失って 残るもの
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:きんもくせい(2026年8月開講 ライティング・ゼミ福岡)
「ねぇ ぼくの住所ってどうやって書くの?」
住所の書き方なんて。突然聞かれても返事に困ってしまう。
「自分の住所を知りたいの?」
「それとも、住所はわかっているけれど書き方がわからないの?どっち?」
と逆に質問を返すと、しばらく考えてから、
「ぼくね、親友を家に招待して一緒に遊びたいんだ」
と、こちらを見ずに、何かを一生懸命書きながら答えた。
なるほど、この子には大好きな友達がいて、その友達と遊ぶための招待状を書いているのか。けれども、住所を伝えたところで、お友達が本当に遊びに来てくれるのか。親友と思っていても、相手はどう思っているのかわからない。そもそも、お互いの家を行き来するにはまだ幼すぎる。勝手に招待なんてしたら、家の人は困るだろうな……とあれこれ考えていると、
「あぁ、わかった」
と、書くことをやめて顔をあげ、自分の名札を取り出した。名札には、自宅の住所が記されている。
そして、そこに書かれている住所を書くと、
「できた」
と、完成した招待状をもって教室を出て行った。
良かった……私は小学校教員。何かあった時のことを考えると面倒なので、この子が住所の書き方を自分で解決したことにホッとした。
そして、この出来事を再び思い出したのは、長崎県の波佐見町まで出かけた翌日のことだった。
波佐見町は、長崎県の内陸に位置する焼き物で有名な町だ。焼き物といえば、佐賀県の有田町が有名だが、波佐見の焼き物は良いと聞くので以前から行きたいと思っていた。
波佐見町に入ると町のあちこちに窯元の看板があり、『波佐見やきもの公園』のショップには、たくさんの陶器が並べられていた。
「今日は、コーヒーカップを買って帰ろう」
と言いながら、夫と商品をひとつずつ手に取り、最初に良いと思ったコーヒーカップを買うことにした。その後は、昼食に地元の情報誌で紹介されていたファミリーレストランで、トルコライスを食べることにした。そして、
「せっかくだから……」
とミルクセーキとホットコーヒーも注文した。出てきたトルコライスは、「とんかつ」と「ピラフ」と「サラダ」が山盛りに盛り付けられていて、量が多く十分においしく食べることができた。
「早めにお店に入ってよかったね。混んできたよ」
と、食後のコーヒーを飲みながら夫が言う。確かに、空席が多かった店内はお客で埋まっている。
それにしても、注文したはずのミルクセーキが出てこない。テーブルに置かれた伝票を確認してみると、残念なことにミルクセーキは入っていなかった。仕方なく、私たちはそのまま会計を済ませ店を出ることにした。
すっかり満腹になって、車で移動しながら、
「この前さ、長崎市内に行った時もトルコライス食べたんだよね。その時も、ピラフととんかつと、ナポリタンと……。あらっ?今日のトルコライス、ナポリタンなかったね」
と話しながら、私はトルコライスにパスタがなかったことに気が付いた。トルコライスを調べると、かつとピラフとパスタが一緒に出てくると説明してある。確かに、食べながら、トルコライスの3点セットを考えたとき『何だったっけ?』とは思ったけれど、サラダがあまりにも堂々と盛られていたので、とんかつとピラフとサラダで納得してしまったのだ。
「でも、まあいいか」
と、腹を立てることはなく、むしろ、出てこなかったミルクセーキを改めて飲むことの口実ができて私は少し嬉しかった。
ところで、波佐見町は焼き物の町と思っていたが、実際に訪れると『鬼木の棚田』の案内表示があちこちで目についた。『鬼木』という地名も『棚田』も私には珍しく、少し怖くて、見てはいけない気もした。けれど、妙に気になるので行ってみることにした。すると、そこには、今まで映像でしか見たことのない景色が広がっていた。棚田を見ながら斜面をゆっくりと登ったところには、透き通った水が湧いており、その湧き水が棚田を潤していることは容易に想像できた。真夏の青い空に浮かぶ雲は、棚田の表面を影となって動き、黄金色に色づく前の稲は風が吹くと揺れていた。稲のさざ波は、まるでアニメに出てくる何かが通り過ぎたようで、何とも言えない趣がそこにはあった。
「見えないけれど、そこにあるもの」
そう、形として目には見えない。けれど、風の残した穂の揺れや、ゆっくりと動く雲の影に、私は静かな感謝と感動を抱いたのだった。
「あぁ、どこになくしたんだろう」
波佐見町から帰ってきて翌日、前日の風景を見返そうと思ってカメラを確認すると画像が映らない。入れてあったはずのSDカードがまるごとなくなっている。どうやら、自分で抜いてどこかに置いたまま失くしてしまったようだ。
「あぁ」
私はSDカードを探しながら、前日に見た棚田の風景と、友達を招待したくても住所の書き方がわからない教え子がふいにつながった。そして、思った。
もしも、あの棚田に誰かが住んでいるとしたら、それは、かわいい子鬼かもしれない。山に囲まれた町の棚田で、ひっそりと、でも健気に大好きな友達を待つ子鬼。その子鬼がニコリとほほ笑むと、失ったことよりも、残るものの存在に気が付くことができる。そんな、不思議な子鬼はひょっとしたら、私の日常に紛れ込んでいるのかもしれないと……。
≪終わり≫
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