89歳のシャドーボクサー
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:吉田倫子(ライティングゼミ・2026年5月開講)
「庭を直すことにした。私の預金、四十万円ほどあったな」
89歳の母にそう言われた瞬間、私の心中は穏やかではなくなった。
四十万円?
一畳ほどの小さな玄関先の庭に?
高齢者を狙う詐欺の話ではないかとさえ思った。
腑に落ちなくて、怒りは収まらない。
眠れないまま翌朝早く、私は工務店へメールを送った。
「申し訳ありませんが、四十万円も出せません」
あとは返事を待つだけだ。
その日の昼過ぎ、工務店から電話がかかってきた。
「お風呂の排水の件で伺った際に、お庭の話をされたんです。これから見積もりを取ろうと思っていたところでした。十万円くらいでしょうか」
私は慌てた。母が言った「四十万円ほどあったな」は工事代金ではなく、預金残高の話だったのである。私は勝手に思い込み、勝手に腹を立てていた。
ああ、またやってしまった。
シャドーボクシング。
自分で勝手な相手を作り、自分で構え、自分で戦っていた。
もっとも、その勘違いにも理由はあった。
母は昔から、お金を使って人間関係を整えようとする人だった。
父の葬式のあと、母は言った。
「葬儀屋さんに少し余分にお金包んだら、よう動いてくれはった」
私が母のかかりつけ医に会うことになったときには、
「初めて会うなら一万円ぐらい包まんと」
とも言った。
人はお金で動く。それが母の世渡り術だった。家事もお金のことも抜かりなくこなし、人に軽く見られないよう、いつも気を張っていた。
そんな母も最近は、認知症のせいか、お金と人との関係が少しずつ噛み合わなくなってきた。
実家へ行くと、
「うちに届けられるお米、おいしいわ。あんたにも分けたろか」
もちろん一度も回ってきたことはない。その米穀店への支払いを忘れ、長年続いていた「おいしいお米」の暮らしも途切れた。
それでも、自分の味方になってもらおうとするかのように、ケアマネジャーさんへの手土産の用意だけは忘れない。近くで用意できないと、往復タクシーで漬物を買いに行ったこともある。けれどその日はケアマネジャーさんが来ず、残ったのは母一人では食べきれない量の漬物だけだった。
私は代わりにそれを持って帰ると同時に、少し切なくなった。
お金を余分に包むことも。
手土産を持たせることも。
漬物を買いに走ることも。
母なりに、人との縁が切れてしまうことへの恐怖と戦っていたのかもしれない。
自分の作り出した恐怖に向かって拳を振り続ける。
シャドーボクシングのように。
実家の冷蔵庫の中に使いきれない腐ったニンジンやコマツナが目立つようになり、私は母のお金に制限をかけた。もう母は、お金を自分の代わりに走らせることはできない。
それでも母の周りから人は離れなかった。
月二回の公民館での歌の稽古で、楽譜を忘れて帰っても、友達は当たり前のように届けてくれる。工務店の人も、今まで世話になっているからと無料で修理してくれる。
母がお金でつなぎ止めようとしてきたものは、お金がなくても、ちゃんと残っていた。母が気づかないうちに築いてきたものは、手土産や心づけではなく、長い年月の中で育ててきた信頼だったのだ。
この前も、母が診察日をすっぽかしたため、改めて病院へ付き添ったことがあった。
手違いも重なり、一時間以上待たされた。仕方ない。こちらも約束をすっぽかした前科がある。
診察が終わったあと、近くの喫茶店へ入った。注文したものを少しずつ分け合って食べる。
窓の外を眺めながら、
「待たされる時間が、もったいなかったな」
私は何も答えなかった。
母はコーヒーを一口飲む。そして、壁の絵を見ながら、
「けど、この絵は、いまひとつやな」
意地悪く突っ込む昔の母は、まだちゃんと残っていた。
それでも、
「このコーヒー、だんだん最後のほうが甘くておいしいな」
きっと砂糖がちゃんと溶けていなかったのだろう。母は満足そうに笑った。
その笑顔は、待たされた時間への不満よりも、目の前の小さな幸せを味わっているように見えた。以前の母なら、待たされたことへの腹立ちばかり口にしていた気がする。
そんな母が今になって、
「庭を少しきれいにしたい」と言う。
引っ越してきてから六十年間、庭はずっと今のままだった。
花を植え替えたいとも、石を動かしたいとも、一度も言わなかった。
それを今さら直したいという母の気持ちを、私ははかりかねていた。
人との縁をつなぎとめるために、お金という鎧を着続けてきた母が、今になってようやく、自分のための願いを口にしたのだ。
その願いは大きな夢ではない。ただ、毎日目にする庭を少しだけきれいにしたいという、小さくて静かな願いだった。
それなのに私は、四十万円を庭につぎ込むのだと思い込み、誰も何も言っていないのに勝手に敵を作って、騒いでいた。
八十九歳のシャドーボクサーは母だと思っていた。
どうやら違ったらしい。
母はもう引退した。
まだ拳を握っているのは、私のほうだった。
《終わり》
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