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「頑張って」って言わないで《週刊READING LIFE Vol.363「頑張って」って言わないで」》


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:飯田久枝(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

 スマホの画面の中で、カーソルが点滅している。

 「頑張って」と打った。打った瞬間に、消した。

 

 友人から、独立する、と連絡が来ていた。長く勤めた会社を辞めて、独立・起業するのだという。決めるまでにどれだけ迷ったか、私も相談を受けていた。何年も、辞めたいと言いながら辞められず、辞められない理由を一つずつ片づけて、それでようやく、ここまで来た人だ。

 

 家族のこと。お金のこと。年齢のこと。これまで積み上げてきた肩書きを手放す怖さ。周囲から「もったいない」と言われることへの小さな痛み。新しい名刺を持つうれしさと、明日から本当に自分の足で立つのだという不安。その全部を抱えて、ここまで来た人だ。

 

 その人に、「頑張って」。

 

 指が止まる。この人は、もう、十分すぎるほど頑張ってきた。これ以上、何を頑張れというのだろう。送ろうとした言葉が、急に、その人がここまで払ってきたものを何も見ていない言葉に思えて、私は文字を消した。

 

 空っぽになった入力欄を、しばらく見ていた。

 いったん、アプリを閉じる。

 

 別のトーク画面を開く。こちらは、来週、検査を受ける友人。結果次第では、と本人は軽く書いていたけれど、軽く書いていることが、かえって伝わってきた。軽い言葉で包まなければ、こちらが受け取れないほどの不安が、そこにある気がした。

 

 何か、送りたかった。大丈夫だよ、と言いたかった。でも、何が大丈夫なのか、私には何もわからない。検査をするのはその人で、結果を引き受けるのもその人で、私はただ、こちら側で待っていることしかできない。

 

 ここでも、「頑張って」と打ちかけて、やめた。

 

 頑張るって、何を。耐えることなら、その人はもう、十分に身構えている。私の「頑張って」が背中を押せる場所なんて、どこにもなかった。

 

 一晩のうちに、二度。同じ一語が、別々の相手の前で、するりと滑り落ちた。

 

 いつからか、「頑張って」という言葉を安易に使うのが憚られるようになった。

 

 頑張れと言ってはいけない、と聞く。もう十分に頑張っている人に、これ以上頑張れと言えば、張りつめた糸が切れてしまう。追い詰められて、心を病んでしまう人もいる。だから、軽々しく言ってはいけないのだ、と。

 

 それは、わかる。痛いほど、わかる。

 

 でも、と思う。

 じゃあ、何なら言っていいのだろう。「頑張って」が危ないなら、「楽しんで」なら安全なのか。「無理しないで」なら傷つけないのか。「応援しています」なら正解なのか。

 

 言葉には、正解表がない。相手の状況、関係性、受け取るタイミングによって、同じ言葉でも温度が変わる。昨日ならありがたかった一言が、今日には重くなることもある。こちらはやさしさのつもりでも、相手には命令に聞こえることがある。言葉は、出した側の意図だけでは完成しない。受け取る側の体力や心の余白によって、形を変えてしまう。

 

 だから、難しい。

 

 英語なら、と思う。新しいことに踏み出す人には Good luck と言える。少し砕けて、You got this とも、Have fun とも言える。心配な人には Take care、苦しい最中にいる人には Hang in there。場面ごとに、相手ごとに、ちゃんと別の言葉が用意されている。それぞれが、少しずつ違う方向を向いている。幸運を祈る。君ならできる。楽しんで。無理しないで。持ちこたえて。

 

 日本語にも、もちろん、それらに当たる言葉はある。あるけれど、私たちはいつのまにか、その大半を「頑張って」の一語に集約させてきた。送り出すときも、励ますときも、心配なときも、かける言葉に詰まったときも、とりあえず「頑張って」。幸運を祈ることも、君ならできると信じることも、無理しないでと案じることも、全部まとめて、あの五文字が引き受けてくれていた。

 

 便利だった。便利すぎた。

 

 朝、子どもを学校へ送り出すとき。「テスト、頑張って」。

 仕事に向かう夫や妻に。「今日も頑張って」。

 手術を受ける人に。「頑張って」。

 転職する人に。「頑張って」。

 失恋した人にも、介護で疲れている人にも、病気の人にも、受験生にも、起業する人にも、つい「頑張って」。

 

 もちろん、そこに悪意はない。むしろ、ほとんどの場合は善意だ。何か言いたい。力になりたい。応援していると伝えたい。でも、何と言えばいいかわからない。だから、手近なところにある「頑張って」を差し出す。

 

 差し出した側は、言えたことで少し安心する。けれど、受け取る側はどうだろう。

 

 もし、その人がもう限界まで働いていたら。

 もし、その人がすでに十分、自分を責めていたら。

 もし、その人が「これ以上、何をすればいいの」と、布団の中で天井を見つめている夜だったら。

 

 そのときの「頑張って」は、応援ではなく、追加の荷物になる。

 

 そうやって考えると、見えてくる。問題は、単語じゃない。「頑張って」という五文字が悪いのではない。その五文字を、相手をよく見もせずに、励ました気になって送ってしまう。その手つきの方なのだ。

 

 私自身、「頑張って」と言われて嬉しくない時がある。浅い言葉に聞こえる。軽んじられていると感じることもある。

 

 とくに、自分なりに歯を食いしばってきたことを、相手が何も知らないときほど、そう感じる。「頑張って」と言われた瞬間に、心の中で小さく反論している。

 

 頑張っている。

 もう、頑張っている。

 これ以上何をしろと言うのだ。

 

 けれど、声には出さない。相手に悪気がないこともわかっているからだ。だから、こちらは黙って、その言葉を受け取ったふりをする。そうして、言葉にならない小さな疲れだけが残る。

 

 「頑張る」という言葉の成り立ちを、調べてみた。

 

 諸説あるけれど、有力なのは「我に張る」、つまり我を張る、意地を通すという言葉が変化したという説だ。もう一つ、「頑な」の「頑」を当てて、頑なに踏ん張る、というニュアンスもある。どちらにしても、根っこにあるのは、ぐっと力を込めて、退かずに、こらえる。そういう身ぶりだ。

 

 もともと、励ましの言葉ではなかった。慰めの言葉でも、ねぎらいの言葉でもなかった。「頑張る」は、最初から、耐えることだった。

 

 そう知って、腑に落ちた。

 

 独立する友人に、私の「頑張って」が滑り落ちたのは、あの人がもう、十分すぎるほど耐えてきたからだ。これ以上、何にこらえろというのか。検査を控えた友人に滑り落ちたのは、こらえることでは、どうにもならない場所に、その人が立っていたからだ。耐えたって、結果は変わらない。

 

 同じ一語が、別々の理由で滑り落ちたように見えて、芯は一つだった。私は二人に、「耐えろ」と送ろうとしていたのだ。もう耐えている人に、耐えても仕方のない人に、よりによって、耐えろ、と。

 

 ふだん、私たちはその意味を、すっかり忘れている。使い古されて、手触りが消えて、ただの「応援する言葉」の顔をして、口から出ていく。けれど、言われた側の心が弱っているとき、すり減った表面の下から、もとの硬い芯が、ふいに顔を出す。

 

 耐えろ。まだ足りない。もっと踏ん張れ。

 

 最近、「頑張って」が急に重く聞こえるようになったのは、世の中が過敏になったからではなくて、たぶん、この言葉がずっと隠し持っていた重さに、私たちがようやく気づきはじめたからだ。

 

 では、何と言えばよかったのか。

 

 正直に言えば、いまでも、正解は持っていない。「頑張って」に代わる、これさえ言えば間違いない、という魔法の一語は、たぶん、どこにもない。「楽しんで」も「無理しないで」も、相手を見ないまま口にすれば、結局は同じように滑り落ちる。言葉を入れ替えれば済む話では、なかったのだ。

 

 「無理しないで」だって、相手によっては残酷だ。無理をしなければ回らない人に向かって言えば、「では誰が代わってくれるのですか」と言いたくなるだろう。「楽しんで」も同じだ。楽しめる余白がある人には軽やかに届くけれど、怖さのただ中にいる人には、明るさを強要する言葉になるかもしれない。

 

 「大丈夫」も、万能ではない。大丈夫ではない人に向かって、何の根拠もなく言えば、その人の現実を薄く塗りつぶしてしまうことがある。

 

 言葉は、便利な道具であると同時に、雑に扱えば鈍い刃物にもなる。

 

 だからこそ、必要なのは、正しい単語を暗記することではない。いったん止まることだと思う。

 

 相手は今、何をしているのか。

 何を恐れているのか。

 何をすでに背負っているのか。

 私の言葉は、背中を押す方がいいのか、横に座る方がいいのか。それとも、何も言わずに、ただ待つ方がいいのか。

 

 たった一言を送る前に、そこまで考えるのは面倒くさい。実際、面倒くさい。忙しい日常の中で、毎回そんなことをしていたら、返信が遅くなる。気の利いた言葉も出てこない。既読をつけたまま、画面の前で固まることになる。

 

 けれど、その面倒くささの中にしか、本当の言葉はないのかもしれない。

 

 ただ、一つだけ、わかったことがある。

 

 あの夜、私が「頑張って」を打っては消し、また打っては消して、空っぽの入力欄を見つめていた、あの時間。語彙が足りなくて、間が持たなくて、気まずかった、あの数分。あれは、無駄な時間ではなかった。

 

 あれはたぶん、私が、その人のことをちゃんと見ていた時間だ。

 

 この人は何に迷ってここまで来たのか。いま何を抱えているのか。私の言葉は、この人のどこに届いて、どこには届かないのか。「頑張って」の一語で済ませていたら、考えずに済んだことを、消したからこそ、考えていた。

 

 指が止まっていたあの間は、相手を見ないまま送り出すことを、自分に許せなくなった時間だったのだ。

 

 だとしたら、詰まってしまっていい。すぐに言葉が出てこなくて、いい。その不格好な沈黙の方が、すらすら出てくる「頑張って」より、よほど誠実なときがある。

 

 私は、独立する友人に、こう送った。

 

 「これからを楽しみにしています」

 

 頑張れ、ではなく。あなたがこれから作っていくものを、私は見ていたい。応援席から大声で号令をかけるのではなく、その先にある景色を一緒に楽しみにしていたい。そういう気持ちだった。

 

 耐えろと背中を押すのではなく、その人が自分で選んだ道の先に、私は静かに立って待っている、と。

 

 検査を控えた友人には、こう送った。

 

 「無事を祈っています」

 

 結果はわからない。でも、私はあなたの側にいる。あなたが元気な顔で「また飲みに行こうよ」というのを待っている。その気持ちを、短い一言に込めて、送った。

 

 完璧な言葉ではない。きっと、もっといい言い方が、どこかにあったと思う。あとから読み返せば、気恥ずかしくなるかもしれない。相手にどこまで届いたのかも、わからない。

 

 でも、少なくとも、私はその人たちをひとまとめにしなかった。独立する人と、検査を待つ人を、同じ「頑張って」の箱に入れなかった。それぞれの前で、いったん立ち止まった。

 

 それだけで、言葉は少しだけ、その人の方を向く。

 

 人を励ますことは、案外、難しい。こちらが思うほど、簡単に人は励ませない。言葉一つで誰かを救える、などと思うのは、少し傲慢なのかもしれない。

 

 それでも、私たちは言葉を送る。何もできないからこそ、言葉を探す。役に立つかどうかわからない一言を、画面の向こうへ差し出す。

 

 そのとき大切なのは、立派な言葉を選ぶことではなく、相手を想うことと思う。

 

 頑張って、と言わない。

 少なくとも、何も考えずには言わない。

 

 その代わりに、少し黙る。少し迷う。少し不器用になる。

 

 画面の中で点滅していたカーソルが、ようやく前に進んだ。「頑張って」を消したあとに残った、その人のためだけの、不格好な一言を乗せて。

 

 

 

 

 

 

 

 

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