コーヒーの向こう側
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:河本 和代 【2026年4月開講・京都/通信・2週間集中コース】
※この記事はフィクションです。
学生時代の恩師のひとりが、無類のコーヒー好きだ。その恩師が、自家焙煎の話をされたのは、20年ほど前だったと思う。
最初は手網焙煎だった。網の振り方、炎からの距離、焙煎時間など自身でコントロールするおもしろさがあるものの、一律に火を入れるのは存外難しいとの話だった。「チャフ」といわれる薄皮が、かなりの範囲に散らばることも、そこではじめて知った。恩師のロースターはどんどん進化し、会うたびいつも嬉しそうにコーヒーの話をされた。わたしも、いつかやってみたいと思いながら、憧れのままに日は過ぎた。
年に一度、恩師を含め馴染みの面々が集まる機会がある。そこに恩師のコーヒー豆が差し入れられ、皆で味わうのが楽しみの一つになっている。
「生活をアウトソーシングしない」
ある時、恩師がそう話した。
例えば、クリーニング。素材によってはホームクリーニングできない衣類もあるが、そういうものは極力買わず、家で手入れができるかどうかを見てから買う。料理をアウトソーシングしないとなれば、自炊すればよい、ということになるし、自家焙煎も然り。自分の好みのコーヒーを、自分で炒って淹れるといいじゃないか、という話だった。
肩肘張らず、きちんと暮らす知恵に触れた気がして、そのこともずっと記憶に留まっていた。
自家焙煎の話を何度聞いた後だったか、ついにわたしもホームロースターを手に入れた。上級者の恩師のとは違い、我が家に迎えたそれはコンパクトなサイズで、一度にローストできる豆の量は多い方ではない。
恩師に倣い、ネットショップで買った生豆を初めて開けたとき、青臭い匂いが漂ったのには驚いた。くすんだ薄緑色の豆は、芳醇な香りとは程遠く、それでいてまだ水分を含んでいるためか、見た目よりしっかりと重量を感じさせた。
ロースターの取説を見ながら電源を入れる。想像より大きめの音と共に焙煎が始まった。熱風に噴き上げられ、掻き回され、少しずつ豆の色が変わる。そのうちに豆の爆ぜる音がして、わたしはワクワクしながら見守った。
部屋中に香ばしい香りが充満する。炒られていくと、青臭かった豆がこんなに強い香りを放つのだと、また驚いた。
粗熱が取れ、一回り大きくなった褐色の豆を見つめながら、たまらず一杯分の豆を挽く。立ち上る香りを胸いっぱいに吸い込んだ。恩師が自家焙煎の楽しさを説き、皆に勧めていたのはこういう気持ちであったのかと思った。
炒りたての豆ではあったが、ストレートで味わう一杯は、至福の時間だった。
「ホームロースターって楽しいのよ」
数日後、炒った豆を持参して友人宅を訪ねた。
この友人とは味の好みが近く、食べ歩きにも時々出かける。わたしの影響で友人がよく食べるようになったものもあれば、その逆もある。友人は食べっぷりがよく、見ていても気持ちがいい。
炒った豆の香りを確かめるように鼻を近づけた後、すぐにキッチンでコーヒーを淹れてくれた。
「うん、うまいね」
カップの中のなめらかなコーヒーオイルに目を落としながら友人がつぶやく。
わたしは、「だよね」と相槌を打ちながら、何かが違うと感じていた。
「なんかさ、いつもと違うんだよね」
わたしは友人の方を見ずに言った。
うまいのだ。自分が淹れた一杯よりも。
自家焙煎のおもしろさを伝えに来たのだが、正直なところそれどころではなくなっていた。何が違うのだろう。昨日、家で炒った同じ豆なのに。
「ね、これどうやって淹れたの?」
「え? 普通に。沸騰したばかりのお湯じゃない方がいいって言うよね」
特別な道具というわけでもなかった。電動のコーヒーミルとドリッパー、ゆるゆると湯を注ぐ用の小さなケトルがキッチンに残されていた。
次に友人宅を訪れたときも、わたしはまた焙煎した豆を持っていった。
「またおいしいのを淹れてよ」
わたしはキッチンでコーヒーを淹れる友人を何気なく見ていた。動作に特別なところがあるわけではない。だがわたしは気がついた。友人の、コーヒーを淹れる所作は、なんというか美しいのだ。
最初のひと差しの湯で、蒸されて膨らむ豆への眼差しや、二人分のコーヒーが満ちたサーバーからドリッパーを外す仕草を眺めていると、「静謐」という言葉が浮かんだ。友人がそのとき何を思っていたのか、わたしは尋ねなかった。
「やっぱりおいしいね」
友人はやわらかな眼差しのまま言った。そうだね、と答えながらわたしは、いつかの恩師の言葉を思い出していた。
「生活をアウトソーシングしない」
あれは、なんでも自分で完結するという意味ではなかった。自分の暮らし、食事も遊びも全部、味わうには自分の手を使うとおもしろいということではなかったか。
おいしいコーヒーを淹れる。それは自分や一緒に過ごす誰かを思うこと。その瞬間を、この友人は軽んじたりしないのだ。
褐色の、世界中で愛されるこの飲み物は、ただの飲料ではない。たくさんの人の手を通して今ここにある。そしてそれは、わたしを囲むあらゆるものに言えることだ。
クリーニングも外食も、ありがたく利用し、大いに楽しもう。
そしてわたしは、せっせと焙煎し、おいしいコーヒーと美しい所作を眺めに、今日も友人宅へ向かうのだ。わたしは少し、至福の時間の味わい方に近づけているのかもしれない。
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