今日の隆儀は、あの時の大敗北から始まった《2020に伝えたい1964》
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
「1964年の東京オリンピック、日本選手団で旗手を務めたのは誰?」
ちょっと難しいクイズでは、定番で出てくる問いだ。答えは、水泳チームのキャプテンで、4X200mリレーの第一泳者を務めた福井誠選手だ。
当時5歳だった私の記憶では、スポーツ選手にしては、決して大柄ではない福井選手が、どの競技で出場するのか見当もついていなかった。
170cmというから福井選手は、55年前であっても水泳選手としては小柄な部類に入る。実際、閉会式では大柄な外国人選手が、日章旗を持った福井選手を軽々と担ぎ上げてしまい、往生するシーンが残されている。
3年前のリオデジャネイロ・オリンピック競泳競技で、男子4X200mリレーで銅メダルを獲得した選手に向けられたマイクで、
「松田さんを手ぶらで帰す訳にはいかない」
と、思わず笑いを誘うインタビューがあった。ご存知の通り、この発言は、リオデジャネイロの前、ロンドン・オリンピックで当の松田丈志選手本人から発せられた、
「北島(康介選手)さんを手ぶらで帰す訳にはいかない」
をパクって言われた事だからだ。
リオデジャネイロのインタビューを見た私は、とっさに、
「52年ぶりか」
と感慨にふけってしまった。
若い方々には信じられないことかも知れないが、競泳競技は、戦前では日本の“お家芸”競技だった。これまでの金メダル獲得数では、柔道・レスリング・体操に次いで4番目の獲得数だ。メダル総数では、体操・柔道に続く3位だ。どちらも上位との差はわずかで、日本発祥の柔道や個人が複数の競技にエントリー出来る体操と、肩を並べる競泳は十分に“お家芸”とするに値するものだろう。
特に1932年に開催されたロスアンゼルス・オリンピックの男子競泳では、行われたのは僅か6競技だったのに対し、日本の競泳陣は、5個の金メダルを獲得した。勝率83%超えの快挙だ。そればかりでは無い、5個の金メダルの内リレーを除いた4競技は、金・銀独占の大快挙だったのだ。
続く、ベルリン・オリンピックでは、日本女子初の金メダルとなる前畑秀子選手(「頑張れ! 前畑!!」で有名になったレース)の200m平泳があったりした。
それが、戦後になって凋落してしまった。
それは、1948年に開催されたロンドン・オリンピックに、日本はドイツ・イタリアと共に、第二次世界大戦を起こした責任を問われ招待されなかったことに起因する。
ロンドンの4年後、1952年のヘルシンキ・オリンピックに古橋・橋爪の両選手が出場したが、残念なことに両選手共全盛期は過ぎてしまっていた。何度も世界記録を更新した1,500m自由形で、橋爪選手は何とか2位に入り銀メダルを獲得した。一方の古橋選手は、病気で体調を崩していたこともあり、体力的に400m自由形にしか出場出来ず、決勝には残ったものの、最下位でレースを終えた。
NHKのラジオ中継で担当の飯田アナウンサーは涙声で、
「日本の皆さま、どうぞ、決して古橋を責めないで下さい。偉大な古橋の存在あってこそ、今日のオリンピックの盛儀があったのであります。古橋の偉大な足跡を、どうぞ皆さま、もう一度振り返ってやって下さい。そして日本のスポーツ界と言わず、日本の皆さまは暖かい気持ちを以て、古橋を迎えてやって下さい」
と訴えたという。
飯田アナウンサーの中継は、
「古橋廣之進は、世界一早いスイマーだ」
というコンセンサスが、日本中に広まっていたことの証明でもある。実際、古橋選手は、ヘルシンキ・オリンピックの日本選手団の主将を任されていた。先のコンセンサスとなるきっかけは、日本が参加出来なかった1948年のロンドン・オリンピックの1,500m自由形決勝と同時刻(日本では深夜だった)で、古橋・橋爪の両選手を泳がせたという日本選手権があったからだ。
場所は、現在アイススケートリンクに改装された、東京神宮外苑のプールだ。戦災を逃れたとはいえ、戦前に作られた古い設備のプールで、両選手はロンドン・オリンピックの金メダリストより、40秒も上回るタイムで泳ぎ切った。
後に、“フジヤマのトビウオ”という素晴らしいニックネームで呼ばれる様になることも頷けるところだ。
戦後3年しか経っていない混乱の中、その時刻の日本選手権を企画したのが、田畑政治という人物だ。田畑氏は、選手ではなく事務局としてオリンピックに関わっていた方なので、一般にはあまり知られていないかも知れない。NHKで放送中の大河ドラマ『いだてん』の中で、阿部サダヲが演じている人物といえばお分かりだろう。
田畑氏は、1898(明治31)年に現在の静岡県浜松市で生まれた。奇しくも、古橋廣之進選手と同郷だ。地元の名門中学(旧制)卒業後、東京帝国大学に進学する。水泳選手であったが、目立った活躍はなかった。大学卒業後は、朝日新聞で記者となる。記者として働く一方で、水泳の指導者としても活動し始めた。
特に、日本競泳陣がメダルを寡占した1932年のロスアンゼルス・オリンピックでは、日本競泳陣の監督を務めた。
1948年に、古橋・橋爪両選手をオリンピックと同時刻に泳がせるという発案も、田畑氏の手によるものだ。その後、田畑氏は、1952年のヘルシンキ、1956年のメルボルンと二大会続けてオリンピック日本選手団の団長を務めた。会長を務めていた連盟が、お家芸の水泳だったことから、団長の席に就いたことは十分理解出来る。
そして、東京オリンピックが開催される5年前の1959年、オリンピック東京招致の陣頭に立ち、ロビー活動を行った。特に、旧知の仲であったロスアンゼルス在住の日系人、フレッド・イサム・ワダ氏を東京招致活動に招いた人物でもある。ワダ氏こそは、南米の投票を取りまとめた(東京へ)陰の立役者だ。
何故に田畑政治氏は、オリンピックに人生を捧げたのだろう。それはなんといっても、日本におけるオリンピックの父である嘉納治五郎(かのうじごろう。『いだてん』では役所広司さんが好演)先生との関係なくしては考えられない。嘉納先生が行った、1940(昭和15)年の東京オリンピック招致活動を、間近で見ていたからだろう。だから田畑政治氏が、戦争が終わって間の無い頃から、オリンピックを再び呼ぼうとしていたのだった。田畑氏は、オリンピック祖意識委員会の事務局長も務められている。
確か、1964年10月9日のNHKテレビにも出演されていて、嘉納治五郎先生の思いを語られていたことを、当時5歳だった私でも覚えている。
残念なことに田畑政治氏は、1962年にインドネシアのジャカルタで開かれたアジア競技大会に絡む政治的な問題で、東京オリンピック組織委員会事務局長の任を辞した。責任を取った形だった。因みに、時のインドネシア大統領は、スカルノ大統領(デヴィ夫人の御主人)だった。
そんな田畑氏の心情を、知らない筈のない日本の競泳陣は、田畑氏の名誉挽歌とばかりに張り切っていたという。
戦後低迷していたとはいえ、ヘルシンキ・オリンピックでは3個の銀メダル(6種目)、メルボルン・オリンピックでは金メダル1個と4個の銀メダル(7種目)、そして、ローマ・オリンピックでは3個の銀メダルと銅メダル1個(8種目)を、日本競泳陣は獲得していた。
特に、1928年のアムステルダム・オリンピックで銀メダルを獲得し、ロスアンゼルス、ベルリンと連覇を果たした4X200mリレーは、日本の得意競技だった。
ヘルシンキ・オリンピックでも、銀メダルを獲得したリレーチームは、メルボルンでは惜しくも4位に終わったが、ローマ・オリンピックでは銀メダルに返り咲いた。国民の期待は盛り上がっていた。
戦前からの競泳ライバル国であるアメリカは勿論、ソ連(今のロシア)オーストラリアといった、体格に勝る新興国が出現してきた中では、健闘の部類に入る結果だったのだろう。これは、リレーとなると個人記録だけでは測り切れない力を出す、日本の伝統なのかもしれない。
4X200mの第一泳者で、競泳チームの主将でもあった福井誠選手が、日本の旗手に選ばれることに、何の不思議も無かった。
地元開催となる1964年の東京オリンピックでは、競泳陣に対し、否が応でも期待が高まった。現代程情報の無い当時では、日本競泳陣のメダルラッシュを待望された。特に、前回のローマで、銀メダルを獲得していたリレーチームには、特段の期待が掛かった。ローマでのタイム差などは、一般に国民は知る由も無かった。
ところが、競泳競技が始まってみると、日本選手の記録が思いの外伸びなかった。丹下健三氏設計の代々木競技場が、連日ため息に包まれた。当時、5歳だった私も、連日がっかりしたことを思い出す。
陸上競技も競泳競技も、リレーの決勝は最終日に組まれる。運動会のハイライトが、全校リレーなのと同じ様に、盛り上がることは必至だ。
前述の通り日本競泳陣は、地元開催にもかかわらず、期待外れの結果が続いていた。最終日を迎えても、金メダルはおろか、1つのメダルも獲得出来ていなかった。立派な競技場に、一本の日の丸も上がっていなかったのだ。
最後の砦となったリレーチームへの期待は、ただ事では無かっただろう。一般の国民だけでなく、この、東京オリンピック実現の立役者である田畑政治氏への恩返しの意味もあっただろう。
後年、テレビ番組のインタビューで福井誠選手は、スター前の心境を問われ、
「決勝スタート前のプレッシャーは、寿命が縮む思いだった」
と語っていた。
途轍もないプレッシャーの中、日本の男子競泳チームは何とか3位に入り、代々木競技場に唯一の日の丸を掲げた。
東京オリンピックの競泳種目で、行われたリレー種目は3種目あった。そのいずれもが、金メダルはアメリカで銀メダルはドイツ(東京大会では、東西統一チーム)だった。4X100mリレーとメドレーリレーの銅メダルは、オーストラリアチームが獲得していた。
そんな中での3位入賞は、ソ連やオーストラリアといった強豪チームを倒したことであり、お家芸復活とまでは言えないが、立派な成績であったことに代わりはない。
オリンピック組織委員会事務局長の席を離れて、一般の観客席で観戦していたであろう田畑政治氏は、東京オリンピックの約10年後の1973年、日本オリンピック委員会(JOC)に委員長として復権した。委員長は、年齢のこともあり4年で退いてしまった。
歴史、特にスポーツに於いて“もし”は禁物だが、もし、田畑政治氏が、あと3年JOC委員長を務めていたならば、1980年のモスクワ・オリンピックを日本がボイコットすることは無かったと考えるのは、私だけではあるまい。田畑氏こそは、自らの命を懸けて東京オリンピックを実現しようとした嘉納治五郎先生の、ただ一人の後継者だと思うからだ。
そして田畑氏は、昨年発行された『評伝 田畑政治: オリンピックに生涯をささげた男』の中で、
「(東京オリンピックの競泳を観ながら)このままでは、ダメだ。世界にドンドンと置いて行かれる。もっと、総力を挙げた選手育成策を取らねば」
と答えている。
そんな田畑氏の発案で、競泳だけでなく全競技にわたる選手強化策の基礎が作られた。現在、東京の西ケ丘にある“味の素ナショナルトレーニングセンター”等がそれだ。
特に競泳では、田畑氏の強化策で金メダルを取ることが出来た鈴木大地(1988年ソウル・オリンピック100m背泳ぎ金メダリスト)が、現在スポーツ庁長官を務めており、より注目されることで競泳陣が強化されている。今では日本も、世界における競泳強国に復活している。
1964年に日本選手団の旗手を務めた福井誠選手は、決勝戦のプレッシャーがたたった訳ではあるまいが、1992年に52歳の若さで嘉納先生のところへ銅メダルの報告へ行ってしまった。
もし御存命だったら、リオデジャネイロ・オリンピックで、若手選手が松田選手を手ぶらで帰すまいと奮闘した姿を、何と言って誉めて下さったことだろう。
リオデジャネイロでの松田選手達のインタビューを聞きながら、私は一人、52年前の代々木競技場に唯一掲げられた日の丸を思い出していた。
❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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