週刊READING LIFE vol.238

他人と共通の理解を持つということは《週刊READING LIFE Vol.238「この言葉って、そういう意味だったんだ!」》


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2023/11/6/公開
記事:工藤洋子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
学生のころ、はじめてイギリスへ行った時のことだ。
 
今でこそ通訳者として英語を生業としている私だが、大学生の時は思い返すも恥ずかしくなるほど未熟だった。
 
はじめての外国、はじめての日本語が通じない環境、はじめての文化、と何もかもはじめてづくし。もちろん、食べ物も見たことがないものがたくさんあった、果物も。
 
その中にブラッドオレンジという柑橘系のフルーツがあったのだ。
 
今でこそ、日本国内でも栽培している農園もあるようだが、その当時ははじめて見る品種だった。ネーブルオレンジやその他よく見るオレンジとよりいささか小ぶりなそのオレンジの特徴は、果肉が紫がかった濃い赤色をしていることだ。
 
とても気に入ったので、イギリスでできた友達に「こんなオレンジがあって、イギリスはいいね!」というようなことを伝えようとして、
 
「ブラッディーオレンジ」
 
と言ってしまった。
 
すると、その友人はかなり怪訝な顔をしながらも、
 
「そうね、ブラッドオレンジは美味しいよね」
 
と返してくれた。
 
何がおかしいのか、分かるだろうか?
 
ブラッドオレンジは「血のような色をしたオレンジ」とでもいう意味で済むのだが、「ブラッディー」と言ってしまうと、それは
 
「血まみれの」
 
という意味になってしまう。
 
お酒を嗜む方なら、カクテルのブラッディマリーという名前は聞いたことがあるかもしれない。16世紀の英国女王で敬虔なカトリック教徒だったメアリーがプロテスタントを執拗に迫害したために、「ブラッディー・メアリー」と呼ばれたのが元ネタだそうだ。
 
そんな背景のあるブラッディーという言葉を使い、
 
「この血の滴るオレンジ、いいね!」
 
と満面の笑みで微笑まれたのにもかかわらず、さりげなく返事を返してくれたイギリスの友人の寛大な心に感謝したい。
 
そんな私の未熟さはともかくとして、言葉の壁による勘違い、相互不理解というのは、結構簡単に発生してしまうものである。
 
日本語で「水」といえば、主に常温の水を指す言葉だ。もし、それが沸騰した水なら、「お湯」もしくは「熱湯」と呼ばれるし、少し冷ましたお湯は「白湯」と呼ばれる。同じ水、つまり化学式でいうところのH2Oに名前が複数ある、という見方もできる。
 
それに対して、「水」は英語で何というか?
 
中学生でも分かるこの答えは、”water”である。では、お湯は? 熱湯は? そして白湯は??
 
お湯は、”hot water”。
熱湯は、”boiling water”。
そして白湯は”warm water”となるだろうか。
 
英語にはH2Oを表す単語が”water”しかなく、温度の差によって形容詞を付けることで差別化しているということだ。
 
これはなぜか、と考えると、一度ヨーロッパへ旅行してみると実感できるかもしれない。日本では水がふんだんにあり、レストランや喫茶店に行けば、「お冷や」として水が無料で提供されるのが当たり前だ。
 
しかし、水がそうそう豊富とはいえない気候のヨーロッパでは、そうはいかない。「お冷や」のサービスはないので、水が欲しければ別途ミネラルウォーターのボトルを頼まなければならない。そしてそれは「お冷や」ではなく、たいていの場合、常温の水だろう。
 
おまけに何も気にせずにオーダーすると、その水がナチュラルな炭酸水でシュワシュワしており、ひとくち飲んで仰天した経験のある方も多いのではないか、と思う。
 
つまり、何かを指し示す言葉は、その言葉が話される場所の習慣・文化に大きく影響されている、ということだ。
 
逆の事例ももちろんある。
 
日本語で、
 
「頭に角が二本生えていて、ンモ〜と鳴く動物は?」
 
といえば、答えは「牛」だろう。
 
それが英語で「牛」を意味する単語を探すと、
 
雌牛は、”cow”。
雄牛はふたつあって、去勢されていない雄牛が、”bull”、去勢された雄牛は、”ox”となる。
おまけに仔牛にも専用の単語があって、”calf”という。
 
「カーフ」なら、皮革製品の種別で聞いたことがあるかもしれない。
 
われわれ日本人からすると、
 
「雄でも雌でも牛は牛だろう?」
 
と言いたくなるところだが、それこそ「水」の場合と同じでここは文化的問題なのだ。明治になってやっと本格的に牛肉を食べ始めたような日本人とは、歴史が違う、つまり文化が違うので、それに対応する言葉も違う、ということになる。
 
このように言語が違うと、言葉それぞれの持つ守備範囲が異なっていることが多い。「犬はdog、猫はcat」など一対一で対応する言葉の方が珍しいほどだ。野球でいえば、一塁手と三塁手はそれぞれファースト、セカンドのベースを中心に守るが、二塁手と遊撃手、つまりセカンドとショートについては、場合によって守備範囲が移動するように、異なる言語間の対応表は、「本日の為替レート」のように明確に記されたものはない。
 
牛、水などのように物理的に存在がある物体を表す言葉でも守備範囲にこれだけ差が出るのだ。これが他の動詞や形容詞となると、自分の母国語の世界だけで表現しようとするのは、どだい無理な話だ。
 
そのことを改めて気付かせてくれたのが、
 
『なぜ日本人はupsetを必ず誤訳するのか』(アルク、2023)
 
という本だ。著者のアン・クレシーニさんは日本に来て四半世紀を過ごした日本語にも相当なレベルで精通したアメリカ人だ。
 
日本語と英語の間には、壁がある。壁なのか、溝なのか分からないが、明らかに違いがある。しかし、違うフレームで考えたら、ちょっと理解が深まるんじゃないかな、というスタンスで本書は書かれている。
 
たとえば、本のタイトルにもなっている”upset”という単語。これが極めて日本語に訳しにくい。なぜ訳しにくいかというと、upsetは同じひとつの単語なのに日本語にはひとつで表すことのできる語句が存在しないからだ。さきほど私があげた例で行くと、「牛パターン」だ。
 
upsetという単語を英英辞典で引くと、
 
unhappy(幸せじゃない)
angry(怒っている)
worried(心配している)
 
という日本語でいえば違うパターンの定義が出てくる。ニュアンスとして、何かがひっくり返された時にどういう気持ちになるか、を表しているのかな、と思うが、日本語でひとつの意味にならないので、文脈を見て適切な日本語表現にする必要がある。
 
本書によると、「同様、怒り、悲しみ、楽天、悔しさ、といった、負の感情が複雑に入り交じっているため、そのニュアンスにかなりの幅がある」という。だからこそ「プロの翻訳家でも訳すのには苦労する」と言われるのだ。英語ではなくても、他の言語を学んだことがあるなら、
 
「だから一体どういう意味なんだよーっ!」
 
と絶叫した経験が誰にでも少なからずあるだろう。
 
だけど、外国人から見れば日本語だって、相当な食わせものだ。その最たるものが、「オノマトペ」だと私は思っている。
 
「オノマトペ」とは擬音語、擬態語のことだ。たとえば、「雨がザーザー降る」とか、「すたすた歩く」とか、みなさんも知らず知らずのうちに使っていると思う。使っているどころか、人によっては好き勝手に自分で「創って」しまっていることもあるのではないだろうか?
 
私自身、よく我ながらおかしなことを言ってるな、と感じることがある。我が家にいる猫の一匹がメスで軽やかに動いているはずなのにどうしても「のしのし」と歩いている感じがどうしてもぬぐえない。どうにもこうにも「のしのし」では足りない感じがして、
 
「うっしわっし歩く」
 
とか、言ってみたりするが、それが人に完全に通じなかったことはない。日本語ネイティブどうしなら、
 
「なんとなくこんな感じ」
 
というニュアンスがこのオノマトペによって共通のベースとして通じるところがあるのだと思う。
 
ところが、先ほどのアン・クレシーニさんによると、日本語を学ぶ外国人からすると、本当に分かりにくいらしい。ニュアンスとは言語化されていないけど暗黙の了解としてそこに厳然たる事実として存在する「何か」だ。言語化されていないのだから、テキストで学ぼうとしても学び得ないことなのだろう。
 
もちろん、その日本語のオノマトペが英語ではまったく表現できない訳ではない。たとえば「すたすた歩く」であれば、”stride”(大またで歩く)という動詞が対応するし、同じ「歩く」関係でいけば、「ぶらぶら歩く」なら”wander”、「よろよろ歩く」なら、”stagger”という単語が対応する。
 
だけど、いくらそれで表現できる、と分かっていても、けっして自由自在に使いこなせる感はまったくしない。やっぱり「すたすた」は「すたすた」だし、「ぶらぶら」は「ぶらぶら」なのだ。
 
このオノマトペは、非ネイティブとしていかに英語を極めようともいつまでも「6割」程度しか使える気がしない理由のひとつでもある。
 
他にも英語と日本語の間の誤解という視点で見ると、「和製英語」の存在が外せない。いわゆる「カタカナ英語」というやつだ。以前、「ひらがなとカタカナは日本人最大の発明だ」と何かで読んだことがある。確かにその通りだ。中国語から漢字を借用してきて、それから文字を取り出したり、違う形に変形させたりして自分たちの言葉を表現できるように作り上げてしまったのだから。
 
ただ、和製英語はいくら英語の単語に置き換えることができても、意味が通じない。海外旅行などで使っても、「??」と首をかしげられるだけだから、注意が必要だ。
 
たとえば、「ガソリンスタンド」。
どう考えても全部カタカナしかも英語になりそうな気がするが、英語では”gas station”
が正解だ。「ボールペン」は”ball-point pen”だし、微妙にズレている。
 
実は多少ズレているだけならカワイイもので、もっと深刻な局面も存在する。それは、日本語でカタカナとして使っている意味と、英語の元の単語の意味が大きく異なっているものだ。
 
今年の夏、ボクシングのタイトルマッチが日本で行われたのはご存じだろうか。現タイトルホルダーのフルトン選手に日本の井上選手が挑戦する試合だった。その事前の記者会見の場で、テーピングの巻き方の違いについて何か公正な判断を求めたフルトン陣営に対して、井上選手が
 
「それはナイーブになりすぎでは」
 
という答えを返したのだ。
 
ナイーブ……日本語として聞くと、どういう意味合いに解釈するだろうか?
 
ちょっと繊細?
傷つきやすい?
 
日本語だとそんなに悪い意味ではないだろう。
 
しかし、英語で”naïve”というと、どちらかといえば「世間知らず」などといったニュアンスで悪い意味となる。もし、その場の通訳の方が出た音の通り、”naïve”という単語を使ってしまっていたとしたら、フルトン陣営側はおそらく挑発された、と取ったことだろう。
 
井上選手はあとで「ナーバス」を言い間違えた、と言っているそうだ。何がどうなったのか部外者には知るよしもないが、この「ナーバス」という単語、日英間ではかなり要注意度レベル最上級の単語である。
 
まさしく、カタカナ語の恐怖だ。
 
ここまで、英語と日本語、という異なる言語間での相互不理解について説明してきた。文化背景の違い、慣習の違い、その他もろもろによって、齟齬が生じる場合がある、ということだったが、よくよく考えてみれば、たとえ同じ日本語を話していても、
 
「こいつ、話が通じねえ!」
 
と思った経験は誰しもあるだろう。
 
「日本という国は南北に長くて、方言もいろいろだからね」
 
という話も論点としては確かにある。東北のスキー場へ出かけたとき、リフトで一緒になって地元の方に話しかけられたのに、なんと言ってるのか英語以上に理解できなかったことがある。同じ日本語なのに、だ。ちなみに私は九州出身だ。
 
そもそも人と人が理解するには、言語だけでなく、もちろん方言だけでなく、概念としての共通の土台が必要だ。その共通点なしには同じ日本語を話していても通じるものも通じなくなってしまう。
 
言語というのは、その共通理解にいたる「はじめの一歩」だと私は思う。というのは、自分の母国語という言語のフレームによって、自分自身の思考が決まっていくところがあるからだ。
 
ヘレン・ケラーは目も見えず、耳も聞こえず、話せもしない、という三重苦の状況でも、手に触れる何か流れる冷たいものが、「水」である、と理解して、言語と現実を照らし合わせて世界を理解する手始めとしたという。それはつまり、人が思考する上でもっともベースになるものが、
 
「言葉」
 
である、ということの証左ではなかろうか。
 
そして、「英語のフレームで考える」ということを主張しているアン・クレシーニさんの言うように、新しい言語を手に入れ、新しいフレームを使うことを覚えることは自分の思考パターンを変化させる、もっともよい方法ではないのだろうか。
 
今、語学学習に時間を費やさなくてもAIやその他便利なツールで助けてくれる世の中になった。しかし、自分が本当に限界を超えたければ、言語の習得から初めて自分のOSをアップデートさせる、というのは、まだまだ悪い手ではない、とそう思う。
 
無理をしてまで言葉の学習に執着することは、ない。
でもこんな時代だからこそ、差別化の一手となる可能性を秘めているのではないだろうか。
 
「多くの人は見たいと欲する現実しか見ていない」
 
とはローマの英雄、ユリウス・カエサルの言った言葉だ。
(『ローマ人の物語 ユリウス・カエサルルビコン以前』より)
 
ならば、欲する現実を変えるためにも強制的な手段を用いるのもよいだろう。
私はそう、思う。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
工藤洋子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

20年以上のキャリアを持つ日英同時通訳者。
本を読むことは昔から大好きでマンガから小説、実用書まで何でも読む乱読者。
食にも並々ならぬ興味と好奇心を持ち、日々食養理論に基づいた食事とおやつを家族に作っている。福岡県出身、大分県在住。

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2023-11-01 | Posted in 週刊READING LIFE vol.238

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