週刊READING LIFE vol.125

亡くなった後も生き残る伯母の愛情《週刊READING LIFE vol.125「本当にあった仰天エピソード」》

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2021/04/26/公開
記事:清田智代(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「ったく、相変わらず車汚いな。洗ってやるから、今日くらい家にいろ」
今からちょうど5年前、2016年のお正月に、久しぶりに実家に帰省した。
友人たちと年末年始を楽しく過ごす合間、実家にでも顔を出して、ついでにお節料理をつまんでくるか。そんな感覚で帰った矢先の話だ。
 
父も母も相変わらず、そんな私のことを無条件に迎えてくれた。
父は、私が乗って帰ってきた車があまりにも汚いことが耐えられなかったらしく、洗車を始めると言う。
私はそれに感謝するどころか、迷惑に思った。
母が作ったお節をいくつかつまんだら、実家にいてもやることがないのでどこかに出かけようかと思っていたからだ。
3元日中、老いた父親を働かせる娘の親不孝もいいところだが、この話は少し脇に置いておこう。
 
娘のために良かれと思っているのに文句ばかり言われるその父が、洗車中、めまいを起こした。
しばらく休んでいたが、明らかにいつもよりも顔色が悪かった。普段体調を悪くすることなんてなかった父だが、この最近は貧血気味のようだ。父は普段は病院に行くこと、医者に会うことを毛嫌いしているが、その不調ぶりが母には異常に感じたため、正月休みが明けた後、無理やり病院で様子を見てもらうことになった。
 
3元日が明けて早速地元の病院で診てもらったが、どうやら内臓に変な影があるらしい。もしかしたら、がんかもしれない。さらに後日、精密検査を受けることになった。
結果はすぐには出ないけれど、貧血の具合がだいぶ深刻のようだ。医者には今までよく普通に暮らしてこれたものだと怒られ、父の我慢強さがかえって裏目に出る結果となった。
そして最初に病院で診てもらってから20日後、精密検査にて「大腸がん」が見つかった。
そのときのがんの進行はステージ3で、がんの細胞が大腸だけでなく、周囲のリンパ節まで転移された状態だ。
 
母が話すところによると、父ががんだという話は、親戚にもすぐに知れ渡った。
そして私たち家族以上に、父の姉にあたる伯母が非常に敏感に反応したらしい。
父には3人の兄弟がいるが、その伯母は父の兄弟で年長にあたる人で、幼い頃から父をかわいがってくれていた人だ。
 
私たち家族は最初、「父親ががんだ」という事実に対して思考停止の状態だった。
そんな頼りない私たちとは別に、その伯母はいろいろと調べてくれたのか、父の状態のことをすぐに理解し、何かと動いてくれた。
そして父にはまだ見込みが十分あるからと父を説得し、父は伯母の迫力に負けたのか、病気が怖いのかわからないけれど、伯母のアドバイスを素直に受け入れ、できるだけ早く患部の摘出手術と抗がん剤の治療を受けることにした。
 
手術の日はすぐにやってきた。
私たち家族の他にも、伯母をはじめ、父の兄弟やその家族も見舞いに来てくれた。
手術は何時間かかったか、もはや覚えていないけれど、手術が始まってから終わるまでの間、相当長く感じた。
そして何時間もの間、私たちは一つの部屋に待機した。
 
その日、伯母に会ったのは何年ぶりのことだろう。
随分と小さくなっていて、また、すっかり痩せてこけていた。
だいぶ年を取ったものだと思ったけれど、それ以上考えを深めることはなかった。
 
大分時間が経ち、部屋ではもはや会話ひとつも聞こえなくなってから、手術室から看護師がやってきて、私たちに手術が無事に終わったことの報告を受けた。
その後主治医が我々のもとにやってきて、父から摘出された大腸の一部を見せながらいろいろと説明をしてくれた。
私はアニメでさえ、血が噴き出るシーンを見るだけで気絶するタイプだ。だから父の生の臓器を見るのは正直とても気持ちが悪かったが、父の病の根源がとれたことの安堵感を、今でもよく覚えている。
 
手術が終わってからさらに数時間、私たちの家族だけでなく、伯母や他の兄弟もそこにいた。
父の麻酔が切れて意識が戻るまで、部屋で待っていてくれたのだ。
そして父が目を覚ましたとき、私たち家族と伯母たちで静かに父のベッドを囲んだ。
そのとき伯母は泣いていて、何度も何度も父の名前をささやいていた。
彼女の態度や言動から、伯母の父に対する愛情を、そばにいる私でも感じたものだ。
 
父の退院後はしばらく、週末は父を見舞いに実家に帰るようになった。
伯母も同じように、今まで以上に頻繁に我が家に訪問するようになった。
それまでも訪問の際にはこれでもかというくらい、旅行のお土産やらケーキやらを何かしら手土産に持ち込んでくれていたのだが、それ以降は、術後、そして抗がん剤治療中の状態でも食べられるような健康食品をたくさん届けてくれるようになった。
 
父は昔からそうなのか分からないが、母の話には耳を傾けることはあまりない。
しかし伯母の話はきちんと聞くような男だった。
父の母親は父が若い頃に亡くなったから、父にとってはこの伯母が母親のような存在だったのかもしれない。
彼らの話を聞いていて、父の意外な側面を感じた瞬間でもあった。
 
しかし病というのは恐ろしい。
そう分かっているつもりだけど、実際のところは、実際に患わないとわからないことも多いだろう。
 
実際父は、自分ががんを患っていることを知るまでは、1日1箱くらいたばこを吸い、夜は缶ビールにウィスキーが欠かせなかった。
手術を終え、退院した後には抗がん剤の治療が控えていた。
治療中も我慢ができないらしく、時々たばこをくわえていた。
最初に父が喫煙しているのを見た時は、私たち家族の方が焦り、何とか喫煙をやめさせようと躍起になった。
しかし父に何を言っても絶対にやめないので、伯母にも相談したのだが、意外にも「たばこを吸わないと、逆にストレスで死んじゃうんじゃないの」と言い放ち、それ以上何もいわなかった。
 
1度目の抗がん剤の治療が終了し、父の体調が回復していくと同じリズムで、伯母の訪問は少なくなっていた。しかし私は、父親のことしか頭が回らなかったから、そのことには気づかなかった。せいぜい、父が順調に回復しているから、もうそんなに頻繁に見舞いに来なくても良かろうとでも判断したものだと思っていた。
 
伯母と最後に会ってから数か月後のある日の夜中に母から電話が来たのは、父の手術から半年たった7月はじめのことだ。
どうやら伯母の様態が急に悪くなったらしく、夜間に大学病院に運ばれたようだ。
父も母も、これから病院に行ってくる。そんな内容だった。
 
その時は事態をよく理解できなかったが、実は伯母も父と同じ大腸がんを患っており、しかも彼女の病状は父よりずっと重く、末期を迎えていた。
伯母も、伯母の夫も、私たちには最後まで詳しいことを言ってくれなかったので今でも良く分からない。
だから推測しかできないのだけど、伯母も、父のがんが発覚ときと同じくらいのタイミングでがんを患っていることが分かっていたが、私たちが先に父の件騒ぎを起こしてしまい、私たちに伝えるタイミングを失ってしまったのかもしれない。
つまり伯母は、自分が末期のがんを患っていながら、弟である父も同じくがんで苦しんでいることを知り、余計に父のことが心配になっていたのだろう。
 
伯母が夜中に搬送されて大学病院に入院してから数日後、7月7日の七夕の日に、伯母は帰らぬ人となった。
伯母は病院に運ばれてから意識が戻ることはなかったらしい。
しかし、伯母の夫がどうしても七夕の日まで生かしてあげてほしいという要望で、七夕の日までなんとか生き延びるよう、何か特別な措置をとってもらっていたようだ。
 
伯母の訃報はあまりに突然で、非常に驚いた。
あんなに父に献身的だったのに、自分自身もがんを患っていたこと。
そして、そのことを私たちには一切漏らさずにいたこと。
いろんなことが頭の中をよぎり、本当はもっと早く知るべきだったことを見過ごしてしまった後悔の念が、どっと押し寄せた。
 
普段、職場で泣くことはほとんどないのだけど、伯母の死の知らせを聞いた翌日、誰かに打ち明けずにはいられなかった。
私は泣きじゃくりながら、目の前にいる同僚に大分子供じみたことを言ってしまったことを覚えている。
私はいつももらってばかりで、恩返しをできないこと。要領が悪くて不器用で、彼女に対しては結局、お見舞いのことばすら言えなかったこと。
それに対して同僚が、人目の付かないところへ私を連れてきて言ってくれたことは、今でもしっかり覚えている。
「悪いけど、伯母さんはあなたには何にも求めていなかったと思うよ。ただ、あなたがこれから、伯母さんではなく、あなたの周りの人たちに与えられる人になることが、あなたにできる恩返しなんじゃないかな」
その同僚も、母親をがんで亡くしていたのだ。

 

 

 

伯母の通夜と葬式には、たくさんの知人や友人たちが集まった。
そして伯母の夫は、今まではそれほど印象の残らない人だったが、通夜中、移動中、葬式中と、始終人目を気にせず、ずっと猫背になって下を向いて泣いていた。
最後の別れの時には、声を上げて泣いていた。
男の人はこんなに泣くのか、そして人にはこんな別れ方があるのかと、不思議な感覚を覚えた。
 
伯母と伯父は小学生の頃からの知り合いで、その後学生時代に付き合いはじめ、就職後も、ずっと一緒にいたらしい。
だから、2人の絆は相当のものなのかもしれない。
2人の愛がどんなものか、私には良く分からない。
そもそも愛がどういうものかさえ、私はいい歳しているくせに、まだ分かっていないかもしれない。
でも、当たり前かもしれないけれど、あまり絆が強すぎると、その人のとの別れというのは、きっと相当に苦しいものなのかもしれない。
 
人の死別というのは辛いけれど、この伯母との別れには本当に多くのことを学んだ。

 

 

 

5年経った今、父は昔ほどではないにせよ、相変わらずたばこをやめないでいる。
どうして肺がんにならないのか不思議なくらいだが、彼みたいな人は、あのとき伯母が言った通り、たばこを止めるとかえって病気になってしまうのかもしれない。
 
そして伯母のお墓には、今でも常に花が飾られている。
どうやら伯父が、毎日のように手入れをしているようだ。

 

 

 

それにしても、せっかくの正月休み中の父親の行動を変容させるほど、娘の車があまりにも汚かった事実は、いつからか娘の帰省が父を救ったという都合のよいエピソードに塗り替えられた。
その後も相変わらず、父が娘の帰省のたびに娘の車を洗ってやっていることは、家族内と、ここだけの話だ。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
清田智代(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)

いつになっても親不孝しかできていない、しがない勤め人。

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2021-04-26 | Posted in 週刊READING LIFE vol.125

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