モンジュイックの丘に消えた夢(1992年バルセロナ大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
〔始めに〕 先達てお知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、本連載をエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていくことになりました。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!
第25回近代オリンピック大会は、1992(平成4)年7月25日にスペインのカタルーニャ自治州バルセロナで開幕した。州まで明記したのは、ちょいとした訳がある。
この大会は、遡ること6年前の1986年の段階で、既に競技が開幕していたといっても過言ではない。それは、モスクワ、ロスアンゼルスと、東西冷戦によるオリンピック・ボイコット合戦が続いた後、ソウルに続く25回大会の開催地を決めるIOC(国際オリンピック委員会)総会が、スイス・ローザンヌで開かれたからだ。
第25回夏季オリンピック大会の開催地候補には、バルセロナの他に、パリ(フランス)アムステルダム(オランダ)の既にオリンピックを開催した都市が立候補していた。また、バーミンガム(英国)ブリースベン(オーストラリア)の、開催経験が有る国の都市もあった。それに、初の夏季オリンピック開催を目指すユーゴスラビアのベオグラードも立っていた。
三回にわたる投票の結果、終始トップを走っていたバルセロナでの開催が決まった。
しかし、開催地の投票を前に、バルセロナでの開催ではないかとの憶測が、IOC総会の前から飛び交っていた。それは、1980年にスペインのスポーツ官僚出身のファン・アントニオ・サマランチ氏が、IOC委員長に就任していたからだ。
サマランチ氏は委員長就任後、1980年(モスクワ)1984年(ロスアンゼルス)というボイコット合戦に直面したが、委員長に相応しい対応が出来ずにいた。
そこで、自らの地元でオリンピックを開催し、ボイコット合戦に終止符を打ちたいとの思いもあった筈だ。
それともう一つ、開催地に決まったバルセロナは、歴史的にある因縁の地でもあった。
その因縁とは、1936(昭和11)年の第11回夏季オリンピックの開催候補に、バルセロナも立候補していた。結果は、ベルリンでの開催が決まった。
ナチスが主導でベルリンにて開催されたオリンピックを、民主的では無いとの理由でスペインが、抗議の意のボイコットをした。スペインの中でも比較的リベラルな思考傾向が特に強いカタルーニャ地方では、ベルリン大会に対抗する形の競技大会を求める声が強まった。
そこで、バルセロナで『人民オリンピック』が開かれようとした。結局、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』で知られるスペイン内戦が原因で、『人民オリンピック』は開催されることが無かった。ただ、スペイン内戦を引き起こしたのがヒトラーの後ろ盾を得たフランコ総統だった。
このことから、スペイン国内では『人民オリンピック』が行われる予定だった同じスタジアム、エスタディ・オリンピック・リュイス・コンパニス(通称エスタディ・デ・モンジュイック)で、何としても夏季オリンピック大会を開いたいとの強い思いがあった。
この辺りの下りは、逢坂剛・著『幻の祭典』(新潮文庫・刊)に詳しく書かれている。御興味有る方は、御一読をお勧めする。
この、オリンピック・バルセロナ大会で、日本選手案は前回のソウル大会よりメダルを獲得することが出来ず、金3・銀8・銅11の合計22個に留まった。世界全体でも17位だった。
バブル景気が弾け、停滞気味だった日本国内の雰囲気が、より一層暗くなったことを記憶している。それもそうだろう。1964年の東京大会では、世界で3位、16個もの金メダルを獲得していたのだから。
ただ、このバルセロナ大会を契機に、日本でもスポーツの底上げを願う空気と為ったのは事実だ。そうなると、今日の日本スポーツの礎(いしづえ)は、この大会に有ったと言っても過言ではあるまい。
オリンピック・バルセロナ大会の日本選手団では、二人の女子高生と女子中学生が注目された。
一人は、大会当時16歳で福岡工業大学附属城東高等学校2年生だった田村亮子(現・谷亮子)選手だ。この大会から正式種目となった女子柔道で、田村亮子選手は最終日の48kg級に登場した。
既に、“ヤワラちゃん”の愛称で日本全国に知られていた田村選手は、当時の世界チャンピオンだったフランスのセシル・ノバックに決勝戦で敗れ銀メダルに終わった。しかし、未だ16歳で出場選手中最も身長が低い(145cm)田村選手が、長身(165cm)のノバック選手と同じ畳に上がると、とても勝てる気がしなかったのも事実だ。また、田村亮子選手には次回が有るとの雰囲気もあった。
ただ間違い無く、これは後述するが、これまでの大会とは違い重量級から始まった柔道競技の最終日に登場した田村亮子選手は、柔道発祥の国として一服の安堵感をもたらしたのも事実だった。
また、オリンピック5大会連続でメダルを獲得することに為る田村亮子選手が、オリンピックに第一歩を示したことは間違いない。
もう一人、この大会で彗星の如く一人の女子中学生が登場した。競泳200m平泳ぎで金メダルを獲得した、静岡県沼逗子出身の岩崎恭子選手だ。
未だ中学生だったこともあり、大会まで全く注目されることが無かった岩崎選手だったが、予選から決勝までの間に自己記録を4秒近く短縮し優勝する。
当時の世界記録保持者だったアメリカのアニタ・ノール選手を破った岩崎恭子選手だったが、驚くべきは決勝で叩き出した“2分26秒65”のタイムは、その時点でのオリンピック新記録だったのだ。しかも、大会前までの日本記録(長崎宏子選手)を3秒以上更新するものだった。
この記録は、同学年の田中雅美選手が2000年に破る迄、8年もの間、日本記録として残された。
まさに、‘あれよ、あれよ’という感じで金メダルに輝いた岩崎恭子選手だったが、決勝に臨むまでは全くの無名で、優勝後のインタビューで語った、
「今まで生きてきた中で、一番幸せです」
のコメントで、一躍時の人となった。
私は個人的に、1936年のオリンピック・ベルリン大会同種目で、前畑秀子さんが金メダルを獲得して以来の56年振りかと感慨に浸っていた。
岩崎恭子選手は、病気の為20歳の若さで現役を引退する。現在は、コメンテーターや後進の指導に当っている。
岩崎恭子選手は、金メダルを獲得した200m平泳ぎに対し、100m平泳ぎは13位に終わっっていた。あの、200m平泳ぎ決勝は、まさに彗星の輝きだったのかもしれない。
この、オリンピック・バルセロナ大会での日本選手団の印象が、どこか低調に感じるのは、それ迄日本の御家芸と思われていた競技の衰退が有るからだろう。
それ迄、メダルラッシュだったレスリングは、銅メダル1個に終わった。男子体操も、銀1・銅2だった。
バレーボールも男女共、メダルには手が届かなかった。もっとも、今となっては、オリンピックの出場権が取れているので、少しはマシだったと感じるのだが。
しかし、メダル獲得が少なかったことより、他国、特に新興して来た中国や韓国に全く歯が立たなかったことに、妙な脱力感が残ったものだった。
もっと、選手強化をしなくてはと国中で感じた大会でも有った。
特に脱力感が増したのは、柔道だった。
この大会の柔道競技は、重量級から始まった。初日の男子95kg超級には、日本選手権4連覇中・世界選手権3連覇中だった小川直也選手が出場した。それまでの重量級の強豪だった山下泰裕選手や斉藤仁選手と比べ、遥かに長身(193cm)だった小川選手は、どの競技よりも金メダル確実と思われていた。
ところが、決勝戦に登場した小川選手は、どこかオドオドしていて自信無さ気に見えた。案の定、小川選手は、裏投げで逆転負けを喫する。次のアトランタ大会にも出場した小川選手だったが、今度はメダルすらも取ることが出来なかった。
世界チャンピオンなのにだ。
私には小川選手がどこか、山下選手や斉藤選手からは感じた、柔道に対する真摯な態度を感じることが出来なかった。それは、現役を引退した小川選手が、プロレスという興行界に落ちていったことで、現実味を増したものだった。
それでも柔道競技は、78kg級で吉田秀彦選手が見事な一本の連続で金メダルを獲得した。
翌日の71kg級では、“平成の三四郎”と綽名(あだな)され金メダル確実と思われていた古賀稔彦選手が登場する。ところがだ、この大会直前の練習で古賀選手は、左膝に大怪我を負ってしまう。後に左膝の側副靱帯損傷と解かる大怪我は、通常なら歩く事さえままならないものだ。しかも、体重制限がある柔道では、かなりの減量をするのが常で、古賀選手は怪我と減量という二つの十字架を背負いながらの競技と為っていたのだった。
それでも持ち前の技術でハンデをカバーした古賀稔彦選手は、見事に金メダルを獲得する。結果として大会前の大怪我は、この金メダルの修飾にしか為らなかった。
何しろ、日本のオリンピック史上、最も印象に残る金メダルの一つだからだ。
メイン競技の陸上競技で、日本選手団は久々の銀メダルを獲得している。森下広一選手が男子マラソンで、有森裕子選手が女子マラソンで獲得した。
男子マラソンは、谷口浩美選手、森下広一選手(共に旭化成所属)、そしてソウルに続く2大会連続出場となる中山竹通選手が出場した。注目されたのは、前年(1991年)真夏の東京で開催された世界陸上選手権のマラソンで、見事に優勝していた谷口浩美選手に集まっていた。登り坂を得意とする谷口選手にとって、モンジュイックの丘の上に建てられたメインスタジアムは、持って来いの環境だった。何しろ、ラストスパートの地点で丘を登るのだから、登り坂得意の谷口選手には打って付けのルートだったからだ。
ところが好事魔多し、20km過ぎの給水地点で他の選手と交錯し転倒してシューズ迄脱げるアクシデントに見舞われてしまった。レース後にインタビューで、
「途中でコケちゃいました」
「これも運です。精一杯走りました」
と、谷口選手自身が語ったこの転倒は、深夜にもかかわらずテレビを観ていた多くの日本人から、大きな悲鳴を上げさせることとなった。
最後迄、先頭集団に付いて行った森下選手は、谷口選手が勝負処としていたモンジュイックの丘に向かう上り坂で、優勝した韓国の黄選手に後れを取る結果となった。それでも、24年振りの陸上競技での銀メダル獲得は、賞賛にあたるものだった。
森下選手以上に私が賞賛したかったのは、僅か2秒差で4位に終わった中山竹通選手だ。それ迄、目標でエリートランナーだった瀬古利彦選手に対し、挑発的発言で知られた中山選手は、やや‘ヒール的’選手と思われていた。
それでも、ソウル大会では6秒差、バルセロナ大会では競技場迄3位で最後に惜しくも交わされての連続4位に入賞した中山竹通選手は、紛れもなく印象に残るマラソン選手だった。
レース後、銀メダルを獲得してインタビューを受ける森下広一選手の横で中山選手は、追い上げて8位に入った谷口浩美選手に対し、レース結果を表示する電光掲示板を指さし何事か語り掛けていた。その口元を読み解くと、
「オイ、3人とも入賞出来たのは日本だけだ」
と、誇らしく語っていた。中山選手が、‘ヒール役’を脱した瞬間でもあった。
中山選手は元々、瀬古選手を敵視していた訳では無かった。ヒール役を演じさせていたのは、マスメディアの意向だった。
その証拠に中山竹通氏は、陸上長距離選手に成長した御子息を、瀬古利彦氏が監督を務める早稲田大学競走部(陸上部)に送り出した位だからだ。
正式競技となって3回目だった女子マラソン。有森裕子選手が、念願のメダルを獲得した。このメダルは、1928年に開催された第9回オリンピック・アムステルダム大会の女子800mで、人見絹江選手が決死の覚悟で獲得した銀メダル以来のものだった。
これは余談だが、人見絹江選手は短距離と跳躍の選手だったので、800mもの距離で競技するのは、アムステルダムでの舞台が初めてだった。決死の覚悟だったことは、間違いない。
また、人見選手と64年後に同じく銀メダルを獲得した有森裕子選手は、同郷(岡山)の出身だった。これは単なる偶然だけでは無いと、私は思えてならない。
この時の有森裕子選手に関しては、少々“天然”なコメントが残っている。
先ずは、レース直前に有森選手は片方だけコンタクトレンズを落としてしまったそうだ。代替えのレンズを取りに行く余裕はなく、有森選手は仕方なく片目だけ裸眼でレースに臨むこととなった。
有森選手は以前から、眼鏡やコンタクト無しでは歩く事さえままならないド近眼だ。周りが良く見えない状況で、42.195kmを走り切ったことは賞賛に値することは間違い無い。
ただしかし、周りが見辛い状況が、有森裕子選手に大きな勘違いをさせていた。それは、30km過ぎでスパートを掛けた有森選手が、集団を引き離した時に起こった。周りが良く見えていなかった有森選手は、集団を引き離したので自分が先頭だと思い込んでいた。しかし、自分の前に先導のバイクが居ないので、どこかおかしいとも思っていた。
暫くして、給水ポイントで確認すると、自分の遥か前方に先導車の回転灯が確認出来たという。再度のスパートを掛けた有森選手は、35km付近でEUN(独立国家共同体)のワレンティナ・エゴロワ選手だった。暫く並走を続けた両選手だったが、残り1kmとなった競技場直前でエゴロワ選手がスパートを掛けた。そこまで、2回のスパートを掛けていた有森選手には、付いて行く余力が残っていなかった。
結局、8秒差で1・2フィニッシュとなった二人だったが、ゴール後に明暗が分かれた。日本中の念願だった銀メダルを獲得した有森裕子選手には、競技場のスタンドで待ち構えていた家族やスタッフから、大きな日の丸や数々の花束が投げ込まれていた。日の丸を身体に巻き、花束を掲げてトラックを走り出そうとした有森選手は、ゴール近くに一人で立ちすくむワレンティナ・エゴロワ選手を見付けた。
ソビエト連邦が崩壊し、連邦下の国々が独立したものの、正式にIOCに加盟出来ていなかったので、旧ソビエト連邦からバルト3国を除く12か国がEUNとしてこのオリンピック・バルセロナ大会に参加を許されていたのだった。
EUNとは、フランス語で『統一チーム』を意味する“Équipe Unifiée”に由来するIOCの地域名コードで、日本語では『独立国家共同体』と訳されていた。
EUNの選手がメダルを獲得した際は、国旗掲揚台にはオリンピック旗が掲揚された。金メダルを獲得した際は、各独立国の国歌が演奏されていた。
女子マラソンのゴール付近に立ちすくむワレンティナ・エゴロワに、有森裕子選手は駆け寄った。身体に巻く国旗が無く、女性らしい花束も贈られていなかったエゴロワ選手に、有森選手は手に持っていたいくつかの花束の中で、一番大きな向日葵の花束を手渡した。そして、身体に巻き付けていた日の丸にエゴロワ選手を招き入れた。
二人で並んで写真に納まると、何事か親し気に言葉を交わしていた。何語の会話だったのかは解らない。
しかしそこには、イデオロギーでは解決出来ない、トップを競い合ったアスリートならではの世界が存在したことだろう。
後年、ワレンティナ・エゴロワ選手は、練習の拠点を日本に移した。マスメディアにも登場していた。
これは多分、あの時の有森選手との会話が切っ掛けだったことだろう。
第25回夏季オリンピック・バルセロナ大会。
私が一番記憶しているのは、女子マラソンのゴール後、写真に納まる二人の女子ランナーの笑顔となる。
《以下、次号》
❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。
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