【文豪の心は鎌倉にあり 第1回】太宰治と鎌倉《天狼院書店 湘南ローカル企画》
記事:篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)
鎌倉は源頼朝が幕府を開いて以来、武士の町として栄えてきた古都です。貴族の文化から東北武士団の文化が結成された土地でもあり、文化的に大きな意味を持つ町でもあります。
そんな古都としての顔を持ちながら、文学の町として顔もあるのが鎌倉の魅力。明治22年に横須賀線が通って観光地・別荘地として非常に栄えて大勢の人が来るようになり、大正の終わりから昭和にかけて多くの文豪が鎌倉に居を構えています。小林秀雄、林房雄、川端康成などなど誰もが知っている作家や評論家が名を連ねているほどです。
そんな文学の町としての顔を紹介してくれるのが鎌倉文学館です。
私たちは幸運にも館長である富岡幸一郎氏に話を伺う機会ができました。文芸評論家としても第一線で活躍している富岡館長のお話は新しい鎌倉の魅力を私たちに教えてくれると思います。
■第一回(太宰治と鎌倉)
語り手:富岡幸一郎
昭和32年(1957)東京生まれ。54年、中央大学在学中に「群像」新人文学賞評論優秀作を受賞し、文芸評論を書き始める。平成2年より鎌倉市雪ノ下に在住。関東学院女子短期大学助教授を経て関東学院大学国際文化学部教授。神奈川文学振興会理事。24年4月、鎌倉文学館館長に就任。著書に『内村鑑三』(中公文庫)、『川端康成―魔界の文学』(岩波書店)、『天皇論―江藤淳と三島由紀夫』(文藝春秋)等がある。
http://kamakurabungaku.com/index.html
関東学院大学 公式Webサイト|富岡幸一郎国際文化学部比較文化学科教授
https://univ.kanto-gakuin.ac.jp/index.php/ja/profile/1547-2016-06-23-12-09-44.htmlhttp://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/teacher/comparative_culture/tomioka-koichiro/
第一回で取り上げる文豪は太宰治です。太宰は青森生まれで、三鷹や大宮に住んでいたため鎌倉と地縁はありません。その太宰を取り上げる理由は尊敬する作家・芥川龍之介にあります。太宰は、芥川が好き過ぎてノートに名前を書き連ねたり、似顔絵なんかも描いたりしています。写真に写るときも芥川と同じポーズを撮るほど心酔していました。
芥川龍之介が鎌倉に在住していたことも当然知っています。もしかしたら憧れを超えた気持ちがあったかも。そんな太宰について富岡館長から鎌倉との繋がりについてお話を伺いました。
●太宰治は心中マニア?
鎌倉文学館では平成17年に「文学都市かまくら100人」という図録を作ったんです。今、文学館の常設展示コーナーの最初のところに地図を展示していて、鎌倉ゆかりの文学者のことがわかるようにしているんですね。今から20年くらい前になりますけど、こんなところにご縁があったということで名前を出しています。
常設展示では井上ひさし展を8月23日までやっていましたが、彼も鎌倉に移り住んで多くの仕事や活動をしています。
地図には北鎌倉も掲載していて、ここには建長寺というのがあります。ちょっと面白いのが腰越の方にある小動岬に太宰治の名前があることです。どうしてかというと太宰はここで心中をしたんですね。一緒に心中したのは女給さん、今でいうホステスさんです。女性と海の中に入って心中をしました。
ところが女性の方が亡くなり、太宰は生き残ったんです。でも罪に問われませんでした。どうしてかというとお兄さんが議員やっていて偉かったんですね、そういう意味では典型的なボンボンです。自分の家とか兄貴のお陰で生き延びたところがあります。
それと太宰は鶴岡八幡宮の後ろにある山で一度首つり自殺をしようとしたんです。わざわざ鎌倉まで来て心中未遂をしたから鎌倉ゆかりの作家として名前を入れているんですね。最後は玉川上水で愛人と入水自殺ですよね。確か3回か4回心中をしています。
鎌倉は芥川龍之介が住んでましたし、芥川を尊敬していた(※)津軽の作家である太宰もこういう縁があるというところですよね。太宰は東北出身ですけど鎌倉に誉れみたいなのを持っていたと思います。
※参考資料 太宰治が芥川龍之介を好きすぎてやった恥ずかしいこと/『文豪どうかしてる逸話集』①
●歴史上初の鎌倉文士を書いたのは太宰治
太宰は二度目の結婚後に奥さんの実家がある甲府に縁があって移住をしていました。本名は津島と言います。山梨に住んでいた当時「富岳百景」という作品を書いていて、有名な「富士には月見草がよく似合う」と綴った天下茶屋が今でも残ってます。
太宰は戦後すぐ亡くなりますけど、戦前、戦中と非常に良い仕事をしていますね。段々生活も安定してきて、厳しい時代の中に自分の作品を結実させていったと思います。当時の代表作の一つに「右大臣実朝」というのがあります。
これは鎌倉幕府三代将軍だった源実朝のことを書いた小説です。実朝は将軍であったと共に「金槐和歌集」の歌人でもありました。歌人としても日本の文芸史に名前を残す人で正岡子規も非常に高い評価をしています。そういう意味では、実朝という文士は鎌倉の原点だと思いますね。
鎌倉文士というのは大正の終わりから昭和にかけて鎌倉に移住をしてきた作家や文学者たちを指す言葉です。評論家の小林秀雄、プロレタリア文学から転向した林房雄、後にノーベル文学賞を受賞した川端康成などが名を連ねています。
彼らは、当時自由な空気が抑圧されていく社会の中で侍のような気概を持って創作活動をしていたんですね。その一つが「文學界」という同人誌の創刊です。自分たちで書く場を作り上げることで文学を守ってきた。ある意味、「文學界」を刊行するために鎌倉に集まってきたんじゃないかなと思います。
その原点を太宰が書いたというのは一つの縁なんじゃないですかね。ここまで鎌倉文士の話をしてきたんですが、鎌倉に生まれて、同じ土地で亡くなったのは実朝しかいないんです。鶴岡八幡宮の大きな銀杏の木で暗殺されるまでほとんど鎌倉から出ていない。暗殺の舞台になった銀杏の木は2010年大きな台風で倒壊してしまいました。
実朝は悲劇の武将ですよね。ただ、歌は本当に素晴らしい。箱根にお参りをして
「箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよる見ゆ」
あれは箱根の参拝帰りに詠んだ歌なんです。それともう一つ
「もののふの 矢並つくろふ 籠手のうへに 霰たばしる 那須の篠原」
この歌には那須に狩りにいった描写があるんですが、那須には行ってないと思いますね。三の句からの「霰(あばれ)たばしる 那須の篠原」というのは実際に行ってないけど歌で詠んだ。そういう意味でも実は鎌倉文士の原点は実朝であり、それを太宰が書いているのは何か縁があると思います。
「右大臣実朝」の有名な一節で
「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」
というのがあります。太宰は、ちょうど戦争が高まっていく中で「右大臣実朝」を書いたんですが、滅びていくのは暗くなくてある種の明るさを持っているとという言葉を出しています。
●生まれ故郷に抱いた太宰の思い
太宰は昭和19年に「津軽」という作品を書いています。これは故郷の青森県津軽に帰郷し、取材をして書いたものです。太宰治は津軽のお金持ちの息子だったせいですごく自分の出自に負い目を持っていたんですね。社会主義の運動とかに入ろうとしたことあったくらいです。そんな思いを抱えてもう一度自分の故郷に帰っていくという背景も「津軽」に書いてありますね。
太宰は故郷に対して愛憎を抱えた思いがあるのは確かです。津軽にはアンビバレンスな思いが描かれています。津軽は小説というよりも紀行文で小山書店という小さな出版社から出しています。当時の人気作家に「新日本風土記」というタイトルで自分の故郷を書かせていたんですね。大勢の作家が書いていて稲垣太郎とかも書いていますが、その中の一人として太宰も書いているんです。日本も段々空襲がひどくなっていき、国土が焦土化していく中でそういう日本の風景というか故郷を描く作品を残すために書かせたんですね。
「津軽」は太宰の中でも出色の作品で僕は大好きです。乳母のタケと小泊(現中泊町小泊)という村でまだ戦争中だけど、東北の国民学校で運動場で太宰が再会するという良い場面が出てきます。
「このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢つてみたいひとがゐた。私はその人を、自分の母だと思つてゐるのだ。三十年ちかくも逢はないでゐるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依つて確定されたといつていいかも知れない」
こんな風に太宰は戦争中に故郷への思いを募らせる作品を書いています。戦後、「斜陽」とか「人間失格」とかを書いていくのですが、尊敬する芥川龍之介への思い(※)という意味でも鎌倉と縁がある作家ですね。
※参考資料 太宰治が芥川龍之介を好きすぎてやった恥ずかしいこと/『文豪どうかしてる逸話集』①
https://ddnavi.com/serial/575199/a/
●鎌倉文学館はゴジラにこわされていたかも?
鎌倉は本当に大勢の人が来ている観光地として有名です。海があり山があり東京から近いという条件もありますけど、文化的なところ一つ取ってもものすごく大事な土地ですね。なぜなら歴史があるのに空襲に焼かれなかったからです。実は8月に戦争が終わってなければ、由比ヶ浜から米軍がやってくるはずでした。もし相模湾から米軍が上陸していたら鎌倉は焦土化していたでしょうね。
映画「シンゴジラ」でも海からゴジラが上陸して「鎌倉文学館前」という信号を蹴倒して行きます。それから大仏や鶴岡八幡宮に行かずに朝夷奈切通(あさいなきりどおし)を歩いて、関東学院大学がある釜利谷に行って武蔵小杉で自衛隊と戦います。米軍が来ていたらシンゴジラどころじゃなかったです。幸いにして多くの文化遺産が残ってますから鎌倉市はもっと熱心に文化活動をやってくれたらいいのにと思っています。
●太宰治の生涯
・明治四十二年(1909)
六月十九日 青森県北津軽郡(現在の五所川原市)に、父源右衛門・母タ子の第十子六男として生まれました。・明治四十三年(1910)一歳
五月、近村タケが年季奉公で住み込み、太宰治の子守として6歳まで面倒を見ていました。・大正五年(1916)七歳
金木第一尋常小学校に入学。一年時から秀才の声が高く、特に意表をつく作文力で教師を驚かしていたそうです。・大正十四年(1925)十六歳
級友と同人雑誌「星座」創刊するも戯曲「虚勢」を発表するも一号限りで廃刊。後に同人雑誌『蜃気楼』創刊して編集兼発行人となり「温泉」「犠牲」「地図」などを発表します。・大正十五年(1926)十七歳
「蜃気楼」に「負けぎらひト敗北ト」「侏儒楽」「針医の圭樹」「癌」「傴僂」「将軍」「哄笑に至る」「モナコ小景」「怪談」などの作品を次々と発表。
芥川龍之介への心酔を強めたり、女中のトキに恋心を抱いたりして苦悩をした時期です。・昭和二年(1927)十八歳
青森中学を四番目の成績で卒業。官立弘前高等学校(現・弘前大学)文科甲類(英語)入学しました。
芥川龍之介の睡眠薬自殺に、大きな衝撃を受けます。また、義太夫や花柳界に興味を示し、江戸文学や文人趣味に親しむようになったのはこの頃です。
この時に後の妻となる青森市の芸者置屋の芸妓半玉・紅子(小山初代)と馴染みとなります。・昭和四年(1929)二十歳
弘前高校鈴木校長の公金無断流用が発覚し、ストライキに参加。校長排斥に成功をしました。しかし、逮捕されることを恐れて一度目の自殺未遂を図っています。
文藝活動の方は、「弘高新聞」や県内同人誌に評論や創作を発表し、プロレタリア文学を意識した「地主一代」なども執筆しています。・昭和五年(1930)二十一歳
弘前高校を四十六番目の成績で卒業し、東京帝国大学(現・東京大学)に入学。
かねてから尊敬していた井伏鱒二にはじめて会い、以後師事することとなります。小山初代と結婚しています。銀座のバー・ホリウッドの女給・田部シメ子(通称田辺あつみ)と、鎌倉七里ヶ浜小動岬で自殺を図ったのはこの年です。
・昭和六年(1931)二十二歳
妻・初代が上京して新婚生活がスタート。共産党の活動を支援するなど、当時非合法だった左翼活動にのめり込んでいきます。・昭和七年(1932)二十三歳
兄のすすめで青森検事局へ出頭し左翼活動から離脱。また、処女作「思い出」を執筆した時期です。・昭和十年(1935)二十六歳
留年を理由に仕送りが打ち切られしまい大学を除籍。都新聞社入社試験にも失敗し、単身鎌倉に行き、鎌倉山で二度目の自殺未遂を図りました。・昭和十一年(1936)二十七歳
鎮痛薬パビナール中毒になり、師・井伏鱒二の計らいで強制入院して治療を受けた年です。治療中に妻・初代が不倫をしてしまいます。・昭和十二年(1937)二十八歳
入院中に妻の不倫を知り、絶望して水上温泉で無理心中を図りますが失敗。これをきっかけに妻と離婚してしまいます。・昭和十三年(1938)二十九歳
師匠・井伏の紹介で地質学者石原初太郎の四女・石原美知子と見合いをして結婚の約束をした年です。・昭和十四年(1939)三十歳
井伏夫妻が仲人をして美知子と結婚。「女生徒」「富嶽百景」を発表。翌年には「走れメロス」も発表しており、執筆依頼が殺到した時期です。・昭和十六年(1941)三十二歳
作家・太田静子に弟子入りを懇願されて恋仲になってしまいます。また、書き下ろし長編「新ハムレット」を刊行したのはこの年です。・昭和二十年(1945)三十六歳
東京大空襲と甲府爆撃により実家の津軽へ身を寄せました。東京で執筆し始めた「お伽草紙」を完成させています。・昭和二十二年(1947)三十八歳
次女の里子(作家、津島佑子)が生まれました。しかし、三鷹駅前で山崎富栄と知り合い恋仲に落ちたり、太田静子に女子が生まれて認知状を書いたりしています。
創作活動としては「斜陽」を発表した年です。・昭和二十三年(1948)三十九歳
「人間失格」「桜桃」を発表するも山崎富栄と玉川上水に入水し、自ら命を絶ってしまいました。※参考資料
太宰ミュージアム(太宰治の生涯 略年譜)
https://dazai.or.jp/modules/know/index.php?content_id=7
(文・篁五郎、写真・山中菜摘)
□ライターズプロフィール
篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)
神奈川県綾瀬市出身。現在、神奈川県相模原市在住。
幼い頃から鎌倉や藤沢の海で海水浴をし、鶴岡八幡宮で初詣をしてきた神奈川っ子。現在も神奈川で仕事をしておりグルメ情報を中心にローカルネタを探す日々。藤沢出身のプロレスラー諏訪魔(すわま)のサイン入り色紙は宝物の一つ。
□カメラマン
山中菜摘(やまなか なつみ)
神奈川県横浜市生まれ。
天狼院書店 「湘南天狼院」店長。雑誌『READING LIFE』カメラマン。天狼院フォト部マネージャーとして様々なカメラマンに師事。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、カメラマンとしても活動中。
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