週刊READING LIFE vol.132

ゲロ アンド シガレット in paris《週刊READING LIFE vol.132「旅の恥はかき捨て」》


2021/06/28/公開
記事:小石川らん(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
ふたり旅というのがどうも苦手だ。相手に気を遣い、遣われ、ご飯を食べるのか、寄り道するのか、右へ曲がるのか、左へ曲がるのかもなんとなく相手にお伺いをたてなければいけないような気がしてしまう。
 
だからといって一人旅が好きというわけではない。きれいな景色を見ても、美味しい料理を食べても、誰とも共有できないのは寂しいし、味気ない。幸福感を自分の内側で噛み締めて、せいぜい写真を撮るか、口元をほころばせることしかできない。
 
私はその夏、友人のマリちゃんとパリに来ていた。私とマリちゃんは、総勢20名ほどでフランスの田舎町で2週間に及ぶ研修を受けた後、研修仲間とパリで別れ、5日間のヴァカンスを楽しみに来ていた。2週間はみっちり勉強して、やっと羽を伸ばせる5日間だった。なのに、私とマリちゃんは、パリの路上でいがみ合っていた。
 
「ねぇ、私のこと怖い? 行きたいこととかしたいこととかあるならちゃんとはっきり言ってくれないと!」
 
身長168cmのマリちゃんが私を見下ろしながら物申している。私は151cmの身体を縮こませてうつむいていた。
 
「別にそういうわけじゃないけど……」
 
マリちゃんはいつでも自分の意見をはっきりと言う子で、自分のやりたいこと・やりたくないことを明確に相手に伝える。かといってそれを相手に押し付けるわけではなく、お互いが一致すれば嬉しいし、そうでなくてもお互いが妥協できるポイントを探しましょうというスタンスだ。日本人が一番苦手なネゴシエーション力に長けている。
 
一方で、私はどちらかというと優柔不断で、自分で決めるのが苦手だ。かといって、流れに身を任せるのが好きというわけではなく、頑固だったり、譲れないところもある。しかし、それをうまく相手に伝えることができない。
 
マリちゃんから「私、パリよく知らないからあんたにお任せする〜」とパリ案内を一任されたのだが、私の行きたいところ即ち、マリちゃんの行きたいところというわけではなさそうだったので、どう案内したら良いものか困っていたのだ。困っていたから、常にマリちゃんの顔色を伺って、右へ曲がるのも左へ曲がるのも決めかねていた。そんな私の姿を見て、マリちゃんの怒りが爆発したというわけだ。
 
「ねぇ! そんなに私のこと怖い?」
 
「今がめちゃくちゃ怖い」という言葉を飲み込んで「そういうわけじゃないんだけどさ……」と、言葉を濁すと「ちゃんと何がしたいとか、どこに行きたいとか言ってよ! ビクビクしてる感じが腹が立つ!」と、さらに叱られた。「じゃあ、マリちゃんだってちゃんとどこに行きたいか考えてよ。旅行に行く前に『パリで絶対行きたいおすすめスポット10選』のリンク送ってきたのマリちゃんだよね?」という言葉をまたも飲み込みつつ「分かった。マリちゃんのことは怖くないから……。ちゃんと自分の思っていることを伝えるよ」とだけなんとか言葉にした。しかし内心、私はちょっとイラッとした。
 
意見をハッキリと言うマリちゃんのことは好きだけれども、一対一で対峙すると、正直怖いと思っていた。だから「私のこと怖い?」と聞かれたのは図星中の図星で、それを悟られてしまったことが気まずく、気まずさは苛立ちへと変化した。
 
他にもマリちゃんに苛立っていたことがある。マリちゃんは東京生まれ東京育ちで、人がたくさんいる場所の怖さをよく知っているはずなのに、警戒心が全くなかったのだ。背の高いマリちゃんが歩いていると目立つ(フランス人の平均身長はそんなに高くない)。その上、目鼻立ちがはっきりとしていて、ある種の人たちには好みのタイプに映るのか、やたらと怪しげな人が声をかけてくるのだ。私はそういう人は一貫して無視を貫けるのだが、彼女はいちいち立ち止まって反応してしまうのだ。立ち止まったところで、コミュニケーションがうまく取れるはずもないし、ましてや全員怪しいのだ。
 
「怪しい人たちだから相手にするのやめようよ」
 
と、私はここでも意見することができず、とりあえず彼女の代わりに「Non!」とだけ言ってその都度まいてきた。
 
お互いに意思疎通がうまくはかれない。
旅程をまかせっきりにされる。
怪しい人に付いていきかねない。
 
旅のスタートから2人の雲行きは怪しかった。新婚旅行がこんな感じだったら、帰国後、離婚を考えるのではないだろうか。
 
そんな2人の緩衝材となってくれる人が旅の2日目にして現れた。嶋君である。
 
嶋君は当時、ドーバー海峡の向こう側、ロンドンに留学中で、夏休みを利用してパリに遊びに来てくれた。
 
「私その人のこと知らないし。一緒に行動するの嫌なんだけど」
 
と、嶋君との待ち合わせ場所を決めようとしている私に向かって、マリちゃんはむくれていた。
 
「私の友だちの嶋君も一緒だけどいい? って前に聞いたはずなのに」とこちらも内心ムッとしながらそのときはなんとなく返事を有耶無耶にした。
 
ところがマリちゃんは嶋君のことをたいそう気に入った。当時嶋君は、イギリスの地で騎士道精神にいたく感銘を受けたらしく、我々の荷物は持ってくれるし、レディーファーストだしといった感じで、私たちをおおいに良い気持ちにさせてくれた(その2年後、留学先をフランクフルトに変えた嶋君からその精神は失われた)。
 
おまけに嶋君は英語が話せた。つたないフランス語と大して使い物にならない私たちの英語で、綱渡り気味だった私たちの旅が俄然強化された。
 
「いや〜嶋君いると助かるわ〜」
 
と、夜のホテルでベッドに寝そべりながらご満悦なマリちゃんを見て「あれだけ嶋君と合流することを嫌がっていたのに、現金な人だな」と、ここでも内心苛ついてしまった。
 
うっすらと積もったマリちゃんへの不満を、私は彼女の目を盗んで嶋君に愚痴るようになった。嶋君はそんなとき、一貫して聞き役に徹してくれ「あはは〜そうなんだ〜」と笑っていた。騎士はサンドバッグにもなれるらしい。マリちゃんもなんとなくそんなことを察していたのか、ある日「ちょっとホテルに帰って電話がしたいから、2人はもうちょっと遊んでから帰ってきなよ」と、よく分からない用事を告げると、私と嶋君2人をセーヌのほとりに残して一足先にホテルに帰って行った。今思えばマリちゃんなりの気遣いだ。不満を抱いている相手に気を遣われると、こちらが至らぬ人間になった気がして、それがまた私を意固地にさせた。
 
当時の私はストレスを感じるとタバコを吸っていた。旅先でストレスを感じるようなこともないだろうと、タバコを持たずにフランスにやって来た。しかし、その夜は無性にタバコが吸いたくなり嶋君を連れてタバコ屋に向かった。
 
フランスのタバコ屋は観光客にとってハードルが高い。
タバコ屋を売っているのは「Tabacco」という看板がかかった、ほとんどがカウンター席のみのカフェ・バーだ。中に入ってみると、スポーツ中継を流しているテレビが置いてあり、大抵それに興じる数名のおじさんが、ビールをあおっている。テレビの手前には、バーを動かして、選手の人形を操作するアナログのサッカーゲームが設置されていて、隣のハイテーブルでは店内で販売しているロトくじを引いて一喜一憂している人がいる。
 
要するにちょっと小汚いところで、観光客がフラフラと出向くところではないのだ。噂には聞いていたけれど、場違いを咎められるような冷ややかな目線を感じて、タバコを買ったらすぐにでも店を出たかった。知らない銘柄がカウンターの奥で並ぶ中、絶対に通じるであろう「Marlboro vert(マルボロの緑)」とだけ告げて、早々に店を後にした。
 
嶋君と2人でセーヌ川のほとりで吸うタバコは美味しかった。マリちゃんの目を盗んでこぼしていた愚痴を、夜の闇に消える紫煙と一緒に思い切り吐き出す。マリちゃんはこうして私がたまにタバコを吸うことを知らない。喫煙者だと話せば軽蔑されるだろう。日本で一緒に街を歩いているときに、目の前で歩行喫煙する人に対して聞こえてきたマリちゃんの舌打ちを覚えている。
 
愚痴を吐き出してスッキリしたことと、隠れ喫煙者という後ろめたさを背負って、あと2日、マリちゃんとの旅行はなんとかうまくやり過ごせるのではないかと思った。
 
嶋君とタバコのお陰で決定的な仲違いをせずに済んだ私たちは、無事に旅の最終夜を迎えた。
 
最後の晩餐にステーキとワインに舌鼓を打ちながら、私たちは嶋君が近々結婚するかもしれないという話を聞いた。普通なら恋人がいる男性を呼び出して、一緒にパリで遊んでいるんなんて、お相手に咎められてもおかしくない。「嶋君が結婚しちゃったら、こんな風にもう一緒に遊べないよね〜」と言うと、嶋君とマリちゃんは「別にそんなことないんじゃない?」と飄々と答えた。
 
「そうかな? 奥さんは嫌がるよ」
 
と、赤身のステーキにぐいっとナイフを食い込ませると、マリちゃんは「あんたってそういうどうでもいい頑なさがあるよね〜」と、したり顔をした。
 
白いお皿の上に、ステーキからにじみ出た血が脂と混じりあった。ワイングラスはお店の磨きが甘く、白く曇っていた。不快だった。それまでなんと誤魔化していたマリちゃんへの不愉快な気持ちが露わになった。
 
「もうマリちゃんに嫌われてもいいや」と、この5日間なんとか繋ぎ止めようとしていた感情が吹っ切れた。
 
無理にでも酔いたい気分になり、ワインを無理やり一瓶空け、ぼうっとした頭で3人でパリの街に繰り出した。酔っ払ったところで、さっきマリちゃんから不意打ちで食らった不快感は消えなかった。
 
「『どうでもいい頑なさ』だって? 私は極めて常識的な人間ですけど」と、この5日間のマリちゃんの気の強さ、理不尽さ、軽率さに振り回されてきた私にとって、それが最後のダメ押しになった。
 
もういいや。この旅で嫌われてしまえ! と、セーヌを右岸から左岸へ渡るポン・デ・ザール橋で立ち止まると「ちょっと私、タバコ吸うわ」と、隠し持っていた緑のマルボロに火を付けた。マリちゃんは何も言わなかった。アルコールで頭に昇っていた血の気が、ニコチンを吸い込んだ途端に足元へ急降下するのを感じた。顔から血の気が引き、指先が冷たくなっていった。
 
ポン・デ・ザール橋は世界中のパリを訪れた恋人たちが、恋愛成就のお守りとしてかけた南京錠を付けることで知られている。街の明かりが南京錠に反射して橋全体を輝かせていた。視界がくるくると回り始め、南京錠の光がタイムラプスで撮影した星のように視界を巡り始めた。
 
「ごめん。ちょっと無理だ……」ポン・デ・ザールの真ん中に設置されていたベンチに横になる。
 
「荷物取られないように見てるから、しばらく寝なよ」と私の頭側にマリちゃんが座った。さっきまで苛立っていた相手にこうして優しく介抱されている後ろめたさと、吐き気が交互に襲ってくる。
 
遂にじっと横になることも難しくなって、胃からこみ上げる吐瀉物に突き動かされるように立ち上がって橋の欄干に手をかけた。橋から頭を突き出して、ディナーのワインとステーキと、私の胃液をセーヌに放った。この頃、バラエティ番組で吐瀉物をキラキラと加工させるエフェクトが流行っているが、まさにそんな感じで光る川面に吸い込まれていった。
 
「大丈夫? しっかり吐きな」とマリちゃんは私の背中をさすってくれた。いつの間にか私のマルボロを彼女も吸っていた。右手をタバコに添えて、顔は煙が私にかからないようにそっぽを向けていた。慣れた仕草だった。私の背中にあったのは空いた左手だった。
 
何度もえづいて、意識を取り戻しかけているときに、背後に嶋君の気配とスマホカメラのシャッター音が聞こえた。
 
「いいね〜。いい眺めだね」
 
顔を上げると、視界の先でエッフェル塔がキラキラと輝いていた。「あぁ嶋君が言っているのはこのエッフェル塔のことかな」と、自分もエッフェル塔に見惚れる前に、嘔吐感で再び身体を折り曲げた。
 
ひとしきり胃の中のものを出し尽くして「あーあ。セーヌ川にこんなことしちゃった」とマリちゃんの顔を見上げた。
 
するとマリちゃんも「私もいけないことしちゃおっと」と、それまで吸っていたタバコを川に投げ入れた。私たちはパリの名所のポン・デ・ザール橋で、セーヌをゲロとタバコで汚した共犯者になったのだ。
 
「マリちゃんもタバコ吸うんだね。日本で喫煙者を毛嫌いしてたから絶対に吸わないと思ってた」
「自分が我慢してるのに、吸ってる人がいると腹が立つじゃん」と、マリちゃんは2本目のタバコに火を付けた。

 

 

 

後日、嶋君からあのときの写真とメッセージが送られてきた。写真はライトアップされて輝くエッフェル塔を背景に、私が橋の欄干にもたれかかって嘔吐している姿と、その背中を擦るマリちゃんの姿が写っていた。
 
「旅行中、あんなに険悪だったのに、お互い内緒にしてたタバコで溝が埋まるなんてね。いやー、感動しちゃったよ。いい眺めだったな」
 
嶋君の「いい眺め」とは険悪だった2人がゲロとタバコで仲直りしている姿だったのだ。
 
あれからすっかり疎遠になることを覚悟していた私とマリちゃんだが、その後も交流は続いている。一緒にお酒を飲んだり、夜通し話し込んで泣きあったり、共に独身で一緒に歳を重ねていけるいい友人だ。たまに、マリちゃんの率直な物言いにイラッとすることはあるものの「それがマリちゃんだしな」とパリのゲロとタバコの味を思い出す。そして、やっぱりマリちゃんに言いたいことが言えたり、言えなかったりしている。
 
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
小石川らん(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

華麗なるジョブホッパー。好きな食べ物はプリンと「博多通りもん」。

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2021-06-28 | Posted in 週刊READING LIFE vol.132

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