淡い夏に届け
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:仲西悠歌(京都天狼院 「作家デビュー」プログラム)
夕方、スーパーの袋を提げて歩道橋を渡っていると、カン、カンと鉄の階段を鳴らす自分の足音に混ざって、どこからか遠い太鼓の音が響いてきた。ドンドン、ドコドコ。風が吹くたび、ソースが焦げる甘辛い匂いがふわりと鼻先をかすめる。ああ、どこかでお祭りをやっているんだな。
帰宅して、買ってきたお惣菜をテーブルに並べ、炭酸をコップに注ぐときだった。
ブブッ。
無機質な音を立てて、テーブルの上のスマホが短く震えた。画面には十数年ぶりに見る名前がぽつんと光っていた。十五歳、高校一年の夏休みに私が初めて「恋」 をした相手。
「久しぶり、あの時はごめん」
たったそれだけの一行。それを見た瞬間、ふーと抜けるような冷気とともに、あの日置き去りにされた電車の生ぬるい空気と、目の前でバタンと閉まった重いドアの音が、やけに生々しく耳の奥によみがえった。
覚えているに決まっている。忘れるわけがない。心臓がトクンとひとつ跳ねる。画面を見つめたまま、指先はピタリと止まって動かなくなった。
十五歳の夏、私は彼に夢中だった。といっても、高校一年生の日常なんて狭いものだ。学校が違う私たちだったのに、女子校、男子校が多い最寄駅だったから、すぐにみんなよく集まるようになった。放課後にだらだらと新しくできたゲームセンターに行ったり、カフェで勉強だとか。そんな冴えない風景の真ん中に、いつも彼がいた。
彼はとにかく目立つ男の子だった。勉強ができて、先生にも友達にも好かれていて、いつも輪の真ん中で大きな口を開けてガハハと笑っている。まだ誰かをちゃんと好きになることすら知らなかった私は、恋というよりは、自分にはない眩しいものを持っている彼に、ただひたすら憧れていただけだったのだと思う。
そんな彼から「夏祭り、一緒に行かない?」 と誘われたのだから、当時は完全に舞い上がっていた。雑誌を読み漁って選んだ、自分では精一杯大人っぽいと思ったワンピースを着て、汗をかかないように慎重に歩いた。ぽつぽつと並ぶ屋台の裸電球の下、ジューと焼ける焼きそばの音や人混みのざわめきの中、肩が触れそうな距離で歩いている時間は、自分でも浮かれているのがわかるくらい楽しかった。
調子に乗っていた時間は短かった。
人混みのなかで、ある女の子とすれ違った。その瞬間、彼の歩くスピードがふっと緩んだのを、私は見逃さなかった。女の子が彼に「あ、かずじゃん」 と声をかける。彼は、私を一瞥して「今、こいつといるから」 と彼女の誘いを一度だけ断った。バカみたいに「ああ、私を優先してくれたんだ」 と胸を撫で下ろしたのだけれど、彼の視線がもうここにはないことくらい、子ども心にも薄々わかっていた。
帰り道、彼は私の地元まで送るために一緒に電車に乗ってくれた。ガタゴト、ガタゴトと重い車輪の音だけが響く車内。隣に座る彼の横顔は、さっきと違って妙に硬くて、上の空だった。
隣の駅に着いた瞬間だった。プシューッとドアが開くと同時に、彼は「あ」とも「ごめん」とも言わず、ガタッと席を蹴るように立って電車を飛び降りて行ったのだ。タッタッタッとホームの階段を駆け上がる姿が、最後に見た見慣れた彼の背中だった。あ、さっきの女の子のところへ戻ったんだな、と直感でわかった。
「え」 と口を開けたままの私を残して、無情にもピリリリリと発車ベルが鳴り、バタンと重いドアが閉まる。窓ガラスには、張り切っておめかしした、ひどく間抜けな顔の十五歳の自分が映っていた。怒りよりも、悲しさよりも、とにかく「みっともなくてたまらない」 という感情でいっぱいになり、そのまま彼に連絡するのをやめた。
それから高校卒業の頃、風の噂でその後の話を聞いた。彼らはあのあとすぐに付き合い始め、お互いの家も近くて親同士も仲が良い。その彼女というのは、頭も良くて気品があって、同性から見ても文句のつけようがないくらい素敵な人だった。
聞いたとき、嫉妬や悔しさは湧いてこなかった。「そりゃあ、そうだよな」 と、ストンと腑に落ちてしまったのだ。
あの日、彼が誰を想っていたのかも気づかずに、ただ「自分がお祭りに誘われた」 という事実だけに浮かれていた。彼の心の中なんてちっとも見ようとせず、自分の幼い熱量だけを押しつけていたのだ。一人相撲を取るなんて、みっともないことこの上ない。あの情けない夏があったからこそ、大人になってから、人の好意や感情を適当に扱ったり、自分本位に踏みにじったりしてはいけないと身に染みて思うようになった。
だから、彼から「あの時はごめん」 とLINEが届いたとき、なんとなく察した。きっと二人は結婚でもするのだろう。人生の節目に立って、二人の始まりだったあの夏祭りを振り返ったとき、「そういえばあの夜、ひとりの女の子を放り出して傷つけたな」 と、三十男なりの律儀さと思いやりで、わざわざ過去の帳尻を合わせにきたのだ。
もしそうなら、ちょっとだけ誇らしい。二人の完璧な恋愛史のプロローグに、みっともなく置き去りにされた通行人Aとして、私がかすかに刻まれていたのだとしたら。そんな都合のいい解釈をしてニヤつくことくらい、三十代の私には許されてもいいはずだ。
プシュッと小気味いい音を立てて炭酸水を開けた。
冷たい炭酸を喉に流し込み、深呼吸して、画面に向かって文字を打ちこむ。
「何かあったっけ? あの頃は楽しかったよね。遊んでくれてありがとう」
大嘘である。本当は昨日のことみたいに全部覚えているし、当時は世界の終わりみたいにショックで、布団をかぶって泣いた。けれど、いまさら「あの時はひどかったよね」 なんて蒸し返して三十男を怯ませるのも大人げないし、なにより、あの出来事を「子どもの頃の取るに足らない思い出」 にしてあげることくらいしか、三十を過ぎた女にできる気の利いた強がりはなかった。それに、プライドもある。
送信ボタンを押したあと、私の中で黒くて冷酷な感情がふつふつと渦を巻く。 私の返信を見て、彼は「よかった、気にしてなかったんだ」 と胸を撫で下ろすだろう。けれど同時に、「俺のことなんて、もうすっかり忘れてたってことなのかな」 と、ほんの少しだけでも後悔してほしい。
過去の失恋の痛みを、まるで「物分かりの良い大人の優しさ」 であるかのように見せかける。相手への配慮の裏側に、ちっぽけなプライドと図々しさをこれ見よがしに忍ばせて。
スマホの画面を伏せてテーブルに置き、残りの炭酸を喉に流し込んだ。十五歳のあの夏、電車の中で泣きそうになっていた。今は昔のほろ苦い傷口を自分の都合のいいプライドに変換してしまう。図々しくなった三十代の女だ。
遠くでまた、ドンドンとお祭りの太鼓が小さく響いている。少しだけ口元を緩め、ピピーと鳴った電子レンジから温まったお惣菜を取り出した。
<<終わり>>
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