週刊READING LIFE vol.205

言葉は身を助ける。そして筋肉も大いに身を助ける《週刊READING LIFE Vol.205》

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2023/2/20/公開
記事:前田光 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
虫唾が走るほどイヤだという方々のためにあらかじめ断っておくが、これからお話しするのは、よく台所などに出没する黒くてピカピカしたアレ、人によっては視界に入った瞬間に「ギャーッ!!!」と叫ばずにはいられないアレ、やたらとすばしっこく床を這いまわっているかと思えば、いきなり飛び立って真っ向から反撃してくるアレ、昆虫好きの人は世に多けれど、この虫を好きだという人は限りなくゼロに近いと思われるアレが出てくる話だから、耐性のない人はここで読むのを止めて欲しい。
 
だけど変な虫マニアの人、インフラ整備が進んでいないところに行く予定のある人や熱帯が好きな人、異国の旅行記が好きな人、マイナー言語オタクの人、そして筋力維持の大切さを再認識したいという人は、読んでもらってもいいかもしれない。
もしかしたら、筋トレやウォーキングへのモチベーションが急上昇するかもしれないし、体に備わっている火事場のバカ力の一端を垣間見られるかもしれない。
 
「『お腹が走る』って言うんですよ。状況をよくとらえた、うまい表現だと思いませんか」
先輩スタッフの解説を聞いて、確かに! と膝を打った。
下痢のことをフルベ語では「お腹が走る」と言うのだそうだ。
お腹を下したときに、食べたものが体内をすごいスピードで通過して外に向かって突っ走っている感じがよく出ている。
しかも言葉に緊迫感がある。
下痢との戦いは、中身が出るのと自分がトイレに飛び込むのとどっちが早いかを競い合うだけでなく、負けることは決して許されないという宿命を背負ったものでもある。
お腹も走るが私も走る。
非常にスリリングである。
 
当時赴任していた西アフリカのマリ共和国は多言語国家で、国民のほとんどは二言語、三言語を自在に話していた。
公用語は一応、フランス語ということになっていたけれど、実質的にはその役割は国内で一番人口の多いバンバラ族の人たちが話すバンバラ語が担っていて、他の民族の人たちは自分たちのコミュニティでは母語を話し、他の民族の人とやりとりするときにはバンバラ語を使っていた。
フランス語をおさえてバンバラ語が幅を利かせているのは、地元から出たことのない地方の人間が都市部に初めて出稼ぎに出たときに、周囲で使われているのがバンバラ語だからだ。
そのため私たちのような外国人のNGOスタッフが単一民族で構成された辺境のコミュニティに入る場合は、やはりその民族固有の言葉を覚える必要があった。
出稼ぎに出る前の子どもや、村を出たことのない女性の多くは、フルベ語しか話せないからだ。
だから赴任当初はどこに行くにもノートとペンを手に持って、言葉を教えてもらってはそこに書きつけていた。
 
最初に覚えるのは名詞がいいと教わったから、まずは目につくものを片っ端から指さしては「これは何?」と名前を聞いて回った。
ものの名前が頭に入っていれば簡単な話なら通じるうえ、その言葉が出てきたときに続く動詞も、ある程度想像できるからだ。
たとえば「水を飲むか?」と聞かれたとき「水」さえ聞き取れれば、話は通じたも同然だ。
そして水を飲むジェスチャーをして見せて相手が頷けば、「飲む」という動詞も覚えられる。
こうやって、分かる言葉を広げていった。
 
「お腹が走る」も、現地語で言えるようになっておかないと大いに困る、大切な言葉の一つだ。
現地で病気を発症するとそれが何であれ大抵は激しい下痢を伴い、下痢は体力を軽々と奪っていく。
サハラ砂漠の南側という、体からの水分蒸発量がただでさえ多くなる地域にいることも、下痢に気を付けなければならない理由だった。
 
現地入りして数か月が過ぎたころだった。
多分、体に疲れがたまっていたのだろう。
ある日の夕方、何かの閾値を超えてしまったかのように体が急に重くなり、頭の奥から鈍い痛みが湧いてきた。
あ、これはアレだ、熱が出るヤツだ。
こうなったからにはもう、抗えない。
思ったとおり、ほどなく強い寒気に襲われ、嘔吐が始まった。
これはマラリアだろうな。
前に首都で罹ったときにもこんな風だったな。
朦朧とする頭でそんなことを考えながら、同僚に「マラリアになっちゃったみたい」と伝えた。
 
ハマダラカがマラリア原虫を媒介することで発症するマラリアはあの辺りの風土病で、免疫がつかないため現地の人でも一生に何度も発症する。
マラリアには三日熱、四日熱、卵形、熱帯熱などいくつかの種類があるが、現地で主流だったのは、発症すると命にもかかわる熱帯熱マラリアだった。
抗マラリア薬が開発される前は、周期的に熱がぶり返すわりに症状が軽いマラリアが主流だったが、薬が治療薬として使われるだけでなく予防薬としても普及するにつれ、それが鳴りを潜めた代わりに薬剤耐性のある熱帯熱マラリアが蔓延するようになったのだそうだ。
だとしたら、医療の発達とは何なのだろうと思わざるを得ない。
比較的軽い病気を治療するための薬が、結果的に重篤な病を広めているのだから。
しかしそうは言っても、罹ってしまったからには薬に頼るしかなかった。
こちとら原産地は先進国、つまりはアフリカで健康に生きていくことなど現地の人たちの足元にも及ばない、ひ弱な日本人なのだ。
薬がなくても治っちゃったりする身体的エリート中のエリートのアフリカ人とは、しょせんは作りが違うのだ。
自分の自然治癒力だけで回復なんてできる気がしないわ、背に腹は代えられないぞコンチクショー。
 
常備していた薬をありがたく飲んだが、それでも熱が下がるまではある程度時間がかかる。
そうこうしているうちにお腹がグルグル言い出した。いや、走り出した。
来たぞ、来た……恐れていたものがついに来た……。
 
心配して訪ねて来てくれたアイセタという名前の女の子に、
「レイドゥ・マッコ・アナ・ドギ・サンネ(私のお腹、すんごい下痢ピー)」
と言うと、飲み水をたくさん運んできてあげるわと、私の一番欲しい言葉を返してくれた。
ありがとアイセタ恩に着る!
言葉が通じるってホントに素晴らしい!
体から出る水の量を口から飲んで補わないとマジで命にかかわるから、感謝の一言に尽きる。
だが実は、このとき私が怖がっていたのは脱水だけじゃなかった。
 
この辺りは電気も水道もガスも通っていない。
だったらトイレはどうしているかというと、地面に掘った深い穴に用を足していくか、畑や原野で開放的に済ませるかのどちらかだ。
とはいえどの家にもトイレは掘ってあったし、私たちスタッフが住んでいた家にもちゃんと作ってあった。
中庭のすみっこに穴を掘り、周囲を日干しレンガの塀で囲ってあるだけで、天井もドアもない簡素でオープンエアーなトイレだったが、高熱でフラフラの体で尻を押さえながら遠くの畑まで用を足しに出るなんて拷問以外のナニモノでもないから、自宅にトイレがあること自体はとてもありがたい。
 
問題は、トイレの中にアイツが住んでいることだ。
 
あの辺りのゴキブリは日本のそれの二倍くらいの大きさをしている。
そして普段は穴の底のほうにいるが、ヤツラも食べ物はフレッシュなほうがいいのか、人が用を足し始めると上のほうに上がってくる。
そして触角がやたらと長いため、うっかり無防備に腰を据えていると、ヤツラの触角がお尻をかすめていくと言うのだ。
何てこった! 想像しただけで卒倒しそうな話じゃないか!
とはいえこのことは「現地入りする前の心得」として先輩スタッフからあらかじめ聞いていたから、赴任してからずっと私は、トイレのたびに腹筋と足の筋肉を最大限に活用して、腰を下ろし切る手前の姿勢を頑張って保っていた。
 
しかし、今回ばかりはそれができる自信がない。
立って歩くだけで精いっぱいなのに、数十分間隔で襲ってくる便意に応えながら中腰で用を足すなんて、いったいどんな罰ゲームなのか。
でもでも、ヤツラにお尻を撫でられるなんて、絶対に嫌なの断じて嫌なの耐えられないの!
 
しかし私のお腹は走り続けていて、一向に止まる気配がなかった。
もはや運転士を失った暴走列車である。
水を飲まないと命にかかわるが、飲むほどに出る。
高熱下の筋トレという苦行に、いったいどれくらい耐えられるだろうか……。
 
結果を言うと、私の筋肉の勝利だった。
長い長い夜であり、回復するまで何度もトイレに通ったが、一度たりとも腰を下ろすことなく、回復することができた。
あのときほど、丈夫な体に産んでもらったこと、普段からよく歩いていたこと、日ごろから地味にトイレ筋トレを続けてきたことに感謝したことはない。
 
翌朝、体力を使い果たしてヘロヘロになってはいたが、ピークは去ったみたいだぞと目を閉じてボーっと考えていると頭の上から、
「ア・ニャーム・ニーリ?」
とアイセタの声が降ってきた。
 
ありがとう。そのとおり。私は今、何か食べたい。
 
「ホッカム・ニーリ・ミ・ニャーム(ご飯ちょうだい。食べたいの)」
と返事をすると、アイセタは分かったと言って出て行った。
 
多分、昨日の夕食の残りのトウジンビエのクスクスにバオバブの木の葉のソースをかけたものを持ってきてくれるだろう。
残りご飯と笑うなかれ。
決して裕福ではないこの地では、朝ごはんがない日だって少なくはないのだから。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
前田光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部NEO)

広島県生まれ。
黒子に徹して誰かの言葉を日本語に訳す楽しさと、自分で一から文章を生み出すおもしろさの両方を手に入れたい中日翻訳者。

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2023-02-15 | Posted in 週刊READING LIFE vol.205

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