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水銀の血圧計と、紙カルテが教えてくれたもの

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:國分厚彦 (ライティング・ゼミ、2026年5月開講・渋谷、4ヶ月コース)

先日、関東某所にある診療所へバイトに行った。

医師一人で切り盛りする「1診制」のクリニックで、院長先生の代診だった。

応募したときには気づかなかったが、いざ現場に入ってみると、そこは驚くほど「アナログ」な世界だった。

カルテは今どき珍しい紙カルテ。検査データや紹介状も、ファイルの中に無造作に綴じられている。

血圧計は水銀式で、加圧カフ(腕帯)のネジを自分で調節するタイプ。使い始めはネジが硬く、測定に手間取ってしまった。

レントゲンの位置合わせも自分で行い、薬は院内処方。ダブルチェックまで医師の仕事だ。さらに、処方できる薬の種類も限られていた。

スポットで入る医師には、初めての環境でも即座に適応する能力が求められる。

それなりに場数は踏んできたつもりだったが、ここまでアナログな環境は初めてだ。データの把握に時間はかかるし、血圧ひとつ測るのも苦労した。私は正直、辟易していた。

研修医時代から、私は電子カルテがある環境で育ってきた。

クリック一つで採血データもレントゲン画像も現れる。処方箋も一瞬で発行できる。

これまで、バイト先の電子カルテが使いづらくて内心イライラしたこともあったが、それらがいかに便利で恵まれた環境だったかを痛感した。

半ば「恨み節」を心の中で唱えながら、外来をこなしていた。

そんな状況で診察を続け、ようやく午前中の最後の患者さんがやってきた。

半日勤務なので、この診察が終わればやっと帰れる。

幸い、この日は定期受診の患者さんが数人来る程度で、多少時間がかかっても大きな支障はなかった。

その最後の患者さんは、本来は薬の継続のみで、診察なしの予定だった。

カルテに指示を書き、事務に回して帰り支度を始めようとしたその時、「血圧を測ってほしい」と言われた。

私は内心の苛立ちを隠しながら、ひとまず患者さんを診察室に呼び入れた。血圧を測り、「問題ないので、いつものお薬を飲んでくださいね」とだけ伝えて、早々に切り上げた。

自分でも、そっけない対応だったと思う。

それなのに、患者さんはニコニコと穏やかな表情を浮かべていた。

去り際に「ありがとう」と一言言い、笑ってドアを出ていったのだ。

あんな対応で「ありがとう」だなんて、随分といい人だな……。

そう思いながら、ふと、それまで診察した患者さんたちの顔を思い出した。みんな心なしか、表情が柔らかかったことに気づいたのだ。

その時は「高齢の患者さんは、若い先生に診てもらえるのが嬉しいのだろう」程度に考えていた。

私は、決して会話が得意な方ではない。愛想がいいタイプでもない。

診察だって、体調を聞いて、心音と呼吸音を聴診し、いつもの薬を出すだけ。他のバイト先と変わったことは何もしていない。

唯一違ったことといえば、紙カルテで情報が取りづらかったから、「いつもより患者さんの方を向いて話していたこと」、そして、「水銀計を使って、自分の手で血圧を測ったこと」だけだ。

そこまで考えて、一つの仮説に思い至った。

もしかしたら、血圧を一つひとつ手で測ったから、みんなニコニコしていたんじゃないだろうか?

以前読んだ『また来たくなる外来』という本に、「いつも心に『施し』を」という言葉があった。主に「対症療法」を指してそう呼んでいた気がするが、もしかすると、このアナログな血圧測定も一つの「施し」になっていたのかもしれない。

医者が自らの手で血圧を測ること、それが、患者さんへの「施し」になる。

これはアナログな診療ならではの「妙」なのだろうか。

効率的な電子カルテベースの診療なら、次の患者さんに追われ、こんな温かみを感じる暇もなかったはずだ。

そして、もう一つ気づいたことがある。

診療を終えた私自身の心も、どこか癒やされていたのだ。

スケジュールにゆとりがあったせいもあるだろう。だが一番の理由は、患者さんの表情を、つまり「顔」をしっかり見られていたことだと思う。

情報が整理されていない紙カルテだったからこそ、必然的に患者さんと向き合う時間が増えていたのだ。

普段、電子カルテで仕事をしていると、膨大な情報が飛び込んでくる。

特に忙しいクリニックでは、「早く捌かなければ」という焦りと、「情報を落としてはいけない」というプレッシャーに駆られる。結果、問診中も画面を向いたままになりがちだ。

情報が入れづらい「紙」という不便な形式が、「患者さんの方を向く」頻度を増やし、患者さんの満足度を高める「対話」を生んでいた。

電子カルテや自動血圧計は、非常に便利だ。

過去の記録を一目で見渡し、血圧も自動で弾き出される。一人あたりの診療時間は格段に短縮できるだろう。

しかし、効率を突き詰めた診察は、時として無機質なデータの確認作業になり、そこにあるはずの「施し」は忙しさに潰されてしまう。それが結果として、医師・患者双方のストレスに繋がっているのかもしれない。

アナログに、手間ひまをかけて診察すること。

一見非効率に見えるそのプロセスが、温かみのある診察、ひいては医師としてのやりがいを支えている。

「アナログな診療は、一つの施しなのかもしれない」

そんなことを考えながら、私は診療所からの帰り道を歩いた。

《終わり》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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