営業理論は知っているのに、アイスは断れない。出張帰りの新幹線で露呈した、ちゃんとチョロい大人の構造
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:雨宮さよ(2026年1月開講・渋谷/通信・4ヶ月コース)
「アイスクリームはいかがでしょうか」
出張帰りの新幹線。梅雨明けの蒸し暑い日だった。名古屋での商談はうまくまとまり、あとは契約書を整えて印鑑をもらうだけ。条件も着地し、数字も整った。わたしは静かに達成感に浸っていた。
窓の外には夕陽が広がり、車内の冷房はよく効いている。わたしの機嫌も、だいぶいい。一日中、言葉を選び、相手の表情を読み、譲るところと譲らないところを見極めてきた。慎重さを何層にも重ね、余計な一言を飲み込み、うなずく角度まで計算していた。
そんな緊張からようやく解放されたところだった。ふと見ると、車内販売のカートが車両に入ってきた。
最近は車内販売も少なくなったけれど、あの日はまだワゴンが来ていた。わたしはあれが好きだ。席まで来てくれるというだけで、なぜか特別感がある。
あの「いかがですか」という一言には、妙な魔力がある。
ちょうどそのとき、コーヒーが飲みたくなったわたしは、ワゴンを押すお姉さんに声をかけた。その瞬間に理解する。今日はもう、仕事モードには戻れないな。お姉さんの笑顔は、完全にわたしの好きなタイプだった。
さきほどまで条件の裏側まで読んでいた観察力は、いまや別の方向へ向いている。そのときは主に頬と目元に集中していた。
この上品な化粧と笑顔から感じる多幸感は何だろう。目が離せない。わたしは、こんなに単純なのか。コーヒーを受け取ろうとしたところで、追撃が来た。
「ご一緒にアイスクリームはいかがですか?」
営業トークだとわかっている。もう一品どうですかという単価アップ施策だ。その構造は理解している。だが、理解していることと抗えることは別である。
「バニラお願いします」自分の声が、やけに素直だった。
普段なら、今日は結構です、と言う。だがその日のわたしは商談成功後というボーナスタイムに入っていた。達成感は財布のひもをゆるめるし、理性の結び目もゆるめる。わたしは自ら、満足げに単価アップ施策に貢献した。
ワゴンは去り、目の前にはコーヒーと、やけに固いカップアイスが残された。スプーンを刺す。刺さらない。固い。本気で固い。しかしわたしは粘る。さっきまで商談で粘っていたのだ。今度は固いアイスクリームとの交渉である。
ようやく削り取ったひとくちを口に運ぶと、濃い甘さとどっしりとしたコクが広がった。軽やかさとは無縁の、堂々たる存在感。これはもう、乳脂肪の説得力である。わたしは小さくうなずいた。いい。これはいい。
冷たいアイスを口に入れ、すぐにコーヒーをひとくち含む。甘さと苦さ、冷たさと温かさが交差する。その瞬間、ふとひらめいた。このアイスのくぼみにコーヒーを注いだらどうだろう。そう、即席アフォガードである。
コーヒーを慎重に注ぎ、アイスと一緒にすくい上げて口へ運ぶ。その瞬間、わたしは目を閉じた。これは、いけない。甘さと苦さがとろけ、温度差が溶け合う。さきほどまで張りつめていた神経が、一気にゆるむのがわかった。
ああ。わたしはいま、完全に乳脂肪とカフェインに負けている。
さきほどまで理性的な顔をしていた人間が、いまは溶けかけたアイスに心を持っていかれている。判断力は、コーヒーとともにアイスの穴へと流れ込んだ。今日のわたしは、ちゃんと仕事もして、ちゃんとチョロい。
ちなみに、あの瞬間のわたしは真顔だったと思う。外から見れば、静かにアイスを食べているだけの人だ。だが内側では、小さな祝祭が開かれていた。紙吹雪が舞い、拍手喝采である。
人はなぜ、甘いものを前にすると急に寛容になるのだろう。さっきまで気になっていた数字や曖昧な言い回しが、いったん棚に上げられる。アイスクリームには、そういう力がある。そしてわたしは、その力に自覚的に屈する。わかっているのに止まらないところが、いちばんのチョロさだ。
人はなぜ、勧められると買ってしまうのか。勧めてくる人を一瞬信じたくなるからだ。タイプの人ならなおさらである。
最近、広告代理店から有名タレント起用の提案メールが届くことがある。ほとんどは秒で閉じるのに、一度だけ本当に好みのタレントさんの名前があった。その瞬間、わたしは制服を着てにっこり微笑むタレントさんの姿を想像していた。予算より先に、並んで立つ画を思い描いていた。
理性的なわたしが小さく止める。「落ち着け」と。だが妄想のわたしは速い。契約条件より先に、記念撮影の立ち位置を決めている。完全にチョロい。ああ、恥ずかしい。けれど、少しだけ楽しいのだ。
こういうチョロさとは何だろう。それは、まだ世界に反応している証明なのかもしれない。笑顔に揺れ、甘さにほどける。構造を理解しても抗えない。分析しても止まらない。
もしわたしが合理性だけで選ぶ人間になったらどうだろう。笑顔にも甘さにも揺れず、常に最適解だけを選ぶ。無駄は減るだろう。でもきっと、夕陽もワゴンの音もただの現象になる。それは少し、つまらない。
難しい判断を重ねた一日の最後に、これくらい単純でいられる。それは敗北ではなく、回復なのかもしれない。理性で勝ち取り、衝動で祝う。両方あって、ようやく一日が終わるのだ。
きっと次の出張でも、わたしは学ばない。笑顔と乳脂肪とカフェインにまた屈するだろう。まあいい。理性は仕事で使えばいい。甘さには、たまに負けておく。わたしの場合は半分くらい負けるのだが。
明日からも真顔で理性バリバリで仕事はする。けれど同じようなことがあれば、たぶんまた少しだけ揺れる。わたしは、ちゃんと仕事をして、ちゃんとチョロい。
きっと隣の営業マンも、さっきまで難しい顔で数字を詰めていたはずなのに、ワゴンのビールに心を持っていかれているかもしれない。向かいの席のあの人は、期間限定のスイーツに弱いかもしれないし、コンビニの新作おにぎりに抗えない人もいるだろう。もっといえば、推しの新曲、限定モデルのスニーカー、セール最終日の赤い札、タイプの笑顔……
人によって、チョロくなる対象は違う。けれど、一瞬ゆるむという構造はだいたい同じだ。人は案外、みんなチョロい。でもそのチョロさで、ちゃんと一日を乗り切っている。そう思うと、少しだけ安心する。
新幹線の窓の外はすっかり暗くなっていた。わたしは空になったカップを見下ろす。理性は今日もちゃんと働いた。わたしは、ちゃんと仕事をして、ちゃんとチョロかった。きっと隣の営業マンも同じだろう。≪終わり≫
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