カーリングのストーンが描くのは、地下道を照らした光の軌跡《週刊READING LIFE Vol.159 泥臭い生き方》
2022/02/28/公開
記事:いむはた(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
ヤップ、ヤップ、ナイスゥ
この掛け声、もうすっかりおなじみですよね。そうです、北京オリンピックで大活躍の日本女子カーリング。惜しくも決勝戦では敗れてしまいましたが、アジア勢初の銀メダル獲得です。ぼくも、大興奮、ついつい心の中でヤップ、ヤップ、と叫びながら応援していました。ちなみに、このヤップ、意味としては、もっとスイープして、もっと掃いて、という意味だそう。
それにしても、このカーリングという競技、今さらながら、選手たちの技術には驚かされます。狙ったところにストーンをピタッと止めたり、そうかと思えば、スピードの乗ったストーンが、うまい具合に曲がっていって、相手のストーンを、二つ、三つとはじき出す。いや~、人間ってこんなことができるんですね。
特にすごいのは、スキップと呼ばれる最終の投球者。日本チームでその大役を務めるのは藤澤五月さんです。技術はもちろんのこと、すさまじいのは精神力。彼女の一投がゲームを決めるわけですよ。
最後の一投に至るまでは、すべてが布石。チームメイトの渾身のスイープも、周りに残したストーンたちも、すべてはスキップのために仲間たちが積み上げてきたものなんです。そんな仲間の思いを乗せて、最後のストーンを投げるなんて、考えただけでも逃げ出したくなってしまいます。
カーリングって、脚光を浴びるのはスキップの選手かもしれない。でも、すべての選手が、懸命に、泥臭く、そこに至る道を切り開いてきた、そう思った時、藤澤さんの投じたストーンの軌跡が輝いているような、とても尊い道を進んでいるような、そんな風に見えたのは、決して氷に反射する光のせいだけではないはずです。
そのときのことでした。ある一つの景色が思い浮かびました。ぼくは地下道の中に立っています。そして、階段のほうから、まっすぐ差し込む光を見あげています。思い出しました。それは、子供の頃、ぼくが母に連れられて行ったあの地下道、そして、輝く光は、確かにぼくと母が作ったものでした。
今から、40年近く前、小学校5年生のころの話です。ぼくは、いわゆる登校拒否になっていました。きっかけは些細なこと。そう、本当に些細なことでした。こんなにも些細なことで、学校はつらい場所になってしまうものなのか、子供ながらにショックを受けたこと、今でも鮮明に覚えています。
その頃のぼくは、決して体が丈夫ではありませんでした。一度体調を崩すと長引いてしまうことが多く、学校を一週間以上続けて休むことも珍しくありませんでした。幸いなことに、友達にも恵まれ、また勉強も比較的できる方だったため、休んだ後でも、学校生活に戻るのを難しいと感じることはありませんでした。
そんなある日のこと、事件が起こりました。季節は10月の終わり、ちょうど季節の変わり目、肌寒く感じる日が増えてきた頃でした。ぼくは体調を崩し、一週間以上学校を休んでいました。ただ、それもいつものことです。体調がもどり、久しぶりに学校に行った日、ぼくは大して心配していませんでした。いつもの友達と遊べばいい、そんな風に軽く考えていました。
ただ、その日は何か様子が違いました。いつもだったら、ぼくが学校に着くと、すぐに声をかけてくれる仲間が、教室の後ろの方で遊んでいます。まあ、そんなこともあるだろう、そう思いながら、席に着きました。
一時間目の授業が終わり休み時間になっても、仲間は、ぼくのところへはやってきません。それどころか、いつも一緒に遊ぶことのなかった奴ら、クラスの中でなんとなく敵対関係にあったグループと遊んでいるのです。ぼくは、その輪に加わることができませんでした。よくわからないけれど、怖かったのです。
二時間目、三時間目と時間が過ぎていっても、かつての仲間は、ぼくのところには寄ってきません。その頃になると、さすがにわかり始めました。ぼくが休んでいる間に、なにかが起きたのです。
昼休みは一人で過ごしました。寂しくて涙が出そうでした。授業が終わり、一人、帰り道を歩いていると、かつての仲間が一人でいるのを見つけました。急いで駆け寄り、いったい何があったのか、なぜぼくを避けるのか、と問い詰めました。
でも、彼は何も言ってくれませんでした。いや、違います。何も言えないのだと、教えてくれました。ぼくが休んでいる間に、ぼくを仲間外れにすることが決まった。理由はわからない。ただ、自分から聞いたということは絶対に言わないでほしい。それが知れたら、次は自分の番なんだ、と。
その日は泣きながら家に帰りました。どうしたの、目をはらしたぼくを見た母親に尋ねられましたが、ぼくの口から出た言葉、それは、もう学校には行きたくない、それだけでした。
ただ、このいじめ問題はすぐに解決しました。母親が学校に相談すると、先生たちは、すでに事件に気づいていました。どうやら、ぼくが学校に戻る以前から、子供たちの間で不穏な動きが起きていることに感づいていたらしいのです。
学校からの説明によると、中心人物となっていたのは、体も大きく、力も強い、いわゆるジャイアンタイプの男の子。ぼくがいない間に、なんとなくクラス内のパワーバランスが崩れて、周りの子供が勝手に気を遣っているうちに、ジャイアンの独裁政権が出来上がってしまった。誰が悪いというわけじゃないんだけど、みんな、反省しているから、学校に戻って来てもだいじょうぶ、ということでした。実際、お母さんと一緒に、ぼくの家に謝りにきたジャイアンは、本当に申し訳なさそうで、全くというほど悪意は感じられませんでした。これで問題は解決、誰もがそう思ったはずでした。ぼくですら、そう信じていました。
でも、問題はぼくの心に残っていました。いざ、学校に行くとなると、怖くて足がすくんでしまうのです。頭ではわかっていました。誰も悪気はなかった。先生も気を付けてくれている。だから、あんなことはもう二度と起こらないはずなのです。
ただ、心がついていきませんでした。何度も学校には行きかけました。教室の前までは、何度も行きました。でも、どうしても、最後の一歩が踏み出せませんでした。教室のドアに手をかけようとすると、あの時の孤独感がよみがえってきてしまうのです。ぼくは、本当に学校に行けなくなってしまったのです。
季節はあっという間に過ぎて、冬が始まっていました。いつかそのうち、そう思っていた両親も、いっこうに学校へ行く様子のないぼくに、困り果てていました。ただ、ぼくの方は、ぼくの方で悩んでいました。その頃になると、正直、もう学校が怖いのかどうか、よくわかりません。なんだか、どうでもいいような気もしていました。ただ、だからと言って、学校に行こうという気持ちにはなれませんでした。これだけの「事件」に関わってしまったわけです。なにか、きっかけが欲しかったのです。学校には行きたい、でも、正面切って、そうは言いたくない、はけ口のない思いを抱えたぼくは、次第に家庭内で不満を家族にぶつけるようになりました。
そんなある日のことです。母が部屋に入るなり、こう言ったのです。
「ねぇ、通学路の、あの地下道、汚いから掃除をしない? 早起きして通学時間の前にやれば、誰とも会わないよ」
母は、とんでもなくいいことを思いついたとでも言いたげな、自信に満ちた表情をしていました。ぼくはと言えば、う、うん、いいけど…… あまりにも突拍子もない提案に、思わずそう答えていました。何かの変化を求めていたのかもしれません。
翌朝、母に起こされると、まだ夜明け前。平日のそんな早い時間に目を覚ましたのは初めてのことでした。面倒くさいような、でも、冒険に出かけるようで、どこかワクワクするような、そんな気持ちのまま布団を出ました。母に促されるまま、朝食を軽く済ませ、二人で外に出ると、冷たい空気が肌に触れ、一気に目が覚めました。
地下道までは自転車で五分ほどです。吐く息は、ほのかに白く、昇りたての太陽はどこまでも赤く、そして、空は、紫、青、オレンジ、様々な色のグラデーション、耳に入るのは、鳥のさえずり、それから、母とぼくがこぐ自転車の音だけ。目の前が急に開けたというのか、世界ってこんなに広いんだ、そんな気がしました。
地下道に着くと、当然ながら、まだ誰もいません。中からは何の音も聞こえてきませんでした。蛍光灯の白い光が、薄暗い闇をぼんやりと照らしています。しばらく前までは当たり前のように通っていた地下道が、いつもと違って見え、怖くなってしまいました。じゃあ、始めようか、母のその声に、思わず背中がびくっとしました。
母の背中に続き、そろそろと降りていった地下道は、長さとしては20メートルほど、がらんとした空間、当たり前ですが恐れるようなものはなにもありません。ただ、代わりに目についたのは、いたるところにあるゴミでした。空き缶、空き瓶、びしょ濡れの雑誌。階段や地下通路には、土埃や泥がこびりついています。毎日の通学中、気にならなかったのが不思議なくらいでした。じゃあ、あなたはそっちの階段からお願いね、私は反対から始めるから、母にそう言われ、さっそく一番上の階段から掃除を始めました。
ただ、掃除は思ったようには進みません。こびりついた土埃や泥は、家から持ってきた小さなほうきでは、歯が立ちませんでした。それでも、あきらめずに、少しずつ削り取るように、何度も何度も掃き続け、やっと一段目が終わったと思った時には、10分以上が過ぎていました。反対側の階段を見ると、母もどうやら苦戦している様子、まだ大して進んでいません。ねぇ、本当にこれ、やるの? 母に声をかけました。無謀な提案を非難する気持ちがあったのでしょう、思ったよりも大きな声が地下道に響きました。
母からの返事は、今日は、今日できることをやろう、でした。そう言われてしまっては、仕方ありません。ぼくは、ひたすら小さなほうきで階段を掃き続けました。おぉ、まだ小さいのに、がんばってるねぇ、途中、散歩をしているおじさんに話しかけられたとき、恥ずかしくて顔を上げられませんでした。
結局、その日は一時間ほどで切り上げることになりました。平日の朝の話です。家には父と弟が待っています。二人で掃除できたのは、階段の半分ほど、明日は、もっと大きな竹ぼうき、それから、拾ったごみを片づけられるようゴミ袋をたくさん持ってこよう、母と二人、そう話しながら、家への道を急ぎました。大した成果が上がったわけではありません。むしろ、無計画さに反省するところばかりでした。それでも、なにか少し気持ちが前向きになったような、明日のことを考えている自分に少し驚きました。
翌日の朝は、自然と目が覚めました。前日に準備した道具を手に向かった地下道は、昨日ほど、異質な場所に感じられませんでした。それどころか、ここは自分が面倒を見ている場所、おれの基地だ、などという親近感すら感じられます。
二人、別れて掃除を開始すると、竹ぼうきの効果に驚かされました。しなやかで、その上、強い竹が、泥をしっかりこそぎ取ってくれるのです。自分まで力をもらったような気がしてきます。調子にのって、階段を掃き続けると、慣れてきたおかげもあったのでしょう、時間にして20分ほど、気づいたときには一番下の階段までたどり着いていました。
そのまま、勢いに任せ地下通路を掃ききり、空き缶、空き瓶など拾い集めました。手も足も顔も、泥だらけ、埃まみれでした。でも不思議なことにそんなことは全く気になりませんでした。そして、気づいたときには、あっという間に一時間が過ぎていました。
きれいになったね、どこかで聞いたような声に顔を上げると、昨日も会った散歩おじさんが、感心した表情で脇を通り過ぎていきました。今日は自信をもって顔向けできる、そんな気がしました。
こんなきれいな地下道だと、うれしいな、ありがとう、そう言いながら去っていく、散歩おじさんの背中を目で追うと、あんなに汚かった地下道が、きれいな一本の道になったようでした。その先には、真っ白な光が階段から差し込んでいます。それを見た時、とても尊いような、どこか高い場所に通じているような、そんな道をぼくが作ったんだと、誇らしい気持ちになりました。
そろそろ帰ろうか、母親にそう言われ、家路につくと、もう太陽はすっかり昇っています。少し汗ばんだ体に、冬の朝の冷たい空気が心地よい、そう思った時のことでした。なんだか、もうどうでもよくなりました。
きっかけなんかなくたっていい、ぼくは、ぼくの力で道を切り開ける、そんな風に思えたのです。たとえそれが、どんな小さなことだって構わない。どんなに、泥臭くって、だれもやりたがらないことだって構わない。今のぼくができることをやればいい。そうすれば、必ず道は開けるんだ。そうすれば、必ず喜んでくれる人がいる、そして、その先を見上げれば、ぼくはきっと輝く光を見つけられる、そんな風に思えたのです。ねぇ、明日から学校、行ってみようかな、そう言ったぼくを、母はただ黙って見つめるだけでした。その後、ぼくは、なんとか無事に学校に復帰することができました。
地下道を掃除しよう、母のあの言葉がなかったら、今のぼくは無かったのかもしれません。今日は、今日できることをする、その言葉を聞かなかったら、あの光には出会えなかったのかもしれません。カーリングのストーンが描いた光の軌跡を見たとき、ぼくは思い出したんです。母といったあの地下道、そして、母と一緒に作ったあの光を。そして、改めて思うんです。泥臭くたっていい、いや、泥臭さの先にこそ、輝く光が待っているんだと。
□ライターズプロフィール
いむはた(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
プロフィール 静岡県出身の48才
大手監査法人で、上場企業の監査からベンチャー企業のサポートまで幅広く経験。その後、より国際的な経験をもとめ外資系金融機関に転職。証券、銀行両部門の経理部長を務める。
約20年にわたる経理・会計分野での経験を生かし、現在はフリーランスの会計コンサルタント。目指すテーマは「より自由に働いて より顧客に寄り添って」
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