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 【連載第50回】《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「次から、来なくていい」―支援を終わらせた男性が、私に返した火曜日―


記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

 

 

※本作は、作業療法士としての経験をもとに、個人が特定されないよう事実関係を再構成し、一部フィクションを含みます。療法士の内面や、関わりの中で生まれた変化を小説として描いています。

 

——

支援を終えるとき、決めるのは誰でしょうか。私は転倒の危険や生活の不安を説明し、訪問を続ける必要があると考えていました。けれど、「次から、来なくていい」と言われた瞬間、続けたい理由のすべてが相手のためだったとは言い切れなくなりました。必要とされなくなる怖さを、安全という言葉で包んでいなかったか。これは、私がいない火曜日を、本人へ返すまでの物語です。

——

「次から、来なくていいです」

Aさんは、居間の壁に掛けたカレンダーを見たまま言いました。

九月の火曜日には、赤いボールペンで「リハ」と書かれていました。私が来る時刻も、その横に小さく書き足してあります。几帳面な字でした。

私は、聞き間違えたふりをしました。

「来週は、何かご予定がありましたか」

「そうじゃない。来週だけじゃなくて、もういいです」

湯のみを持ち上げたAさんの左手が、ほんの少し揺れました。私はその揺れを見つけた途端、頭の中で理由を並べ始めました。

玄関の上がりかまち。雨の日のごみ置き場。台所の小さな段差。前回、袋を持ったまま向きを変えたとき、右足が遅れていたこと。

続ける理由なら、いくつも言えました。

「最近、外で転びそうになったことはありませんか」

「ないです」

「ごみ出しのとき、袋が重い日は」

「重ければ二つに分けます」

「雨の日は足元が」

「雨なら、隣の奥さんが声をかけてくれる」

答えが返るたび、私は次の心配を探しました。会話をしているつもりで、終了を撤回させる材料を集めていたのです。

Aさんは湯のみを置きました。

「先生は、やめる話を聞きに来たんじゃないんですか」

言葉に詰まりました。

私はまだ、やめる話を始めてもいませんでした。

——

Aさんに初めて会ったのは、四か月前でした。

退院して一週間。玄関のたたきには、口を縛った白いごみ袋が二つ置かれていました。収集日は過ぎていました。

「出そうと思ったけど、袋を持つと足が動かなくなる」

Aさんは、袋を見ないで言いました。

近所の人に頼めばよい、と私は考えました。けれど、Aさんにとってごみ出しは、単に物を運ぶ作業ではありませんでした。

妻を亡くしてからの三年間、朝六時半に起き、台所を片づけ、集積所へ袋を運ぶ。帰りに郵便受けをのぞき、隣の家の雨戸が開く音を聞く。それが一日の始まりでした。

「これを頼んだら、朝まで人に預けることになる」

最初、その意味が分かりませんでした。

Aさんはもう一度言いました。

「ごみだけじゃない。朝を預けるんです」

私たちは、ごみ袋の中身を軽くし、玄関までの動線を空けました。袋を持って歩く練習もしました。晴れた朝だけ、私が少し離れてついて行きました。

三回目に集積所へ着いたとき、Aさんは袋を置き、息を整えながら言いました。

「これで、今日が始まる」

その言葉を、私は成果だと思いました。

間違いではありませんでした。ただ私は、知らないうちに、その成果の中へ自分の居場所まで作っていました。

——

「どうして、終わりにしたいと思ったんですか」

ようやく私は尋ねました。

Aさんは、カレンダーの赤い文字を指でなぞりました。

「先生が来る火曜日は、朝から床のものを片づける。体調を聞かれたときに答えられるように、昨日のことを思い出す。歩き方を見られると思うと、台所でも足の出し方を考える」

「負担でしたか」

「嫌だったわけじゃない。助かったこともたくさんある」

少し間を置いて、Aさんは続けました。

「でも、先生が来る火曜日だけは、俺は病人に戻るんです」

私は反射的に、「そんなつもりは」と言いかけました。

そこで止まりました。

支援する側にそのつもりがあるかどうかは、Aさんの火曜日とは関係がありません。

私は毎回、できるようになったことより、次に危ないことを探していました。立ち上がりが安定すれば、方向転換を見る。ごみを出せれば、雨の日を心配する。Aさんの暮らしを守るために必要だと考えていました。

けれど、危険を見つけ続ける私の目が、Aさんをいつまでも「支援を受ける人」に留めていたのかもしれません。

「訪問がなくなるのが、怖くはないですか」

尋ねたあと、卑怯な質問だと思いました。怖いと言えば継続を勧められる。怖くないと言えば、無理をしていると疑われます。

Aさんは、すぐには答えませんでした。

「怖いですよ」

やがて、そう言いました。

「だから、やめたいんです」

私は顔を上げました。

「先生がいるうちは、何かあったら次の火曜日に聞けばいいと思う。いなくなったら、自分で決めるか、隣に頼むか、病院に電話する。そっちの練習もしないといけないでしょう」

怖さがないから離れるのではありません。怖さを引き受ける準備を、自分で始めようとしていました。

私はAさんの言葉の中で、ようやく終了を後退ではなく、次の生活として見始めました。

——

その場で終了を決めることはせず、次の訪問まで二週間空けました。その間、ごみ袋は小さく分ける。雨が強い日は無理をしない。転んだとき、いつもと違う強い体調不良があるとき、急に暮らしの動作が難しくなったときは、決めておいた連絡先へ相談する。それだけを紙に書きました。

私は「念のため」という言葉を何度も足したくなりました。体操の回数も、確認する項目も書きたくなりました。

Aさんは紙を見て言いました。

「先生、宿題が増えたら、火曜日が木曜日まで広がりますよ」

私はペンを置きました。

二週間後、玄関にごみ袋はありませんでした。けれど、私は「出せましたか」とすぐには聞きませんでした。

Aさんも、成功したとは言いませんでした。

「一回、袋を置いて休みました。隣の奥さんに見られた」

「何と言われましたか」

「重い日は言えって。だから、今度は言うかもしれない」

自分でできた、というきれいな話ではありませんでした。途中で休み、人に見られ、次は頼るかもしれません。それでも、その朝をどう扱うかはAさんが決めていました。

——

最後の訪問の日、私はいつもより長く玄関にいました。

靴を履き、立ち上がり、また何か言おうとして座り直したくなりました。次の受診日を確認しようか。体調が変わったときの手順を、もう一度話そうか。

必要な確認は終わっていました。残っていたのは、私のほうでした。

「あの」

私が声を出すと、Aさんが笑いました。

「先生のほうが、終わるの苦手ですね」

否定できませんでした。

支援が続いている間、私は役に立てます。次の目標を考え、変化を確かめ、心配を言葉にできます。けれど、支援が終われば、Aさんがどんな朝を過ごしたかを私は知りません。

知らないまま離れることが、無責任に思えました。同時に、知り続けようとすることが、Aさんの暮らしを囲う場合もあると初めて気づきました。

Aさんはカレンダーを外し、火曜日の「リハ」に一本線を引きました。

「来なくていいは、先生がいらないって意味じゃない」

赤い文字は、線の下にまだ見えていました。

「先生がいない火曜日を、俺が始めたいってことです」

私はうなずきました。

玄関の外へ出ると、Aさんは内側から鍵をかけました。カチリという音がしました。その音を聞いても、私は廊下をすぐには歩き出せませんでした。

——

もし今受けている支援の中に、「なくても試せそうな手順」があるなら、一つだけ、短い期間外せるかを担当者と話してみてください。困ったときに戻せる連絡先と、転倒や急な体調変化など中止する条件は、先に決めておきます。支援の終了を急ぐためではありません。自分で決められる範囲を確かめるためです。支援内容は本人だけで変更せず、家族や担当者、医療職と相談してください。

——

次の水曜日、Aさんがごみを出せたかどうかを、私は知りません。途中で休んだかもしれません。隣の人へ頼んだかもしれません。雨を見て、やめたかもしれません。

以前の私は、そのどれが正解かを決めたがりました。

今は思います。

再起動とは、支援者が見届けた成功のことではありません。

閉まった扉の向こうで、その人が自分の朝を選び直せることです。

私は階段へ向かいました。来週の火曜日には、もうこの廊下を歩きません。その空白を、Aさんへ返すために。

——

 

 

 

 

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

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