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白衣のポケットと、届かなかった言葉 −「先生、バスケがしたいです」に正論をぶつけた私の後悔


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:國分厚彦 (ライティング・ゼミ、2026年5月開講・渋谷、4ヶ月コース)

「先生、バスケがしたいです!」

救急外来に、慟哭が轟いた。

突き刺すような鋭い視線で、彼は私達を睨んでいた。

私達は、何も言えなかった。

当直マニュアルで膨らんだ白衣のポケットをまさぐったが、彼に返す言葉はどこにも載っていなかった。

あの日かけるべきだった言葉を、私はいまだに探し続けている。

まだ肌寒い5月のことだった。

当時医学部5年生の私は、大学近郊の病院で実習に励んでいた。

臨床実習の場に出始めたばかりで、実力は伴わないがやる気だけは一人前。自ら志願して、人生で初めての「当直実習」に入った。

「当直って、先生方はどんなふうに過ごしているんだろう。救急現場はどんな緊張感なのだろう」

当時の私は、当直という響きに、めくるめく「オトナ世界」への憧れを抱いていた。

しかし、17時に始まったその世界は、凄惨な戦場だった。

実習に出たての身では、採血も心電図もまともにできない。次々に送り込まれる救急車を、涼しい顔で華麗に捌いていく研修医の先輩。その傍らで、おっかなびっくり心電図の電極を貼るだけの自分。ただ圧倒され、ついていくだけで精一杯だった。

時間は、通過駅を猛スピードで走り抜ける新幹線のように過ぎ去り、気がつけば救急外来の置時計が20時30分を指していた。

「ちょうど一段落したし、飯にしようか」

患者さんがいなくなった救急外来に、束の間の弛緩した空気が流れた。

一緒に当直に入っていた研修医のS先生と医局に向かおうと立ち上がった瞬間、救急外来の電話が鳴り響いた。

「5分後、失神の患者さんが来ます!」

看護師さんの鋭い声が空気を引き締めた。

搬送されてきたのは、17歳の男子高校生だった。部活動の練習中に意識を失ったという。

「先生、心電図撮って」S先生が短く私に言った。

数をこなして慣れてきた手つきで、彼の服を脱がせる。

驚いた。

大胸筋が鋼のように発達し、第4肋骨を指で追うことすら難しい。

「すごい筋肉ですね。何かスポーツを?」

思わず口をついて出た。

「ありがとうございます。バスケをしています」

彼は短く答えた。

190cmはあるだろう長身、刈り上げた髪。風貌からして、バスケ部の中心人物と一目見るだけでわかるような存在感を持った少年だった。

検査の結果、大きな異常は見つからなかった。

だが、運動中の失神である。検査で何も異常がなくても、致死的な心疾患や不整脈の可能性は否定できない。大事をとって「しばらくは安静、バスケは休止」という判断が下された。

説明を聞く彼の顔が、一瞬で曇った。

「先生、明日は最後の大会なんです。3年生で、代わりがいません。明日だけでいい、試合に出させてください」

S先生が静かに、しかし断定的に言った。

「体が大事だよ。もしものことがあったら取り返しがつかないから」

S先生の意見は医学的に問題のない、正論だった。私も隣で頷き、同調した。

しかし、その正論は彼には届かなかった。

「先生、バスケがしたいです! 明日出られないと、僕の3年間は終わりなんです!」

絶叫が救急外来に響き渡った。

突き刺すような視線で、彼は私たちを睨む。その目元は、悔しさで潤んでいた。

この3年間の汗も、涙も、すべてが明日の試合に懸かっていたのだ。その無念が、震える声から溢れていた。

高校3年分の重みが詰まった視線に、私たちは言葉を失った。救急外来には、置時計の無機質な針の音だけが響いていた。

どれくらいの時が経っただろうか。重い沈黙を破ったのは、ベテランの看護師さんだった。

「……気持ちはわかるよ。でも、今は自分を大切にしな。ここで君の人生が終わるわけじゃないんだから」

結局、時計の針が22時を回った頃、彼は母親に連れられて救急外来を去った。

190cmの巨躯が、小さく縮まって見えた。

その後、彼がどうなったかは分からない。ただ、どこかで元気に生きていることを願うしかなかった。

時は流れ、私は医師9年目になった。

総合診療医を目指した時期もあったが、今は訪問診療を経て、外来バイトを掛け持ちしている。理想と現実の狭間で揺れながら、日々患者さんと向き合っていた。

11月のある水曜日だった。インフルエンザが猛威を振るう中、私は内科クリニックで外来業務を行っていた。

診察室に入ってきたのは30代の男性、火曜からの発熱だった。検査を行うと、やはりインフルエンザ陽性。抗インフルエンザ薬を処方し、事務的に診察を終えようとしたとき、彼が不意に言った。

「日曜日に自分の結婚式なのですが、隔離期間、間に合いますか?」

一瞬、思考が止まった。

発症日から計算すると、日曜日はまだ隔離期間内だ。

「医師として」の正解は決まっている。結婚式でインフルエンザウイルスをばら撒くリスクは高く、許容できない。

私は彼に、式の延期を検討し、家族と相談するよう伝え、診察を終わらせた。診察室を出る時、心なしか彼の表情が引き攣っていたことが引っかかった。

「仕方ない。流行状況を考えれば、きっとこれが最適解だ」

自分に言い聞かせていると、横にいた看護師さんがボソッと呟いた。

「……先生は独身だから分からないかもしれないけど、結婚式って、すごくお金も時間もかかってるのよね」

その言葉が胸に刺さった。

あの時の、バスケ部の彼が脳裏をよぎった。

今の私の姿を見て、彼は何と言うだろうか。自分の「正論」で、誰かの人生の彩りを奪ってしまったのではないか。

人の人生が変わる瞬間は、いつも何気ない顔をしてやってくる。

バスケの彼も、結婚式を控えた彼も。私は彼らの人生に土足で踏み込み、「悪役」を演じたのかもしれない。

もちろん、医学的な意味では、いずれも判断は間違っていなかったとは思う。
ただ、言葉や配慮が足りていなかったのだ。
彼の3年間を、彼の結婚式を、私が本当に分かることはできない。
それでも「それは無理です」の前に、「どれほど大事な日だったか」を受け止めることはできたはずだった。それを受け止めるには、あまりにも言葉が貧弱だった。

医師は、人の人生を左右する一言を放つ存在だ。

だからこそ、白衣のポケットを「マニュアル」ではなく、いつか彼らに届けるための言葉で満たしていかなければならない。

今もまだ、彼らにかけるべき本当の言葉は見つかっていない。

しかし、肝に銘じていることがある。

「正論」は、時として凶器になる。

私はあの日、彼の3年間を奪った。

あの男性の結婚式の舞台に影を落とした。

それが必要な判断だったとしても、その痛みを受け止める言葉を、私は持っていなかった。

でも、だからこそ。白衣のポケットを言葉で満たしたい。

「残念ですが」の後に続く、マニュアルにはない、その人の人生に寄り添うための言葉を。

もしあなたが今日、誰かに「NO」を突きつけて心が痛んでいるのなら、その痛みは忘れないでください。誰かを傷つけたかもしれない、という痛みを抱えた人にしか、次に差し出せない優しさがあると思うからです。

《終わり》

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