タイムスリップ(READING LIFE)

東大の祝辞と16年前の一場面《週刊READING LIFE 「タイムスリップ」》


記事:青木文子(天狼院公認ライター)
 
 

「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください」

上野千鶴子さんの東大入学式の祝辞の一説だ。
 
「恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください」
 
私はネットでこの上野千鶴子さんの祝辞を読んだ。パソコンの画面をみながら、16年前の一場面が鮮やかに蘇ってきた。
 
私はあっという間に16年前のあの日にタイムスリップしていた。
そう、あの人の言葉と一緒だ。そう思った。
 
1人目の子どもが1歳になった頃だった。
台所でその日の朝の味噌汁を作っていた私の耳に、NHKの番組の音が聞こえてきた。子どもたちの声。とてもエネルギーのある声。お玉を手に持ったまま、リビングでつけっぱなしのテレビをのぞき込んで、私はそのまま立ちすくんだ。
 
手づかみで焼いたサンマを食べている子どもたち。自分の身長よりも高いところに足の置き場があるような高い竹馬に得意げに乗っている子どもたち。半袖半ズボン。焚き火を囲む子どもたちの表情。
 
これは一体なんなのだ?!
お玉を手に持ったまま食い入るようにテレビをみていると、それは『こどもの時間』という映画の紹介だということがわかった。埼玉にある、いなほ保育園の6年間のドキュメンタリー映画。
 
いなほ保育園は斎藤公子が提唱するさくらさくらんぼ保育を実践する保育園だった。この映画をとり始めた女性の監督は、保育園の実践に感激するあまり、そのまま埼玉に引っ越して子どもを3人その保育園に入園させたという。
 
テレビにうつる映画の場面をみていると胸のあたりで鼓動がしてきた。ここに自分がもとめているものがあるのではないかと感じた。子どもを産む前にシュタイナー教育を学び、モンテッソリー教育を学んだ私だったが、なにかしっくり来ない、もっと必要な何かがあるのではないかという思いが残っていた。
 
この映画をどうしたら観られるだろうか?
調べてみるとその時の上映館は都内で一箇所だけ。東京中野の小さな映画館。次の日が映画の最終上映日だった。次の日、1歳の子どもをおんぶしてその映画館に行った。
 
子どもがぐずらずにいられるだろうか? とはらはらしながらの映画鑑賞だった。けれど、子どもは不思議と静かにしていた。時におっぱいをのみ、時にうとうととし、そして時に映画のスクリーンに子どもたちが出てくるのをじっと見ていた。
 
その日は映画の最終上映日だった。終了後、映画監督の挨拶があった。なぜ、この映画を撮り始めたか、なぜ、映画を撮り始めてから引っ越しして、子ども3人をこの保育園に入れたのか監督の挨拶の話を食い入るように聞いた。
 
監督の挨拶が終わって、人が席を立ちはじめた。私は出口に向かって帰りはじめた人の波をかき分けるように舞台に近づいた。監督に一言お礼を言いたかったのだ。こんな映画を撮ってくださってありがとうございます、といいたかった。ようやく監督をみつけて、お礼を言おうとしたが、気がつくと別の言葉が口からこぼれていた。
 
「この映画の上映会をしたいんです」
 
衝動的に口からこぼれた言葉だった。自分がその言葉を聞いてびっくりした。後先は考えていなかった。
 
「今日私が観ていたみたいに、子どもたちにおっぱいを飲ませながらみられる映画上映会をしたいんです」
「たくさんのお母さんたちとこの映画を観たいんです」
「もし、映画の上映会をするときは、監督、来てくださいますか?」
 
監督は嬉しそうに笑ってこういった。
「はい、もちろん行きますよ!」
 
今でこそ、映画上映会をやることはあるが、当時は映画の上映会などやったことなどなかった。そもそも映画の上映会を個人で開けるのかどうかもわからなかった。調べてみて、映画のフィルムが借りられることがわかった。
でも会場は? フィルムを借りる費用は?
 
そこで、お母さん仲間たちに一緒にやらないか、と声をかけた。この映画の良さをどれほど力説しても、ほとんどの人は「難しいよね」「お金かかるんだよね?」と言って賛同してくれる人はいなかった。
 
その中で5人のお母さんで賛同してくれた人たちがいた。その映画をみてもいないのに、私の言葉を受け取ってくれた仲間たちだった。上の子を生んだ産院のお母さん仲間だった。私をいれて6人。
一人3万円ずつ出し合った。それが最初のフィルム代の立替になった。子育て中のお母さんが3万円を出し合うというのは想像以上に大きな話だ。その3万円が返ってくるかどうかわからないならなおさらだ。
 
結果的にそこから2ヶ月後に渋谷で300人の上映会を開催することができた。
監督が「私、講演会は苦手ですから、青木さんインタビュアーになってくださいね」というので、壇上で監督になぜこの映画を撮ったのか、この映画で何を伝えたかったのをインタビューしていた。
収益はフィルム代と会場費と、そして、最後に6人全員に3万円ずつ返して、最後数千円がのこった。もちろん人件費はでなかったけれど、それを除けば赤字にはならなかった。
「同じ手元にある3万円だけれど、大きな仕事をしてくれた3万円だよね」おかあさん仲間たちと笑いあった。
 
そこから1年後、私は配偶者の転勤で岐阜に行くことになった。
岐阜にはさくらさくらんぼ保育を実践している保育園があった。すぐに見学をしにいった。0歳から6歳までの子どもたちが20人ちょっと。小さな保育園だった。あの銀幕で見た子どもたちと同じように、半袖半ズボンの子どもたち。焚き火を囲む子どもたち。
 
私は子どもをこの保育園に入園させると同時に園長に直談判をした。
 
「私もこの保育園で働かせてください!」
保育士資格をもたない私の申し出だった。断られても仕方がない、保育のお手伝いと思っていたのに、園長は私をしげしげと眺めたあとに意外なことをいった。
「わかったわ。じゃあ、あなたは年長の担任ね」
 
え? 年長の担任? 私、保育士資格も持っていないですよ?
 
「いいのよ、ここは無認可の保育園だから」
 
保育園で働くようになって、最初に私が園長にお願いしたことがあった。
 
「一度、斎藤公子先生に会わせてください」
 
さくらさくらんぼ保育の創始者斎藤公子。
 
当時、もう斎藤公子先生は人に会うことをしなくなっていた。その理由はいろいろあるらしいが、それはわからなかった。さくらさくらんぼ保育を学びはじめて日の浅いお母さんであった私は、どうしても斎藤公子先生に会ってみたかった。この保育を作った人はいったいどんな人なのだろうか。
 
何度も何度も園長に懇願して、斎藤公子先生があってくれることになった。ある日、斎藤公子先生の住む桶川に行くことになった。何家族かがワゴン車に 乗り合わせて、高速道路をひた走って、埼玉の桶川に向かった。
 
斎藤公子先生は厳しい人だった。
でも、子どもにはどこまでも優しい人だった。その優しさは魔法のようだった。
 
桶川に着いた日に、斎藤公子さんに子どもたちの体をみてもらった。
 
さくらさくらんぼ保育の中に、ロールマットという運動がある。体育館にあるマットを3枚ほど丸めてつくった大きなロール。そのロールの上にうつ伏せになったり、仰向けになって、子どもたちの体をほぐすという運動だ。
 
斎藤公子先生の前で子どもたちひとりひとりがロールマットを披露した。斎藤公子先生は子ども用の低い椅子に座ってそれを見守った。
 
次が私の上の子の番だ。
まだ2歳の上の子。子どもはいつもと違う雰囲気に敏感だ。
上の子は大人たちの注視の中でのロールマットをやらない、とぐずりだした。私が正座しているところに逃げるようにきて、顔を伏せたまま動かなくなった。
どうしよう。親の私もどうして良いかわからずにオロオロしていると、斎藤先生の声がした。
 
「名前は何くんというの?」
やさしい声だった。
 
「◯◯といいます」
私が答えた。子どもは膝に顔を埋めたままだった。
 
「そう。〇〇くんというのね。〇〇くん」
 
斎藤先生が呼びかけると、上の子が顔を上げてそちらを見た。
 
「〇〇くん、ちょっとこちらにおいでなさい」
 
斎藤先生は静かに微笑んで手招きした。
 
不思議だった。あれほどぐずっていた子が立ち上がった。
そして1本の糸に引かれるように大人たちの注視の中をまっすぐに斎藤先生のところに歩いていったのだ。
斎藤先生は上の子の耳に何かを耳打ちした。何を言ったのかは聞こえなかった。ちいさくうなずいた上の子は自分からロールマットによじ登って、ロールマット体操をしたのだった。
 
その日の夜は、斎藤公子さんの家の1階にごろ寝で泊めてもらうことになっていた。
子どもたちを寝かしつけたあと、2階の斎藤公子さんの書斎でお母さんたちは斎藤公子さんからお話を聴く会をひらいた。
 
斎藤先生は大人には恐ろしく厳しい人だった。
 
子どもたちに食べさせていたおやつの指摘から、声かけ、すべてをよく見ていた。夜の勉強会ではそれをすべて指摘された。
 
私はどうしても斎藤先生に聞きたいことがあった。
 
「斎藤先生教えてください。斎藤先生はこの保育でどんな子どもたちに育てたいのですか?」
 
場が一瞬凍った。斎藤先生にこんなことを聞いてしまっていいのだろうか。私はまだ日が浅くて怖いもの知らずだからできた質問だったと今思う。
 
でもどうしても聞きたかった。この保育でどんな子どもたちを育てることが斎藤先生の目指すことなのだろうか。
 
斎藤先生は静かに口をひらいた。
 
「さくらさくらんぼ保育で育てば、年長になって、跳び箱の最高段を飛ぶことも、自分の雑巾を自分で縫うことも、側転をすることもできるようになります」
 
「でも私は、そういうことが出来る子にするために、この保育をしているのではありません」
 
場はしんと静まり返った。
斎藤先生はそこで言葉をきった。
 
「さくらさくらんぼ保育は、自分の力を社会の誰のために使えばいいのか、それがわかる子どもを育てています」
 
斎藤公子先生の目はまっすぐに私の目をみた。斎藤先生は続けた。
 
「そういう子どもを育てることでしか、この世の中は変わりません」
 
この16年前の斎藤公子先生の声がもう一度聞こえてきた。私はハッと気がついた。私は16年前にタイムスリップしていた。その声が消える前に、もう一度目の前の上野千鶴子さんの言葉を読んでみた。
 
「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください」
 
教育とはなんだろうか。
教育とはよりよく生きること、よりよい社会を作り出すこと。だとしたら、16年前の斎藤公子先生の言葉も、上野千鶴子さんの祝辞も、まさに教育とは何かを語っている。
 
保育園での年長さんたちの姿が目に浮かぶ。
自分が跳び箱を飛べたことよりも、飛べない子をどうやって飛べるようになるか相談している姿。小さい子たちを自分たちのことを後回しにして着替えをさせてあげている姿。
 
私達の社会はよりよい方向に向かっているだろうか。そうだと言える人は少ないのではないだろうか。
 
東大の祝辞と、そこからタイムスリップした16年前の一場面。
私達の社会が変わる鍵は、ひとりひとりの小さな一場面にこそ隠されているのだと思う。

 
 
 

❏ライタープロフィール
青木文子(あおきあやこ)

愛知県生まれ、岐阜県在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学時代は民俗学を専攻。民俗学の学びの中でフィールドワークの基礎を身に付ける。子どもを二人出産してから司法書士試験に挑戦。法学部出身でなく、下の子が0歳の時から4年の受験勉強を経て2008年司法書士試験合格。
人前で話すこと、伝えることが身上。「人が物語を語ること」の可能性を信じている。貫くテーマは「あなたの物語」。
天狼院書店ライティングゼミの受講をきっかけにライターになる。天狼院メディアグランプリ23nd season総合優勝。雑誌『READING LIFE』公認ライター、天狼院公認ライター。
 


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2019-05-20 | Posted in タイムスリップ(READING LIFE)

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