ゼミ

私の瞬間湯沸かし器は、まだ壊れていない《週刊READING LIFE vol.380「大河の如く」》


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:上野貴子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

若い頃、私は瞬間湯沸かし器のような人間だった。

瞬間湯沸かし器といえば、普通はすぐにカッとなる人のことを指す。

でも、私の場合は少し違う。

 

気になることや興味のあることに出会うと、たちまちスイッチが入り、猛烈な勢いで突進する。ある程度までやりきって満足すると、今度はあっさり飽きてしまう。

 

そして、次のターゲットを見つけて、また突進する。その繰り返しだった。

 

何でも経験してみたかった。知らないことを知りたかった。行ったことのない場所に行き、会ったことのない人に会い、自分がまだ見たことのない世界を覗いてみたかった。

 

好奇心にブレーキをかけるという発想が、そもそもなかったように思う。

 

もっとも、飽きっぽいという欠点もあった。熱中していたはずのものに、ある日突然、興味がなくなる。自分でも不思議なくらい、きれいさっぱり気持ちが離れてしまうのだ。

あれほど夢中だったのに、どうした私?

そう思う間もなく、次の何かが目の前に現れる。

 

今思えば、ずいぶん忙しい生き方だった。

 

何かに夢中になっているときは、それがいつまで続くのかなど考えもしなかった。面白いと思ったら、とにかくやってみる。うまくいくかどうかは、そのあと考えればいい。

 

失敗することもあったし、途中で思っていたのと違うと気づくこともあった。それでも、やってみなければわからないのだから仕方がない。

 

今なら、もう少し慎重に考えるだろう。時間もお金も有限だし、体力だって無尽蔵ではない。でも、あの頃の私は、そんな計算をするより先に体が動いていた。

 

何かを始める理由を探す必要がなかったのだ。面白そう。それだけで十分だった。

考えてみれば、ずいぶん贅沢な時間の使い方だったのかもしれない。

 

そして何より、楽しかった。

初めて何かを知るときの、胸の奥がむずむずするような感覚。これから何が起こるのだろうという期待。

 

自分の知らなかった世界が、突然、目の前に広がっていくあの興奮。私は、あの感覚が大好きだった。

 

SNSを眺めていると、ときどき、記憶を消してもう一度観たい映画ベスト10とか、記憶を消してもう一度読みたいミステリー10冊といった投稿に出会う。

 

なるほど、と思う。

犯人も結末も知らずにミステリーを読み進める、あの楽しさ。物語の世界に初めて足を踏み入れ、次に何が起こるのかと夢中になる時間。

 

一度知ってしまったら、もう二度と同じ体験はできない。それなら、私もあの頃の記憶を少しだけ消して、もう一度あのワクワクを味わってみたい。

 

ここまで書いて、突然気がついた。

ちょっと待て、待て、私よ!

 

私は今、自分の人生には、もうあんなふうに夢中になれることが残っていないと思っている!?

 

新しいことに挑戦するエネルギーは、若い頃ほどない。世の中のことも、ある程度は経験してきた。これからの人生は、まあ、こんなものだろう。

そんなふうに、自分で勝手に決めつけているのではないか!?

 

ガーン。なんということだ。いつの間に私は、自分の世界に天井をつけてしまったのだろう。しかも、誰に頼まれたわけでもない。自分で勝手に工事して、自分で勝手に完成させている。

 

これが老いの始まりなのだろうか。

だとしたら、危ない危ない。

うっかり気持ちを老いに委ねるところだった。

 

ちょっと考えてみれば、世界は今も広がり続けている。

たとえば、私が思春期の頃、夢中になって読みふけっていたSF小説には、当時の現実には存在しない技術や、想像もつかない未来の暮らしが描かれていた。

 

それが今、次々と現実になっている。人間が機械と会話をする。遠く離れた人と、顔を見ながら話す。手のひらに収まる小さな機械で、世界中の情報にアクセスする。

昔なら、まさに空想の世界だった。

 

私は決して、新しいガジェットを追いかけるタイプではない。そもそも、ガジェットという言葉の意味すら、最近までよくわかっていなかった。いや、今も正確に説明できるかどうか怪しい。

 

それでも、かつて空想の世界にあったものが現実になっていく様子を見ると、やっぱり心がときめく。あの頃、SF小説を読みながら想像していた未来に、今、自分が生きているのだ。なんて面白いのだろう。

 

そして、新しい世界との出会いは、科学技術の進歩だけではない。

 

つい最近、私より20歳以上も年下の男性と、生き方について話す機会があった。年齢も、育ってきた時代も、経験してきたことも違う。けれど、話しているうちに、不思議なことが起きた。

 

彼が見ている生き方と、私が長い時間をかけて求めてきた生き方が、同じ方向を向いているとわかったのだ。

ああ、やっぱり。

そう思うよね。

その瞬間、胸の奥からワクワクが湧き上がってきた。

 

自分とは違う時代を生きてきた人が、まったく別の道筋をたどって、同じようなところにたどり着いている。そのことが、たまらなく嬉しかった。

 

若い頃の私は、自分の目の前に広がる世界に夢中だった。年齢の離れた人と、生き方について深く語り合うことなど、あまり考えなかったように思う。

 

ところが今は、誰かとの何気ない対話の中にも、思いがけない発見がある。

世界の広さとは、距離だけで測れるものではないらしい。

 

もうひとつ、最近になって初めて知った楽しさがある。

文章を書くことだ。

 

私はこれまで、自分がエッセイを書くようになるなんて、想像もしていなかった。もちろん、仕事ではずいぶん文章を書いてきた。会社を経営していれば、伝えなければならないことはいくらでもある。

 

けれど、それは目的のある文章だ。自分の中に浮かんできた感覚や、日常の小さな出来事を、ひとつの読み物として表現する。そんなことを、自分がやるとは思っていなかった。

 

ところが、書き方を学び、実際に書き始めてみたら、これが思っていた以上に面白い。

いや、面白いどころではない。すっかり夢中になっている。

 

最初は、何を書けばいいのかわからなかった。書き始めても、思うように進まない。頭の中には何かがあるのに、それを言葉にしようとすると、するりと逃げてしまう。

 

やっと書けたと思って読み返すと、どうにも気に入らない。この言葉ではない。この順番でもない。もう少し、何かが違う。

 

そんなことを繰り返しているうちに、何時間も過ぎてしまう。しかも、文章を書くというのは、思いのほか自分の内側を覗き込む作業でもある。

 

最初は、書きたいことが決まっているつもりで書き始める。ところが、書いているうちに、まったく別のことを考え始めたりする。あれ、私はこんなことを思っていたのか。自分で書いた文章を読み返して、自分で驚く。

 

今回だってそうだ。

 

若い頃のワクワクをもう一度味わいたい、などと書いていたら、いつの間にか、自分で自分の世界を狭くしていたことに気づいてしまった。まさか、エッセイを書いていて、こんなところにたどり着くとは思わなかった。

 

書く前には見えていなかったものが、書いているうちに姿を現す。

それが面白くて、また書きたくなる。

もちろん、毎回そんな発見があるわけではない。何時間考えても、さっぱり言葉が出てこない日もある。それでも、次は何が見えてくるのだろうと思うと、机に向かいたくなる。

 

そして、ふっと、これだと思える表現に出会うことがある。その瞬間の嬉しさといったらない。誰かに褒められる前に、自分が嬉しい。

 

もちろん、書いた文章を読んでもらい、感想をいただければ、もっと嬉しい。掲載が決まったときなどは、なおさらだ。

 

自分の中にあったものが文章になり、誰かのもとへ届いていく。こんなに心が踊ることだったのか。

 

そんなふうに、文章を書く楽しさを知ってから、母のことを思い出すようになった。

母は長年、俳句をやっていた。

 

故郷の地方新聞には俳句の投稿欄があり、母は毎週、そこへ句を送っていた。月に一度は句会にも出かけていた。

 

私の記憶に残っているのは、朝食のテーブルで新聞を広げ、俳句を推敲している母の姿だ。今週のお題を前に、あれこれ考えている。言葉を選び、並べ替え、また考える。そして、ハガキに俳句を書いて投稿する。

 

それが、毎週の定番の朝の風景だった。当時の私にとっては、あまりにも日常的な光景だったので、特別なことだとは思っていなかった。母は俳句が好きなんだな。その程度の認識だった。

 

新聞には、結構な頻度で母の句が掲載されていた。そのたびに喜んでいた母の笑顔も、よく覚えている。

 

母が俳句を見せて感想を求めてきても、私はたいしたことを言えなかった。

いいんじゃない?

せいぜい、そのくらいだったと思う。

 

何しろ、俳句の面白さがわからない。五七五の短い言葉の中に何を込めようとしているのか、母が何を表現したかったのか、考えてみようともしなかった。

 

今なら、母ともっといろいろな話をしてみたい。どこに苦労したのか、どの言葉が気に入っているのか。きっと母は、喜んで話してくれただろう。

 

当時の私には、そんなことを聞いてみようという発想すらなかった。

ああ、お母さん。

あのとき、こんなに楽しかったんだね。

 

自分の感じたことを言葉にする楽しさ。ほんの少しの表現の違いにこだわり、納得できるまで考え続ける面白さ。そして、自分の作品が新聞に掲載されたときの、あの嬉しさ。今なら、わかる。

 

俳句の奥深さまで理解できたわけではない。いまだって、俳句を詠めと言われたら困ってしまうだろう。それでも、母があれほど夢中になっていた理由は、少しわかった気がする。

 

そういえば、母が俳句を推敲しているとき、私はどうしていたのだろう。静かにしていたのだろうか。母が何かに集中していることを察して、声をかけるのを遠慮していただろうか。

 

残念ながら、そこは覚えていない。ひょっとしたら、何の遠慮もなく、おかあさん、ハンカチどこ?などと声をかけていたかもしれない。だとしたら、本当にごめんなさいだ。

 

今、エッセイを書いている最中に、そんなふうに話しかけられたら、私はきっと、ちょっと待って、と言ってしまう。せっかく浮かんだ言葉が、どこかへ飛んでいってしまうからだ。

 

何十年も経って、ようやく母の気持ちがわかるとは。ずいぶん時間のかかる娘である。けれど、考えてみれば、これも新しい発見なのだ。

 

母が俳句を書いていたことも、新聞に掲載されて喜んでいたことも、ずっと覚えていた。何も新しい情報が増えたわけではない。

 

それなのに、自分が文章を書くようになったことで、昔の朝食の風景が、まったく違って見えてきた。同じ記憶なのに、そこに見えるものが変わっている。なんだか不思議だ。

 

若い頃の私は、知らない世界を探して、次から次へと飛び回っていた。新しい場所、新しい人、新しい経験。それらに出会うことが、人生の面白さだと思っていた。

 

けれど、今は少し違う。知っているつもりだった世界にも、まだ見えていないものがある。何十年も前の朝食の風景が、ある日突然、新鮮な驚きに変わることだってある。

 

人生は、思っていた以上に奥行きがあるらしい。

 

若い頃の私は、勢いよく流れる急流のようだったのかもしれない。それに比べて、今はどうだろう。ゆったりと流れる大河のように、穏やかに生きることに憧れる気持ちもある。

 

細かなことに心を乱されず、目の前の景色を楽しみながら流れていく。瞬間湯沸かし器が大河になるなんて、ずいぶんな変身である。

 

でも、大河だって、ただ静かに流れているわけではない。いくつもの川が合流し、ときには岩にぶつかり、大きく曲がりながら、絶えず新しい水を運んでいる。穏やかに見えても、その流れは決して止まらない。

 

そう考えると、私も無理に穏やかな人間になろうとしなくていいのかもしれない。

新しいものに出会えば、ワクワクする。

面白そうだと思えば、飛び込んでみる。

ときには立ち止まり、昔の記憶を眺めてみる。

それでいい。

 

何も、若い頃の記憶を消して、あのワクワクを取り戻す必要はない。

知らないことは、まだ山ほどある。

 

知っているつもりで、実は何もわかっていなかったことだって、きっとたくさんある。何より、これから自分が何に夢中になるのか、まだわからない。そう思うと、なんだか楽しくなってくる。

 

さて、次は何に出会えるだろう。

そう考えた途端、胸の奥で、懐かしいスイッチが入る音がした。

どうやら、私の瞬間湯沸かし器は、まだ壊れていないらしい。

 

上野貴子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

 

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