mリレー・走り幅跳びで金メダルを獲得したジェシー・オーエンス選手であることを私が教えられたのは、だいぶ経ってからのことだった。ただ、一大会の陸上競技で4個もの金メダルを獲得する等、考えたことも無かった。
オリンピック・ロサンゼルス大会では、この伝説と為っていた金メダル4個獲得を我々観客は、現実に観ることとなった。
その選手とは、ロスアンゼルス大会を代表する選手、アメリカのカール・ルイス選手だ。私より2歳年下のルイス選手は、この時23歳。陸上選手としては、レジェンドと化する入り口に立ったところだった。
カール・ルイス選手は元々、走り幅跳びの選手だった。いつの時代でも同じだが、跳躍競技の選手は、短距離走でも強さを発揮する。
ルイス選手は、100mで9行台を連発していたが、自身の意識は走り幅跳びに在った様だ。それを証明する光景が、陸上競技のラストに行なわれた、4X100mリレーに現れていた。
100m・200m・走り幅跳びで順調に金メダルを獲得したカール・ルイス選手は、リレーの4走のスタート位置に着いていた。チームの構成から、金メダルが確実視されていたアメリカチームだった。100mで最も好記録を持つルイス選手は、当然の様にアンカーを任されていた。
4X100mリレーは、それぞれに最適な選手が配置されるものだ。
一走は、スタートダッシュの良い選手。二走は、バックストレッチ部分なので、直線を走るのが得意な選手。往々にして二走は、走り幅跳びの選に任されることが多い。三走は、コーナーワークが得意な選手。大概は、200mや400mの選手が務めるものだ。
そしてアンカーの四走は、エース区間として最も100mの記録が良い選手が担うこととなる。
カール・ルイス選手が、アメリカチームのアンカーであることは、誰の目にも明らかだった。何しろ、100mの世界記録保持者だったからだ。
リレーの結果から書くことにする。
金メダルは、予想取りアメリカが37秒83の世界新記録で獲得した。世界中の関心は、勝負ではなく記録に有った。金メダル獲得に歓喜するルイス選手とチームメイトは、賞賛に値するものだ。
ただその際私は、ルイス選手の不思議な行動が気になった。
当時のバトンパスは、受け手の選手が左手を上に向けて受け取る“オーバーハンドパス”だった。リオデジャネイロ大会の銀メダルで注目された、日本の“アンダーハンドパス”とは、逆の形だ。
“アンダーハンドパス”では、走行中バトンを持ち替えることなく、全選手が左手でバトンを受け渡す。一方の“オーバーハンドパス”では、左手で受け取ったバトンを右手に持ち替え受け渡すことが必要となる。ただし、アンカーだけは持ち替える必要が無い。何故なら、その先でバトンパスを行なうことが無いからだ。
ところが、ロスアンゼルス大会でのカール・ルイス選手は、自身がアンカーであるにもかかわらず、ただ一人バトンを持ち替えていたのだった。
後日私は、この疑問を陸上競技の専門家に尋ねてみた。答えは、カール・ルイス選手が元々、短距離走の選手ではなく走り幅跳びの選手であったことにあるらしい。調べて頂いた記録では、高校・大学時代のカール・ルイス選手は、4X100mリレーに出場していたものの、走り幅跳びの選手らしく二走を任されていたことによるらしいのだ。
二走なら、バトンを持ち替える必要が生じる。バトンパスをしなければならないからだ。ルイス選手は、自国開催のオリンピックの大舞台でも、その癖が抜けなかったので、アンカーなのにバトンを持ち替えていたのだった。
世界記録を連発するルイス選手より、高校・大学時代にはもっと速い選手がいたということだ。
アメリカの選手層の厚さには、驚かされるばかりだ。
ただ、カール・ルイス選手の伝説は、これば始まりに過ぎなかった。それは、追って記することとする。
一つ残念だったのは、前の四冠王ジェシー・オーエンス氏は、ロスアンゼルス大会の4年前に、逝去されていた。66歳だった。
自分を継ぐ四冠王出現を、オーエンス氏はどんな感想で迎えたのか、是非聞きたかったところだ。
ロスアンゼルス大会のカール・ルイス選手以降、陸上競技の四冠王は出現していない。
もしかしたら、競技の専業化が進む現代では、観ることが出来ないのかも知れない。
ここは一つ、ジェシー・オーエンス、カール・ルイスという二人のレジェンドだけの勲章としておいた方が良いのかも知れない。
《以下、次号》
❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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