【連載第51回】《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「趣味を聞いて、できなくなったことを思い出させてしまった」―模型を作れなくなったパーキンソン病の男性と、階段に並んだ飛行機―
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※本作は、天狼院書店『週刊READING LIFE』の連載作品です。作業療法士としての経験をもとに、個人が特定されないよう事実関係を再構成し、一部フィクションを含みます。療法士の内面や、関わりの中で生まれた変化を小説として描いています。
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「何か、またできるようになりたいことはありますか」。訪問リハビリで、私が何度も口にしてきた質問です。リハビリのない日にも体を動かすきっかけになればと、その日も八十代の男性に同じことを尋ねました。彼が何を好きだったのかを、まだ知らないままで。返ってきた短い一言で、私は自分の質問が、相手の前に何を並べてしまったのかを知ることになります。これは、階段の途中に並んだ飛行機の模型と、ひとつの質問をめぐる物語です。
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午後の居間は、車の音もほとんど届かないほど静かでした。住宅街の奥にあるその家で、Nさんは窓際の椅子に座っています。八十代の男性で、目は開いているのに、どこも見ていないようでした。膝の上の両手はこわばったまま動かず、パーキンソン病が進んでからは日中の眠気も強く、横になっているか、座っていても体を動かす気力が湧かない時間が増えていると聞いていました。
私が訪問できるのは週に一、二回で、残りの時間をどう過ごすかによって、体の動きは変わっていきます。だから私は、いつものように尋ねました。
「今はできることが少なくなってきましたけど、何か、またできるようになりたいことはありますか」
Nさんが答えないので、言葉を足します。
「趣味とか、あるといいですよね。リハビリのない日にも、少しでも体を動かせるような」
しばらく間があってから、Nさんは言いました。
「もうね、できることなくなっちゃったからね」
視線は私を通り越して、ずっと遠くに向いています。怒っている声ではなく、とうに決まったことを読み上げるような声でした。「そんなことないですよ」と言いかけて、私は口を閉じました。何がまだできるのかを言えるほど、Nさんのことを知らなかったからです。
次の言葉を探していると、台所から奥さんが顔を出しました。
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「この人、飛行機の模型が好きでね。ずっと作って、集めてたんですよ」
奥さんが指さした居間の隅には、コレクション棚がありました。プロペラ機に、見慣れた航空会社の旅客機、機首の尖った戦闘機。時代も国もばらばらの飛行機が、すき間なく、同じ向きにそろえて並んでいます。
「仕事を辞めても、趣味がいっぱいあるから、老後は安泰だなって思ってたんです。それが、こんなことになっちゃって。もうね、困ってるんですよね」
奥さんがそう話すあいだも、Nさんは棚のほうを見ようとしません。
「階段のところにも、まだあるんです」
案内された階段には、段に沿って細い棚が取りつけられ、そこにも飛行機が二階へ向かって並んでいました。古い模型らしい、少しくすんだ匂いがします。階段の途中には小さな出窓があって、差し込む光が何機かの翼を白く照らしていました。
その光景の前で、私はようやく自分の質問の意味に気づきます。Nさんにとって趣味は、これから探す何かではありませんでした。何十年も手を動かして作り、集めてきたものが、毎日通る場所にずっと並んでいる。それなのに今の指先は細かい部品を扱えず、体は硬くなり、数メートル歩くのもやっとなのです。
リハビリのない時間に自主トレーニングをお願いすることはよくあり、続けてもらうために好きなことを尋ねるのは、私にとって当たり前の手順でした。けれど、進行する病気と暮らす人に趣味を尋ねるなら、それがもうできなくなっているかもしれないことを、先に考えておくべきでした。
「何か、またできるようになりたいことは」という私の問いは、できなくなったことを、Nさんにもう一度思い出させていたのです。
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帰りの車の中で、正直に言えば、模型づくりの再開は難しいと思っていました。パーキンソン病は国の指定難病で、時間とともに症状が進んでいくことが分かっています。今できる動きも、来月にはできなくなっているかもしれません。
それでも、作れないことと、見られないことは同じではないはずです。体の動きを少しでも保つことは大切ですが、私が本当に残したかったのは、Nさんが自分から体を動かしたくなる理由のほうでした。模型の多くは階段の途中にあり、二階へ上がる練習は、もともとリハビリの計画にも入っています。そこで私は、その練習の呼び方を変えてみることにしました。
次の訪問で、私は階段の下から声をかけました。
「今日は、飛行機を見に行きませんか」
Nさんはしばらく階段を見上げてから、手すりに手を伸ばしました。
一段目に足を乗せるまでには、長い時間がかかります。足が床に貼りついたように動かないので、私は後ろから腰を支えました。静かな家の中では、Nさんの呼吸の音がいちばん大きく聞こえます。二段目、三段目と上がったところで息が上がり、Nさんは手すりを握ったまま止まりました。
そこは、ちょうど出窓の前でした。光の中に白い旅客機があり、翼の白は、長い年月で少しだけ黄ばんでいます。Nさんは、その飛行機をじっと見ていました。居間で私を通り越し、どこか遠くを見ていた目が、今は一機の飛行機の上にとまっています。
Nさんは何も言わず、私も何も聞きませんでした。「どうですか」と尋ねれば、Nさんはまた、よかったか悪かったかを答えなければならなくなります。今は見ているだけでいい。そう思いながら、私は後ろで腰を支え続けました。下りる、とNさんが言うまでには、いつもより長い時間がかかりました。
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それからは、調子のいい日に、階段で飛行機を見に行くようになりました。三段で止まる日もあれば、出窓を越えて、もう少し上まで行ける日もあります。そういう日、下りてきたNさんの口元がわずかにゆるむのを、私は何度か見ました。歩く練習の先には、いつか奥さんと一緒に、外へ飛行機を見に行くという目標も置いています。
けれど、病気は待ってくれません。最近は、階段の前に立てない日や、歩くこと自体がままならない日が増えてきました。体はますます硬くなり、一段目に足を上げることさえ難しい日もあります。
そんな日にも、階段へ誘いたくなることがあります。動かなければ、もっと動けなくなる。それも本当です。けれど、上れなかった日の記憶ばかりが重なれば、階段の飛行機は、また「できなくなったもの」に戻ってしまうでしょう。
だから調子の悪い日は、居間の棚の前まで、数メートルだけ歩きます。それも難しい日は、椅子に座ったまま、棚のほうへ向きを変えます。できることは確かに減っていますが、飛行機のほうへ体を向けることは、まだNさんにできることでした。
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リハビリは、体の動きを上げたり保ったりするためだけのものではなく、その先にある暮らしのためにあります。けれど進行していく病気では、その「先」が少しずつ狭くなっていきます。悪くなっていくことが分かっている中で、どこにその人の生きる力を見つければいいのか。Nさんと過ごした時間で私が知ったのは、その手がかりが、こちらのかける言葉ひとつで見えなくもなり、見えるようにもなるということでした。
居間での私の問いは、Nさんに、できなくなったことを思い出させました。一方で、「飛行機を見に行きませんか」という誘いは、同じ階段を、飛行機に会いに行く道に変えました。あの日、変わったのはNさんの体ではなく、私の言葉のほうです。どんな言葉がその人の力になるのかは、人によってまったく違います。だからこそ、リハビリの仕事を続ける限り、考え続けることになる問いなのだと思います。
【今週の再起動実験】「何がしたい?」を、「見に行こう」に言い換える
病気や体の衰えで、以前のようにできないことが増えた人がそばにいるなら、「何がしたい?」「何ができるようになりたい?」と尋ねる前に、その人が大切にしてきた物や場所を一つ思い浮かべてみてください。そして「あれ、見に行かない?」と、行き先として誘ってみます。作れなくても、見に行くことはできます。行けない日は、そちらへ体を向けるだけでもかまいません。
反対に、できないことが増えて「もう何もない」と感じている人は、家の中で、つい目が向いてしまう物を一つ探してみてください。以前のように使えなくても、眺めたり、手に取ったりすることはできるかもしれません。
階段や歩行の練習は、体調のよい日に、手すりと見守りがある状態で行ってください。ふらつきや急な体調の変化、いつもと違う疲れがあるときは無理をせず、どこまで動いてよいかは担当の医師やリハビリ職と相談してください。
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今日も、あの出窓からは光が入っているはずです。Nさんが上れる日も、上れない日も、飛行機は同じ場所で待っています。上れる段数は、これからも少しずつ減っていくのかもしれません。それでも、三段目の出窓の前で止まったあの日の数分が、なかったことになるわけではありません。
再起動は、元に戻ることだけではありませんでした。好きだったものの前に、もう一度立つこと。その数段にも、確かにスイッチはあったのだと思います。
次の訪問でも、私は階段の下から声をかけるつもりです。
今日は、どこまで見に行きますか。
決めるのは、Nさんです。
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❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
天狼院メディアグランプリ75th Seasonにて総合優勝。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
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