自分にOKを出せなかった― 気温45度の街で、私が「花丸」を拒んだ理由 ―
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:村井ゆきこ(ライティング・ゼミ 11月開講コース)
「今日の気温だったら、生きているだけで花丸だね!」
そう友達は言った。
インド、デリーの6月。気温は45度を超えていた。
昼間は外に出るだけで体力を奪われる。車から店までのたった十数歩でも、後頭部を照らす直射日光が痛くて、小走りにならざるを得ない。抱っこ紐の中の子どもが眩しくないように、片手で日陰をつくる。
蛇口をひねれば、水ではなく熱いお湯が出る。停電でも自家発電が助けてくれるが、その自家発電機さえも壊れたときは、5分とじっとしていられない。命の危険を感じて、子供を抱え、ドライバーに「今すぐエアコンマックスで!」と連絡し、車へ飛び込む。ショッピングモールへと避難する。そんな極限の日常があった。
今日はもう生きているだけで花丸だよ、と笑う友達に、私はどうしても頷けなかった。いるだけで合格なんて、そんな甘っちょろいこと言っていられない。心の奥底で、頑なに自分を拒絶していた。
何か一つでも、役に立つことをしなければならない。
1日に1個くらいは、意味のあることを積み上げなければならない。
そうでなければ、今日という日は「何もしていない日」になってしまう。
夫の海外赴任に帯同して過ごした4年半。最初の1、2年のときの私は、自分専属の「鬼上司」だった。
英語を習得し、何か資格を取り、この帯同期間を「履歴書に書ける空白のない時間」に仕立て上げなければならない……。そんな焦燥感に突き動かされていた。
周りの人は「頑張ってるね」と言ってくれていた。夫も「今日は暑かったね、大丈夫だった?」と労ってくれた。でも私の中の鬼上司は、そんな言葉を一蹴した。
「それくらい当然だ。もっとできる。まだ余力はあるはずだ」
夫はただ「暑い中ありがとう」と言ってくれていた。それだけで十分だったはずなのに、私はその感謝を素直に受け取れなかった。
「それくらい普通だよ」と笑って流しながら、心の中では「まだ足りない」と自分を採点し続けていた。
45度の中で買い物に行っても、当たり前。
子どもを一日無事に過ごさせても、当然。
特に、私の長男はとても育てやすかった。手がかからないからこそ、母親としての私の役割がどこにあるのか分からず、余計に焦った。
家にはメイドさんがいた。家事の負担は減るはずなのに、最初の1年くらいは、私は彼女が来る時間になると、なぜかすくっと立ち上がった。ソファでくつろいでいるところを見られたくなかったのだ。
何もしていない人だと思われるのが、怖かった。 彼女が掃除をしてくれている横で、あえて忙しそうに書類を片付けたり、不要な片付けを始めたりしたこともあった。
彼女は家を支えてくれる大切なパートナーで、私が夕飯を作っているときは子どもと本気で遊び、第二のママのように寄り添ってくれる人。なのに、私は心のどこかで「うちのことなのに頼んでごめんね」と罪悪感を抱き、自分の存在意義を必死に証明しようとしていた。
今日、私は何を生み出しただろう。 その問いに答えられない午後は、重苦しい空気に支配された。 生きているだけで花丸、なんて、当時の私にはあまりに遠い言葉だった。
しかし、知らぬ間にその“鬼上司”の声は、少しずつ小さくなっていった。 きっかけがあったわけではない。インドの「ままならなさ」に、体が降参したのだと思う。 約束より10分遅れて業者が来れば「早いね!」と喜べるようになり、停電になれば「暑いから休もう」と諦めがつくようになった。
「夕飯は、私の手作りでなければならない」 そんな呪縛も、少しずつ解けていった。どうしても動けない日は、近所のレストランでほうれん草のカレーとチャパティを買ってくる。スパイスの香りに包まれながら家族でそれを囲むとき、手作りでないことへの罪悪感よりも、「今日もみんなで笑って食べている」という事実のほうが大切だと思えるようになった。
「雇用を生んでいるし、そのおかげで自分たちは生きていけるんだよ」
欧米やインドの友人たちが口にしていた言葉が、ようやく腹落ちした。私はメイドさんに仕事を依頼することで、彼女の生活を支えている。彼女に頼ることで、私は私でいられる。
メイドさんが来ても、堂々と本を読めるようになった。ソファに座ったまま「おはよう」と言える日が増えた。何も予定のない午後に、子どもとただ床に寝転ぶ。
その日の「成果」を数えない日が、少しずつ増えていった。
ある日ふと、
「この45度の街で、私は十分やっているなぁ」
と気づいた。
足りなかったのは努力でも役割でもない。
ただ、自分に合格を出すことだけだった。
あの頃の私は、「花丸」を成果に対して出すものだと思っていた。何かを達成したとき、誰かの役に立ったとき、初めて与えられる報酬だと。 でも、あの45度の街での毎日は、達成よりも「回す」ことの連続だった。 子どもを無事に一日終わらせる。夫と夕飯を囲む。翌朝を迎える。 それだけで精一杯のこともあったけれど、それでも、その日はちゃんと一日だった。
あのときは受け取れなかったその言葉を、今は、ようやく受け取れる。
45度の街で、汗だくになりながら子どもと買い物袋を抱えていた私にも。
ソファで罪悪感と向き合っていた私にも。
あの日も、生きているだけで十分な一日だった。
≪おわり≫
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