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《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》


2025/12/1/公開

記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

 

※一部フィクションを含みます。

 

「ありがとう」の一言を書いて渡したかっただけなのに、それができなかった。手の震えに悩まされ、諦めかけていた筆記動作。それでも、時間をかけて書いた小さなメモは、何よりも雄弁だった。

——

 

鈴木一郎さん(仮名・78歳)の手は、震えていた。本態性振戦という診断を受けたのは、3年前のこと。最初は気にならない程度だった。でも、次第に震えは大きくなり、日常生活に支障をきたすようになっていた。特に困ったのは、字が書けないことだった。

 

一郎さんは、元教師だった。40年以上、黒板に文字を書き、生徒のノートに赤ペンを入れ、保護者への手紙を丁寧に書いてきた。「字を書くことは、私の人生そのものでした」そう語る彼の声には、深い喪失感が滲んでいた。コップを持つのも大変。箸を使うのも難しい。でも、何より辛かったのは、ペンが持てないことだった。「ありがとう」という一言さえ、書けない。その現実が、彼を打ちのめしていた。

 

 

人にとって、文字を書くという行為は単なる情報伝達の手段ではない。それは、自分の気持ちを形にする、大切な表現方法だ。一郎さんにとって、それは特に強い意味を持っていた。教師時代、彼は生徒一人ひとりに手書きの言葉を贈っていた。通知表には必ずコメントを添えた。卒業する生徒には、メッセージカードを書いた。「今はメールとかLINEとかあるけどね」一郎さんは言った。「でも、手書きの文字には温度があるんです。書いた人の気持ちが伝わる」

 

定年退職後も、彼はその習慣を続けていた。誕生日カードを家族に送る。お世話になった人に礼状を書く。季節の挨拶状を友人に送る。でも、震えがひどくなってから、それができなくなった。「これが一番辛いんです」彼は震える手を見つめて言った。「気持ちはあるのに、形にできない」

 

 

一郎さんと出会ったのは、地域のデイサービスだった。妻の勧めで、リハビリを兼ねて通い始めたという。初めて会った時、彼は落ち込んでいた。他の利用者が楽しそうに手芸や習字をしているのを、遠くから眺めているだけだった。「先生、あれ見てくださいよ」彼は習字をしている利用者を指差した。「羨ましいんです。私も、あんな風に書きたい」その言葉を聞いて、私は決意した。何とかして、一郎さんに「書く喜び」を取り戻してもらおう、と。

 

本態性振戦に対する作業療法には、いくつかのアプローチがある。重りをつけて震えを軽減する方法。太いグリップのペンを使う方法。書字台を使って手を固定する方法。でも、一郎さんの場合、どれも完璧な解決策にはならなかった。震えの程度が大きかったからだ。それでも、私は諦めなかった。一郎さん自身も、諦めていなかった。「少しでもいいんです。一文字でも、まともに書ければ」彼の目には、強い意志があった。

 

 

2週間ほど試行錯誤した結果、一つの方法が見つかった。太めの筆ペンを使い、肘を机にしっかりつける。そして、大きめのマス目に、ゆっくりと書く。それでも震えは完全には止まらなかった。でも、以前よりは確実に書きやすくなった。「お、これなら……」一郎さんは、初めて「あ」という文字を書けた時、声を震わせた。歪んでいた。線は震えていた。でも、確かに「あ」だと分かる文字だった。「書けた……書けたんだ」その瞬間、彼の目から涙が溢れた。

 

一文字が書ければ、二文字も書ける。二文字が書ければ、一つの言葉が書ける。私たちは、一歩ずつ進んでいった。リハビリには、明確な目標が必要だ。ただ漠然と「手の震えを止めたい」では、モチベーションは続かない。一郎さんの場合、目標は明確だった。「ありがとうって、書きたいんです」彼は言った。「誰に?」と私が尋ねると、少し照れくさそうに答えた。「妻に、です」

 

 

一郎さんの妻は、毎日彼の世話をしていた。朝食を作り、薬を準備し、デイサービスの準備を手伝う。夕方迎えに来て、夕食を作る。「迷惑ばかりかけてるから」彼は言った。「せめて、感謝の気持ちを形にしたい」その思いが、彼を支えた。毎日、練習した。「あ」「り」「が」「と」「う」一文字ずつ、何度も何度も書いた。最初は読めないほど歪んでいた。でも、少しずつ、文字らしくなっていった。

 

リハビリの効果を最大化するのは、技術だけではない。「なぜそれをやりたいのか」という動機が、何よりも重要だ。一郎さんの場合、「妻に感謝を伝えたい」という思いが、すべての原動力だった。私自身も、脳卒中から回復する過程で、同じ経験をした。「家族に心配をかけたくない」「もう一度、仕事に戻りたい」その思いがあったから、辛いリハビリも続けられた。人は、自分のためだけでは頑張り続けられない。でも、誰かのためなら、信じられないほどの力を発揮できる。

 

 

3ヶ月が経った頃、一郎さんは「ありがとう」という5文字を、なんとか書けるようになっていた。震えは相変わらずあった。線は歪んでいた。でも、確実に読める文字だった。ある日、彼は小さなメモ用紙を持ってきた。淡い黄色の、かわいらしいデザインのものだった。「孫が使ってたやつなんです」彼は言った。「ちょうどいいサイズだったから、もらってきました」

 

その日の午後、一郎さんは最後の練習をした。何度も深呼吸をして、震えを抑えようとした。そして、ペンを握った。ゆっくりと、一画ずつ書いていく。10分ほどかかって、5文字を書き終えた。少し歪んでいた。線も完璧ではなかった。でも、そこには確かに「ありがとう」という文字があった。「できた……」一郎さんは、メモを見つめて呟いた。「これなら、渡せる」

 

その日の夕方、妻が迎えに来た。「お疲れ様」といつものように声をかけた妻に、一郎さんは震える手でメモを差し出した。「これ……」妻は不思議そうにメモを受け取った。そして、文字を読んだ瞬間、動きが止まった。「ありがとう……」妻の目から、涙が溢れた。「あなた、これ……書いたの?」一郎さんは頷いた。「下手だけど。でも、どうしても書きたくて」妻は何も言わずに、夫を抱きしめた。小さなメモ。歪んだ文字。でも、そこには一郎さんの3ヶ月間の努力と、妻への深い感謝が込められていた。

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

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