ブータンの青年が教えてくれたこと《週刊READING LIFE「タイムスリップ》
記事:武田かおる(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
ブータン王国と聞いて、あなたは何を想像するだろうか。
私にとってブータン王国は、小学校の時の地図帳で見たインドと中国の間にある小さな国だった。
20代の後半、私はイギリス留学中にあることがきっかけでブータン出身の青年と出会った。その出会いはあまりに常識から外れていて、人に話すのもはばかられるほどだった。だが、ある本との出会いで点と点が繋がり線となり、その青年の意図したことがわかってきたような気がした。
その本とは、木暮正夫著「ブータンの朝日に夢をのせて:ヒマラヤの王国で真の国際協力をとげた西岡京治の物語」だった。私は今アメリカに住んでいる。数年前に日本に帰省した際、ある待合室でたまたま本棚にあったその本に目が止まり、何気なしにその本を手にとって読んだのだった。
私はタイムスリップするように、心の奥底に忘れていたイギリス留学中に起こった出来事を思い出した。
1998年8月末、その日私は、イギリスのロンドン大学の夏期講座を終えて、秋からイギリス北部の大学院で学ぶため、ロンドン郊外からヨークシャー地方へ移動する予定だった。朝から私は荷物をスーツケースに詰めたり、部屋を片付けたりと忙しなく引っ越しの準備をしていた。
スーツケースに入り切らなかった参考書や文庫本は、ダンボール箱に詰めて郵便局から引越し先へ送ることにした。だが、書籍が入ったダンボ―ル箱は重たすぎて、一人で郵便局まで運ぶことはできなかった。貧乏学生だったためできるだけ節約したかった。だから、タクシーで段ボール箱を郵便局まで運ぶという考えは毛頭なかった。私は無い知恵を絞り、近所のスーパーのショッピングカートを拝借してダンボールを郵便局まで運ぶことにした。
既にその日の夕方に、目的地の大学がある北に向かう電車のチケットを予約していたため、私には時間の余裕がなかった。早速私は最寄のスーパーへ向かった。外のカート置き場が視界に入ると足早にそこへ向かい、1つのカートの取っ手を掴んだ。しかしその時私が目にしたものは、天井に設置されていた防犯用の監視カメラだった。
30分ほどカートを借りてすぐ返却すれば大事にならずに済むようにも思えた。しかし、もし監視カメラをリアルタイムで見ているセキュリティ担当者が私に気付けば、警察に通報され厄介なことになる。その2つの考えは私の中で葛藤を始めた。私はどうすればいいのか決められずに、その場でカートを押したり引いたりしながら明らかに挙動不審な動きを取り続けた。数分が経ったころ、誰かが私に声をかけた。
「君、日本人?」
カートを拝借しようとしてたことがバレたのかと思い、一瞬ドキッとした。声の主は男性で黒のセダンの車をカート置き場のそばに横付けしていた。男は助手席の窓を全開させて、運転席から私の方をじっと見ている。車内の奥は影になり人物像はよく見えない。
私が日本人だと応えると、その男は嬉しそうに知っている日本人の話を一方的に喋り出した。その時、日本人の事を良く思ってもらえていることに嫌な気持ちはしなかったが、見ず知らずの人の世間話を聞く程時間にも気持ちにも余裕がなく、私は話を聞いているふりをした。一通り話し終えた後、彼は続けた。
「で、君、今何をしてるの?」
カートを拝借しようとしていることを咎められたのではなかったことを知った私はとりあえず安堵した。車の男が解決案を提示してくれることは期待していなかったが、「今日はイギリス北部へ引っ越しの予定で、荷物を郵便局まで運ぶのにカートを借りたい」と今の状況を説明した。そんなに悪い人のようには思えなかったので、「このカートを借りても大丈夫だと思う?」と男に聞いてみた。すると彼からの返答は信じられない内容だった。
「僕も今からそっち方面の大学に戻る予定にしているから、ヨークシャーの大学まで乗せていってあげるよ。4時間ぐらいかかるから、今からすぐ出発しよう」
いやいや、偶然同じ方面に向かう予定だったとしても、知らない人の車に乗ってはいけないという事は3歳の子供でも知っている常識だ。だから私は速攻に断った。それでも彼は自分の車に乗るように私を促した。私は、「電車のチケットも既に購入しているから無駄になってしまう」と事情を説明したが、その男性は全く納得せず、勝手に段取りを組みはじめた。
どう考えても彼の車に乗る理由は見つからなかったので丁重に申し出を断った。こんなふうにして事件が起こるのかもしれないと、過去に海外で日本人女性が死体で発見されたいくつかの事件が頭をよぎった。
しかし彼は私に断る隙きを与えず、自分がヨークシャーまで送っていくと譲らなかった。私は何度も何度も断った。
それでも彼は引き下がらないので、私は妥協案を提示した。
「じゃあ、ダンボール箱を近くの郵便局まで運ぶのをお願いしてもいい?」
しかし、男は私の申し出に同意しなかった。どうしても私を大学のある街まで乗せていくと言うのだ。
私は断ることに疲れ果てて、半ば投げやりな気持ちで言われるがままに車に乗り、大学の寮にスーツケースなどの荷物を取りに戻った。どうしてこんな不安な気持ちになりながら見知らぬ男性に引っ越しを手伝ってもらわないといけないのか自分でもよく分からなかった。だが、強引に引っ越しを手伝うと申し出る目の前の男性が、あながち悪い人に思えなかった。浅黒い肌に真っ黒な髪のその男性は、話をする時は私を真っ直ぐに見ていた。押しは強いけれど、たちの悪いナンパ野郎のような強引さはなかった。悪い人だって最初は優しいふりをして、後で豹変することもあるだろうけれど、話せば話すほど、その青年の育ちの良さが見えた。だからといって、出会ったばかりのその人の事を100%信用していたわけではなかった。私は自分が何かに試されているような気がした。
車に乗った後も最悪の事が起きたら助手席のドアを開けて逃げようと、私の左手はドアの取っ手をしっかり握りしめていた。何かあってもパスポートと現金があればなんとかなるだろうとお金とパスポートは腹巻き状の貴重品入れに入れて体に巻き付けておいた。気がついたら日は西に傾き、予約した電車の発車時刻になっていた。予約しておいた電車のチケットはもう使えなくなった。私は腹をくくるしか無かった。
車中で彼は改めて自己紹介をしてくれた。その青年はブータン出身の医大生で、専門は心臓外科。現在イギリスの大学の医学部に留学中とのことだった。お互いの家族の話や、イギリスでの生活について話をした。彼はブータンの話をいろいろ教えてくれた。
途中、休憩がてら、ここが本当にイギリスなのかと思うような立派な仏教のお寺に止まって参拝した。その後、青年の親戚の家に立ち寄って夕食をごちそうになった。
わたしの大学のある街に到着したときには完全に日が暮れていた。青年は私の住む予定の家に荷物を運び込むところまで手伝ってくれた。最後にわかったことは、彼が誠実で善良な人だということだった。数時間前まで警戒心をむき出しにしていた自分が滑稽に思えるほどだった。
私達はその夜連絡先を交換して別れた。お世話になったブータンの青年にお礼をしたかったし、もう一度会ってみたいと思った。一度連絡を取ってみたが、お互い忙しく都合が合わず、結局お礼はできずじまいでそれ以来二人が会うことはなかった。当時SNSというものなんてなかったから、それっきりになり、私は青年の名前さえも忘れてしまった。
それから、月日が経ち、ブータンの青年の事は私の記憶の奥底に押しやられた。帰国後、留学時代のことを話してほしいと友人に言われることもあったが、出会ったばかりのブータンの青年が引っ越しを手伝ってくれた話を誰にも話す気にはなれなかった。その話をしようとすると、知らない人の車に乗るなんて無謀だと人から呆れられるだけだと思ったからだ。それに、たまたま私が出会った青年は善良な人だったけれど、見ず知らずの人の車に乗ることはどう考えても間違っているし、誰にも真似してほしくなかったからだ。
それから10年以上経ち、日本のとある場所の待合室に置いてあった本を読み、私はブータンの農業の発展に生涯を捧げた西岡京治さんの事について知ることになる。ウィキペディアによると、西岡さんは「ブータン農業の父」と呼ばれ、ブータン王国から最高に優れた人という意味の「ダショー」という称号を贈られた日本人だ。西岡さんは1999年にブータンで敗血症で亡くなるのだが、葬儀はブータンの国葬だったそうだ。ブータン王国と日本とのつながりは他にもあると思うが、生涯をブータンに捧げた西岡さんの存在はブータンの人々の心に深くきざまれたのだろうと推察した。
西岡さんがブータンで亡くなられたのは1992年で、私がブータンの青年に出会ったのは1999年。改めて考えると、私の引っ越しを手伝ってくれたブータンの青年は、自国の農業の発展のために生涯を捧げた日本人、西岡さんへのお礼として日本人の私に親切にしてくれたのではないかとしか思えなかった。最初に出会ったときに彼が話していたのは、西岡さんのブータンでの偉業についてだったのだ。私はその時余裕がなく全く彼の話を聞いていなかったし、知ろうともしなかった。それに西岡京治さんのことも知らない無知な女だった。自分が恥ずかしくなった。私の推測が正しいのかどうかは今更確認できない。しかし、私が日本人というだけで、ブータンの青年が見ず知らずの私の引っ越しを手伝う理由が他に見当たらなかった。
私はふとした時に、ブータンの青年のことを思い出すときがある。ブータンの青年にお礼はできなかったけれど、あれから十数年経った後に、ブータンで偉業を成し遂げられた西岡京治さんについての本に出会い、ブータンの青年に親切にされた理由が解明されたことは何を意味するのだろうかと。
海外に身をおいていると、自分が嫌でも日本人なのだと、良くも悪しくも自分のアイデンティティを強く感じることがある。ブータンの青年は私をピンポイントで日本人だと思って声をかけてきた。このように、自分が思う以上に日本という国を背負って生きているのだと思い知らされる。もちろん、日本に良いイメージを持っている人もいるしそうでない人もいる。けれども、私はどんな行動を取る時も日本人として恥じない行動を心がける。それは、西岡京治さんを始め、過去に偉業を残して世界の人々の記憶に残る日本人のイメージをきちんと引き継いでいく事が唯一凡人の私にできることではないかと思うからだ。
私は西岡京治さんのような偉業は何もなし遂げてはいないけれど、私と出会った世界の人が日本に対して良い印象を持ってくれて、今度は別の日本人や次の世代の日本人にもいい印象を持って接してくれたら嬉しいと思う。
昨年、ブータンの子供たちに絵本を送るプロジェクトの広告を見た。それは、英語の絵本を私が住むアメリカから日本に持ち帰り、ある機関に郵送し、そこからブータンに行く方がそれらの絵本をブータンの子供たちに届けるという内容だった。私は広告を見て迷わず数冊の絵本を日本に数冊持ち帰ることでそのプロジェクトをお手伝いすることにした。直接、ブータンの青年にお礼ができなかったことが心残りだったけれど、やっと20年たった今、ほんの僅かだけれど、お礼の気持ちをお返しすることができたような気がした。
ブータンの青年が私に親切にしてくれたように、そのときにお世話になった方に直接お礼できなくても、時間が随分経った後でも、こんな風に間接的に別の形でお礼ができた事が嬉しく思えた。
もしかしたら20年前、ブータンの青年も私の引っ越しを手伝ったときに同じように思っていたのかなと、半日を一緒に過ごした青年に思いを馳せた。
参考文献
小暮正夫著 (1996) 『ブータンの朝日に夢をのせて―ヒマラヤの王国で真の国際
協力をとげた西岡京治の物語』くもん出版
◽︎武田かおる(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
アメリカ在住。
日本を離れてから、母国語である日本語の表現の美しさや面白さを再認識する。その母国語を忘れないように、また最後まで読んでもらえる文章を書けるようになりたいという思いで、2019年8月から天狼院書店のライティング・ゼミに参加。同年12月より引き続きライターズ倶楽部にて書くことを学んでいる。
『ただ生きるという愛情表現』、『夢を語り続ける時、その先にあるもの』、2作品で天狼院メディアグランプリ1位を獲得する。
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