単身赴任の間に夫が考えていたこと、妻が考えていたこと。《週刊READING LIFE Vol.182 令和の「家族」像》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2022/08/22/公開
記事:飯塚 真由美(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
今朝の「いってらっしゃい」を言ったら、夫はこの先しばらくこの家に帰って来ない。
特別な思いを胸に夫を送り出した。
夫の単身赴任が決まり、この日から赴任地へ行くという朝だった。
夫の人生初の転勤が決まったのは、結婚して15年が経った頃だった。私達には子供がいない。いつまで続くか分からない、夫と私、それぞれの一人暮らしの始まりだった。
転勤の話が決まった時、これは到底1年では戻れないだろうと確信した。新規営業部の開設というミッションだ。1年で軌道に乗せるのは難しいだろう。
2年後、3年後、4年後、私達はどこでどのように暮らしているのだろう。全く予測できない未来に、私はもどかしさや不安を感じていた。
私は転勤について行かず、東京に残ることに決めた。一緒に行くべきでは? という声は当然あった。でも私には手放したくないものがあった。憧れ物件を運良く借りることができ、気に入って住んでいた家も、辞めたくない仕事も、15年近く続けていたお稽古ごとも、私のシャツの裾を後ろからぎゅっと掴んで離さないように、私の気持ちを東京に留めた。
夫は転勤に一緒について来てほしいとは一度も言わなかった。どうせ来る気無いでしょ、と笑って言っていた。よく分かっている。
夫は何度か言っていた。営業部の新規開設の仕事なんて、毎日何時まで残業になるか見当もつかない。新しい土地でまだ仕事もなく知り合いもいない、ヒマで寂しい私から「何時に帰ってくる?」なんて帰宅を急かされるより、そういうことを気にせず、とことん仕事に没頭できるほうがいい。
夫の赴任先は福岡だった。夫は東京で研修を終えた福岡営業部の人達と共に福岡空港に向かった。空港で解散した時に夫が感じていたことは、皆は家族が待つ家に帰るのに対して、自分だけは一人の家に帰るのだという寂しさや心細さだった。
別々の暮らしが始まった。
東京で1人になった家の鍵を開ける。誰もいない明かりの消えた部屋に、くたびれた声で「ただいまー」と言う。玄関ドアのチャイムは鳴らしても当然誰も出て来ない。使わないのでそのうち存在を忘れた。
一人だと夕食の時間ってあっという間に終わってしまうんだな、と知った。自然と無口になった。新聞配達を何日から何日まで止めてほしいといった単純な要件を電話で伝えるだけなのに、普段話していないのでカミカミになった。一人でいると全然笑わないなあと、洗面所の鏡で無表情になった自分の顔を見て無理やり口角を上げてみたりした。
電話するほどのことでも無い、かといってLINEをするのも面倒、そういったちょっとしたできごとを話したかった。世の中の人にはどうでもいい、間違いなく夫にとってもどうでもいい、鯖缶で料理を作ったら一口目に私の好きな中骨が当たってすごく嬉しかった、そんな話をしたかった。
夫も、今日誰々さんと飲みに行ってすごくいい話ができた、今度話すよとLINEを送ってくるものの、私と会う時までには大体内容を忘れていた。思い出せても、時間を置くと面白い話も面白くなくなるんだよなあと悔しがった。
普段の生活はこんな風に寂しいものだったが、月に1度は夫に会いに行くと決めた。私は旅が大好きなので、夫に会いに行くのを口実に旅をしようと企んでいた。月1回やってくるチャンスを楽しみに、あと何日と指折り数えるようになった。
私は旅ではいつも欲張りだ。調べるにつれ、あそこも見たい、あれも食べたいが増えていく。夫の住む街でもやりたいことリストはどんどん長くなり、グーグルマップに立てたピンもすごい数になった。せっかく行くんだから、とあれもこれも手を出したくなる「せっかくだから病」が早くも発症していた。月イチで福岡、ゆくゆくは福岡を足がかりに九州各地に旅なんて、考えただけでわくわくした。置かれた状況を最大限に楽しむのだ! と心に決めた。
福岡はおいしいものばかりで瞬く間に心を掴まれた。玄界灘で揚がる魚のおいしさに感激し、鶏の水炊きの滋味深いスープに心震え、火傷をしてでもモツ鍋をつつき、柔らかいうどんに開眼した。シメは豚骨ラーメンで、新規開拓にいそしんだ。
ご当地グルメは、現地に行くからこそ本物の味を楽しめる。東京でモツ鍋を食べても、何だか「ふーん」で終わってしまいそうな気がする。それに反して、現地の福岡で食べるとモツ鍋の発する勢いやエネルギーまでガシガシと受け止めることができるから不思議だ。
せっかく福岡とご縁ができたのだから、福岡のことをもっと知って好きになりたいと思った。
手始めに大好きな食から攻めようと、最初のゴールデンウィークは辛子明太子工場を見学し、自分で辛子明太子を作る体験をした。豚骨ラーメンの製麺工場の見学もした。締めくくりは八女茶(やめちゃ)の産地に出向いて茶摘みをさせてもらった。
見学に行くたびに、明日誰かに話したい新たな発見があって面白かった。また、知ってから食べるとよりおいしいと感じるようになった。手前味噌だが、自作の辛子明太子は絶品だった。冷凍していないタラコの、ぷちぷちと弾ける食感が忘れられない。
イベントやお祭りを調べては、その週末にぶつけて福岡行きを計画するようになった。月イチで福岡という生活を最大限に楽しむ作戦だ。
11月は佐賀の唐津のお祭り「唐津くんち」を見に行きたい、2月は長崎のランタンフェスティバルを見たいといった具合に、もくろみ通り、着実に九州全土に範囲を広げていった。
夫は毎度よく見つけてくるねえと、感心するような、呆れるような反応を返しつつ、面白がって付き合ってくれた。毎月九州のどこかに旅するという、滅多にできない体験ができたのは人生の財産になった。九州の旅を終えて福岡の夫の家に戻り、掃除とか洗濯とか、いわゆる嫁らしいことを全速力で「一応」やって東京に戻るのがいつものパターンだった。
夫の福岡生活も2年が経とうとしていた。そろそろ東京に戻る話が出るんじゃないかとソワソワした思いを胸に私は福岡に向かった。
夫がよく行く店に入り、乾杯してすぐ夫は思い切ったように言った。
「金沢に行ってくれないかと言われた」
ぎょっとして思わず大きな声で復唱してしまった。「かーなーざーわー!?」
私の声に驚いて、向こうのテーブルにいた同窓会帰りとおぼしき初老の男性グループの何人かが私のほうを向いた。
東京に戻ってくるんじゃないのか。転勤ってことはまた数年は東京に戻らないと覚悟しなきゃいけないのか。ぐるぐる頭の中で考える。
今度は金沢での営業部の新規開設だそうだ。断れるような話ではなさそうだ。うーん。
明かりの消えた寒い部屋に「ただいま」と帰る自分が頭に浮かんだ。海の底に沈んでいくような下向きの力を感じていた。
金沢、何度か旅したことがあったな。海産物がおいしくて、歴史ある素敵な街だったと思い返していた。
次は北陸を存分に楽しめばいいんじゃない? そう思った。下向きの力はぴたりと止まった。
私はお店を出る頃には、金沢でも頑張れと夫を励ましていた。
夫も全く予想していなかった異動話だったが、私が前向きだったことで転勤の不安はワクワクに変わったと話していた。
夫の金沢暮らしが始まって数ヶ月が過ぎたある日、夫からびっくりするような電話がかかってきた。人間ドックで良くないものが見つかった。金沢で入院と手術をすることになった。
これは大変なことになった。単身赴任先で入院と手術か。夫の不安な気持ちは手に取るように想像できた。退院したばかりで1人で生活するのは無理だ。そばにいなくては、といてもたってもいられなかった。私は仕事をリモートにさせてもらい、夫の手術の前後、真冬の1か月を金沢で過ごすことにした。
夫は私にも職場の人にも申し訳ないという気持ちを感じていた。そんなこと思っている場合じゃない。知らず知らずのうちに無理していたんですよ、体は嘘をつけないんですよ、と職場の人に心配され夫はハッとしたそうだ。仕事を成功させたい、成果を上げて東京に戻りたい、そんな思いがいつしかプレッシャーになっていたのかもしれない。
金沢で受けた人間ドックで見つかった「良くないもの」は、見つけにくい場所にあった大動脈瘤だった。放っておいて破裂したら命に関わるようなやっかいなものだ。毎年人間ドックを受けていたのに東京でも福岡でも見つからなかったことを思うと、夫は金沢への転勤に何か運命のようなものを感じたと話す。
入院中は夫の一人暮らしの家で、私が一人暮らしだ。不思議な感覚だった。部屋にあるもの全ては夫の使っているものだが、本人だけがいない。そんなことを考えると、今頃病院でどうしているだろうと心配になった。
夫の入院中に感じていた押し寄せる心配や不安は、金沢を楽しむことで紛らわそうと思っていた。雪の中をどこまでもざくざくと歩いて金沢グルメを探訪した。とびきり寒かった日の、ふわっと湯気の上る金沢おでんのおいしさは忘れられない。どんな時でも置かれた状況を楽しみたいと願っていた。
手術が無事終わって数ヶ月が経ち、夫は元気になって元の生活に戻っていた。
福岡で単身赴任を始めた頃は、1人で過ごす週末は家にいてもつまらないからと夫は外出していた。金沢で単身赴任生活にもすっかり慣れたのだろう、1人の週末は行きたい所が沢山あるからという前向きな理由で夫は出かけていた。効きそうな温泉を訪ね、金沢港で朝どれの魚を買い、産直市場で新鮮な野菜を仕入れておつまみを作り、地酒を合わせる。送られてくる写真は毎回おいしそうで羨ましかった。赴任地を存分に楽しんでいる様子が伝わり、私も嬉しかった。
夏が来ると、夫は再び金沢で手術をすることになってしまった。
冬に手術を受けた病院で、術後半年の検診を受けた。いわば卒業試験のようなものだったが、その際に手術した場所とは全然関係ない所に予想もしていなかった病気が見つかった。7ヶ月間で2回も全身麻酔とは、とさすがの夫もふてくされていた。
急展開を見せる夫の単身赴任生活に、私はジェットコースターに乗っているような気分だった。
今度は真夏の金沢に1か月、私は看病のために滞在することになった。真冬と真夏、一番厳しい季節に看病で金沢に長期滞在することになり、手術するならもっと過ごしやすい季節にしようよ、と夫に軽口をたたけるくらいになった。
この手術の後も夫は驚異の回復力を見せ、まもなく職場に復帰した。私は毎朝、心配と頑張れが混じったような気持ちで夫を送り出した。
夫の金沢暮らしの間も、私は月に1度は金沢に行っていた。金沢を拠点に、石川だけでなく富山も福井も、北陸のさまざまな場所に夫と旅をした。どこも古い歴史があり、すばらしい温泉があり、どの食材も力強くおいしかった。九州の時と同じように、知れば知るほど北陸の魅力にはまっていった。置かれた状況を最大限に楽しもうと考えていたおかげで、月に1回北陸を旅するという滅多にできない体験ができた。二人とも東京で暮らしていたら、北陸ばかりに旅する、しかも月1回、なんてことは決してできなかった。
金沢で2年が過ぎ、ついに夫が東京に戻ることが決まった。4年に渡る別々の生活が終わろうとしていた。私は東京と金沢を行ったり来たりする生活を大いに楽しみ、この生活があと1年続いてもいいかも、なんて考えていた位だ。
一緒にうまく暮らせるのだろうか? 自信は無かった。4年間、お互いに一人暮らしだ。それぞれが心地よいと思う暮らし方で過ごしてきた。例えば夫は朝方人間になり、私は夜更かしになった。東京の家で夫が使っていた収納スペースを私は4年間でじわじわと侵食していた。あそこも明け渡さなければならない。夫の引越荷物が届く日までに片付けが終わるだろうかとハラハラしながら断捨離に励んだ。
最初はスムーズに行かないこともあったと思うが、再び始まった夫との二人暮らしはやがてうまく回るようになった。朝見送った夫が夜帰ってくる、それだけで最初は「おお!」と非日常を感じた。存在を忘れていた玄関のチャイムも押すようになった。何か話しかけると受け答えがある。それだけでも嬉しかった。笑うことも増えた。こうしたことは些細なことだが、人間の心にとって大切なことだと実感できた。
離れて暮らしていた間にできた凸凹を平らにならすため、お互い我慢したり相手に合わせたりすることは最初のうちは必要だろう。しかしそれ以上に、家に家族がいるというのは温かくて嬉しいことだった。
置かれた状況を最大限に楽しもうと、夫のいる街を拠点にあちこち旅したのも貴重な体験だった。1人の時の寂しさや一緒に暮らせるようになった時の喜びを通して、家族の存在の大切さも思った。
夫の単身赴任を通して、家族のありがたさを改めて考えることができた。
□ライターズプロフィール
飯塚 真由美(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
東京在住。立教大学文学部卒業。
ライティング・ゼミ2022年2月コース受講。課題提出16回中13回がメディアグランプリ掲載、うち3回が編集部セレクトに選出される。2022年7月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。
国内外を問わず、大の旅好き。海外旅行123回、42か国の記録を人生でどこまで伸ばせるかに挑戦中。旅の大目的は大抵おいしいもの探訪という食いしん坊。
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