メディアグランプリ

カナブン


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:dan(26 年 9 月ライティングゼミ withAI)

 

ある日曜日の夕方、僕はJR山手線に品川駅から乗った。窓からギラッと西日が入り、冷房は効いていたが、車内が混んでいるせいか、日差しのせいか、汗ばむくらい。座席は満席で立っている人も多い。日曜なので、カップルや子づれの若い夫婦もチラホラ。ドアの前にいたベビーカーの1、2歳の子供ににっこり笑いかけ、僕は軽く小さく手をふる。残念ながら気づいてもらえない。立っていた僕の前の席が渋谷駅で空いたので、すかさず座った。

 

次の原宿駅で停車し、ドアが開いた瞬間だった。 

「わぁ~」

「きゃー!」

「電車を止めろー!」

のどかな日曜の車内が一変した。電気が走ったようなざわめき。みんな騒然とし、開いたドアを見つめている。座っている僕のところからは角度があり、ドア付近があまり見えない。車内からホームに降り立ったアロハを着たひょろ長いおっさんが、目ん玉ひん剥きながら駅員に向かってまた叫んだ。

「発車すんな! 電車を止めろー!」

ホームにリリリーン、リリリーン、と大音響で警報が鳴り響き、駅員数名がこちらのドアを目指して駆けてくる。心臓が高鳴り、気づけば、僕は席を立ちドア付近にいた。ざわめきの中から小さく、ホームとのすき間に落ちた……、と聞こえた。

何が、誰が、えっ、まさかベビーカーの子供……。

 

原宿駅ホームでのできごとにかなり動揺しながら、帰路に就いた。自分が無力であり、おろおろと心配する以外にできることは何もなかったと感じた。電車はすでに止まったままで、駅員も数名駆けつけ、ホームには警報が鳴っていた。何かしようがあったろうか? その時に頭に浮かんでいたのは、あのベビーカーの子供だったのだが、もう顔も思い出せなかった。乗客はみなドア付近を見つめて成り行きを見守っていた。誰もしゃべらない。電車とホームのすき間に何か落ちたらしい、と幾度か耳に入った。スマホだよ、という声も聞こえた。ぬいぐるみだってさ、という声も。いや、スマホやぬいぐるみが落ちてこんな大騒ぎになるわけがない。きっと、ドアの前にいたベビーカーの子供だ。僕が立っているこの電車の車輪のそばに倒れているに違いない。この床下で足が折れているかもしれない。頭を打って気絶しているかもしれない。顔から血を流しているかもしれない。不意に電車が発車して、あの子をひき殺すかもしれない。心臓がバクバクした。神様、お助けください! と信じてもいないものに祈ってしまった。

ふと、車窓からホームを見ると、大勢の人がいて、先ほどのベビーカーのお父さんが心配そうにこちらを見ていた。そして、ベビーカーには、なんと、あの子がちょこんと乗っていた。神様、ありがとうございます! あまりの安堵でへなへなと腰砕けになり、そして信じていないものにまた感謝してしまった。

じゃあさ、いったい何が、誰が、落ちたんだ!?

 

と、ここまでできごとをフラッシュバックしたところで、うちのマンションに着いた。クシュと音がして右足で何かを踏んづけていた。いやな予感がした。足を上げるとカナブンがつぶれていた。「なんで、どうして……」先ほどのことで気が高ぶっていて、思わずつぶやいた。なんで、カナブンがマンションのロビー、しかもエレベーター前にいるんだよ! 誰が来たって踏んでしまうだろ? どうして、僕は足元を見て歩いていなかったんだろう? 殺したくなんかないんだよ。みんな生きてるんだからさ。もうカナブンは死んでしまっていたが、何度も踏まれるのは気の毒なので、植え込みに置いた。

 

原宿駅でのことを振り返り、生死が関わるような緊急時に、なんて僕は無力なんだろうか、と考えていた矢先にカナブンを踏み殺してしまった。

僕は、ベビーカーの子供とカナブンの命を比べたりだとか、命の尊さを語りたいわけではない。薄っぺらな人間なので、語る言葉ももっていない。ただ、やるせないだけ。予想もつかない、展開も見えない状況で人は何ができるのか、それが人の器ではないか、と考え込んでしまった。

 

そうだ、原宿駅ホームに話を戻そう。

車内とホームの大勢の人が見守る中で、駅員2人がホームのすき間に片手を差し込んだ。「せーのっ!」の声とともに純白の半そでワンピースを着た若い女性が”バンザイ”の格好ですき間から引き揚げられた。すっくとホームに女性は立った。服に汚れもなくケガをした様子もなく、スタスタと歩き去った。そして、周囲からの小さな拍手。まるでドッキリのような予想もしない展開に僕はあっけにとられた。この光景が信じられなかった。

 

10分後、何事もなかったように山手線は動き出した。僕を乗せて。

 

 

 

 

 

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