パジャマ姿のブルーインパルス
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:秋田梨沙(26 年 9 月ライティングゼミ withAI)
ほぅら、やっぱり行かなくてよかった。
時刻は午前9時。休日の朝にせっかく早起きしたというのに、いまだにパジャマ姿な自分に、私は心の中でせっせと言い訳を並べていた。だって、スマホの画面をスクロールすれば、会場周辺の駅や公園の混雑を伝える投稿が流れてくる。
うわ、信じられないくらい混んでる……。
冷めたコーヒーをすすりながら、私は完全に「圏外」の人として椅子に深く沈み込んでいた。
今日から「愛知・名古屋アジア大会」が開幕するのだ。
4年に1度開催されるスポーツの祭典は、オリンピックほどではないにしろ、開催地である地元名古屋では何年も前から静かな盛り上がりを見せている。そして今日は、開会を記念して、この愛知県の上空を「ブルーインパルス」が飛ぶらしい。
そのことに、競技チケットには興味もなかった私も、やはりテンションが上がった。1度も生で見たことはないから、何時頃飛ぶのかとか、どのあたりを通るのかとか、ネットの航路図をチラチラと調べたりはしていた。けれどそのうち、当日の駅を想像してしまってテンションは下がり、わざわざ出かけていく気は消え失せた。うんうん、私はそこまでミーハーじゃないし、人混みも大嫌いなのだからこれで良い。やっぱり家でゆっくりしていて正解! と、のんびりトーストをかじりはじめた時だった。
ゴオオオオオオオ!!!
窓の外から明らかに旅客機とは違う音がする。反射的に手元のスマホの画面をタップした。表示された時刻は、9時12分。事前に調べていた飛行時刻がうっすらと蘇る。
これは! ぜったいそう!!
椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、勢いよくカーテンを全開にした。けれど空は薄く曇っていて音だけが聞こえている。さすがに家の中からは見えないかもしれない。でもまだ音はする。
来るか? どうだ?
息をわずかに吸ったその時だ。視界の端を、隊列を組んだ6機の機体が真っ直ぐ飛んでいくのが見えた。猛スピードで飛び去っていく後ろ姿。住宅街の屋根の隙間から、ほんの数秒のことだった。
「見えた!」
思わず叫んでいた。ただ小さく遠ざかっていく機体の後ろ姿を、ほんの一瞬見送っただけ。それなのに、胸は高鳴り、自分でも驚くほどテンションが跳ね上がってしまっていた。この高鳴りを誰かに言わずにはいられない。衝動のままに「ブルーインパルス見れた!」と夫へメッセージを打ち込んでいた。そのまま、妹にも友達にも続けて何通も送った。人混みも嫌だし、ミーハーも恥ずかしいと言って引きこもっていたくせに、たった数秒後ろ姿を見送っただけでこの騒ぎようである。すぐさま、ピコン、とLINEの返信が届く。
「俺も見れた!!」
さらに開いたSNSのタイムラインは、空の写真でいっぱいだった。近所の友人や普段はあまり投稿しない人までもが、こぞって空の動画や写真を上げている。家の中にいた人も、見晴らしの良い場所へ行った人も、わざわざ現地に行った人も、みんな一緒に見上げていた。あの瞬間、同じブルーインパルスを見た人たちの熱が溢れかえっているのだ。画面から滲み出るその熱量に、私は思わず呟いていた。
みんな、浮かれすぎじゃない?
いや、その浮かれた群れの中心に、誰あろうパジャマ姿の自分が真っ先に飛び込んでいるのだが。いったいなぜ、こんなことに……。
さっきまで冷めた態度で圏外を決め込んでいたくせに、たった一瞬で、なぜこんなにも人に伝えたくなり、心躍らせてしまったのか。溢れかえるメッセージの通知を眺めているうちに、ふと、夏目漱石が頭をよぎった。
あぁ、これは令和の「月が綺麗ですね」だ。
英語の「I love you」をかつて漱石がそう訳したとか、いないとかいうあの話。夜空を見上げたとき、あまりにも月が綺麗で、思わず大切な人に「ねえ、今夜の月見た?」とメッセージを送りたくなってしまう、あの衝動。私たちが衝動的に誰かへ連絡し、SNSに空を放流していた理由は、それだったのではないか。
今日の名古屋の空はうっすらと雲が広がっていて、自慢の白い飛行機雲なんて、ここからはちっとも見えなかった。友人から送られてきた「拡大すればうっすらと……」という写真にいたっては、甘めに見ても上手とは言い難い一枚だった。けれど、それで十分だ。本当に伝えたかったのは、飛行機の見事な飛行ぶりや、自慢話ではない。
「私が見ているこの空を、あなたも今、見ていてほしい」
「同じ空の下で、同じ瞬間を共有できていたら嬉しい」
欲しかったのは、ただそれだけの、ささやかで素直な繋がりだったかもしれない。そう思ったら、パジャマ姿のまま興奮して報告し合っていた自分も、何も写っていない写真を送りつけてきた友人も、なんだかとても愛おしく、ロマンチックでいいじゃないかと思えてきた。
「……さて」
ひとしきりのやり取りが終わって、自分の格好を見下ろす。時計は10時を回っている。私は、相変わらずパジャマ姿のままだ。外の熱狂は一瞬で過ぎ去り、街は何事もなかったかのように日常に戻っている。満ち足りた気持ちのまま、私は少し弾む足取りで部屋へと向かった。
スマホは、机の上に置いてきた。
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