【文豪の心は鎌倉にあり 最終回】江藤淳・歴史を振り返れば現代が見える 後編《天狼院書店 湘南ローカル企画》
2022/09/19/公開
記事:篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)
《前編はこちら》
〇語り手:富岡幸一郎
昭和32年(1957)東京生まれ。54年、中央大学在学中に「群像」新人文学賞評論優秀作を受賞し、文芸評論を書き始める。平成2年より鎌倉市雪ノ下に在住。関東学院女子短期大学助教授を経て関東学院大学国際文化学部教授。神奈川文学振興会理事。24年4月、鎌倉文学館館長に就任。著書に『内村鑑三』(中公文庫)、『川端康成―魔界の文学』(岩波書店)、『天皇論―江藤淳と三島由紀夫』(文藝春秋)等がある。
鎌倉文学館HP
http://kamakurabungaku.com/index.html
関東学院大学 公式Webサイト|富岡幸一郎 国際文化学部比較文化学科教授
http://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/teacher/comparative_culture/tomioka-koichiro/
文芸評論家として昭和と平成の初期に活躍をした江藤淳も鎌倉と縁が深い人物です。戦後研究史や夏目漱石の評伝集が有名ですけど、他にも多くの著作を残しています。富岡館長も生前は江藤淳と交流があり、2020年には「天皇論 江藤淳と三島由紀夫」という本を上梓しています。今回は戦後日本で大きな足跡を残した江藤淳の鎌倉との繋がり、成し遂げた仕事、館長と江藤淳のとのエピソードなどをお伺いしてきました。
今回は最終回ということで、特別に普段は開放していない鎌倉文学館の3階でインタビューしています。こちらは後編です。(前編はこちら)
●鎌倉の行政を痛烈に批判していた江藤淳
そんな中昭和58年(1983年)、江藤淳50歳のときに小林秀雄が亡くなります。小林秀雄は戦前からの文芸評論を確立した人物です。小林秀雄の葬儀が行われたのですけど、本葬の司会を江藤淳がやっています。まさに小林秀雄の跡を継ぐという形ですよね。江藤さんも自覚があったと思うし、既に鎌倉の西御門に住んでましたから。小林秀雄を継ぐ鎌倉文士という気持ちを持っていたと思います。
昭和55年(1980年)から亡くなるまで鎌倉市の西御門というところに住んでいたのですが、移住してから『西御門雑記』(文藝春秋)というコラムを日本経済新聞に連載していました。短いのですけど鎌倉の日常生活とか鎌倉の出来事を軸に書いたものです。さっき改めて読んでみたけど面白くて、鎌倉の生活がすごく伝わってきます。鎌倉は16〜17万人くらいの人口で、そんなに大きい都市ではありません。でも歴史と文化があって今年も大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台になっています。今はコロナ禍ではありますが、毎年多くの人が観光に訪れています。そうなると鎌倉の行政は他力本願なんですね。観光客が来てお金を落としてくれるからといいやって感じで積極的な文化行政をやらないという悪しき伝統があります。
私も鎌倉文学館の館長として10年間行政と関わってきましたが、とにかく鎌倉の文化行政がひどいというのを身にしみています。私は鎌倉に住んで40年近くになりますけど、もちろんいいところも沢山あります。しかし行政に関しては問題が多々あるのを感じています。その辺りを江藤淳は市民政治みたいな視点で細かく書いていたのです。本には市会議員とのやり取りなどもあって、歯に衣着せない物言いで鎌倉の行政や文化を批判しています。これはやはり鎌倉文士の伝統的な特徴です。鶴岡八幡宮の山の開発があったとき(御谷(おやつ)騒動)に、大仏次郎達が運動を起こした。日本の自然保護の運動、ナショナルトラスト運動のさきがけですよね。正にそういった鎌倉文化人の伝統を江藤さんは個人的に引き継いで鎌倉行政にもの申してしていました。
僕も当時読んでいたけど、改めて読み返してみると「なるほどなあ」と深く納得することが多くて、鎌倉に問題があると感じています。同時に鎌倉だけではなく、戦後日本の国家とか日米関係とかに鋭い言論を展開してきました。今日、政治評論家とか国際関係の学者がいますけど、そうした人たちが束になってかかっても勝てないくらい知識と情報と洞察力をもって世界情勢を分析したり、日本とアメリカの関係を冷静に見極めたりしていたところがあると思います。一方で文壇、文芸ジャーナリズムでもたびたび論争をしています。昭和59年(1984年)に日本ペンクラブが国際ペン大会を日本で開催した時に、反核声明を出したのです。ペンクラブは、中立的な存在なのに反核という政治的に偏りを見せた格好になります。江藤さんはこの出来事を「ペンの政治化」と文章を書いて日本ペンクラブの行動を批判しました。これも一連の占領研究、言論空間の研究から導き出されました。今の日本の言論はどこが歪んでいるのかを積極的に語っていったところがあります。
●三島由紀夫の自殺について小林秀雄と議論
もう一つは昭和天皇が崩御された昭和64年に、私が昭和天皇と戦後の言論空間という内容で江藤さんに3時間くらいインタビューしました。これが後に『離脱と回帰と 昭和の時空間』(日本文芸社)というタイトルで出版されています。それから一昨年出した『天皇論 江藤淳と三島由紀夫』という本を文藝春秋から出しました。この本は江藤さんへのインタビューを再読し、展開しながら昭和と平成の世を考えてみようという評論集です。江藤淳は率直に昭和という時代を回想していきます。私は昭和32年生まれで、江藤さんは父親と息子くらいの年齢差ですけど非常に率直に色々な議論をしました。江藤淳邸でやったのですけど、色々な話を聞くことができました。戦後は言葉が奪われ、文化が奪われ、歴史とは何かというのを発信していたし、天皇制そのものの考え方も議論しました。
江藤さんは昭和天皇に対して深い敬意を持っていました。やっぱり自分は昭和の子であるという意識を強くお持ちであったようです。そういう点では天皇制に関しては教条的な天皇論ではなかったですね。例えば、昭和天皇の崩御で大嘗祭が行われて、平成の陛下が皇位に就かれます。江藤さんは長い間行われてきた重要な儀式であるから滞りなく行われるべきだけど、あまり大嘗祭にこだわっているのもどうだろうかと率直に言っていました。この辺りが、江藤淳は近代的な知識人としての眼差しを持っているという私個人の印象です。江藤さんは日本の近代も批判していますけど、やっぱり一つの合理と理性に基づいた政治判断や文化論をしてきた人物ですね。
もう一つインタビューで重要だったのが三島由紀夫についてです。江藤さんは三島文学の深い理解者でした。でも、三島が自決したとき憲法改正を訴えた自裁に関して否定的でした。これは小林秀雄と対談したときに言っています。
対談では小林秀雄が、三島の心情を汲んで「あの時の三島由紀夫は日本人の心情を持っていたんだ」と吉田松陰や大塩平八郎と比較しました。それに対して江藤淳は非常に批判的に「いや、三島由紀夫には早い老いが訪れたのではないか。三島は焦ったのではないか」と一方的に批判的な言葉を並べました。それに対して小林秀雄は「そうではない」と三島を擁護したんです。当時37歳の江藤は三島由紀夫の自裁に対してすごく否定的でした。それが昭和天皇の崩御の後に、インタビューしたら三島由紀夫のことを非常に深く考えるようになったと言っていましたね。三島由紀夫の死は自分にとって大きな課題なんだとも言っていました。あれから数十年経ったからか、江藤さんも自分で占領史研究を始めたからかわかりませんが、戦後が長くなってきている中で三島由紀夫の捉え直しをしていると感じました。それがインタビューをしたときの強い印象です。今でもよく覚えています。
●富岡館長は江藤淳邸の新年会にお呼ばれされていた
もう少し江藤さんとの関わりをお話しますと、私はまだ東京にいましたけど、江藤淳は正月の7日くらいに毎年鎌倉の自宅で新年会をやっていたんです。編集者や新聞記者、作家を呼んでいて、私もある時期からお呼ばれされるようになりました。昭和64年は昭和天皇が崩御されたので中止でしたけど、その後、私が鎌倉に移ってからは毎年新年会にお邪魔していました。一時期は若い評論家がたくさん来ていて、河出書房から江藤淳の自薦の著作集を出した時は絓秀実、笠井潔、三浦雅士、川村湊などが来ていました。河出書房から出した著作集は結構豪華な装丁でしたね。そういう評論家達を新年会に呼んでいてワイワイとやってました。江藤さんのお宅はかなり広いスペースがあったんですけど、人が多く来すぎて自分の書斎まで開放していたくらいです。書斎は畳の部屋で座り机なんです。そんなに広くなくて、僕ら若い評論家は車座になって料理とかお酒を持ってきて勝手に宴会やってました(笑い)。
江藤さんはエッセイも書いているのですけど、犬が好きで何匹も飼っていました。みんな小さいんですよ。それで宴会していたら犬が来たんです。犬に鳥の骨を食べさせたらダメなんですけど、渡部直己という早稲田大学の教授で文芸評論家が骨付きの唐揚げを食べさせていたの(笑い)。そしたら江藤淳の奥さんがきて「ダメです」と言ったのね。そしたら渡辺さんが「いいじゃないか!食え」なんて言って犬にから揚げ食わせてた(笑い)。
そんな場に猪瀬直樹さんがたまたま来ていたことがあったんです。確か『ミカドの肖像』(小学館文庫)という本を書いていた頃かな。猪瀬さんはノンフィクション作家で世に出たくらいだからすごく生意気で。こっちも生意気だったんだけど(笑い)、猪瀬さんが車座の中に入ってきて「文芸評論家の諸君はもっと週刊誌でも何でも書かなきゃ」なんて言ったの。「なんだ?この野郎」と思って「あんた何言っているの?」みたいに文句言って論争になった(笑い)。江藤淳の新年会にはそんな議論できる空気がありました。
●江藤淳が自殺したとき鎌倉は豪雨だった
平成10年(1998年)の暮れに奥さんがガンで亡くなり、翌年に江藤淳が自殺しました。江藤さんが自宅の浴室で手首を切って自殺したのですけど、その前に『妻と私』(文藝春秋)という本を出しています。この本は文藝春秋に奥さんが亡くなった後に書いたものです。
江藤さんが亡くなったと聞いたとき、私はすごく衝撃を受けました。今でもその日のことをよく覚えています。その日は鎌倉にいたんです。私は江藤さんのお宅がある西御門からさほど離れていない雪ノ下に今でも住んでいます。あの日、ものすごい低気圧がきて普通でもびっくりするくらいの気圧の変化があったのか夕方に雷雨というか豪雨が降ってきたんです。江藤さんは夕方に自殺をしたので、そういうのも影響したのかなとある人が言っていました。でも、当時江藤さんは文学界に『幼年時代』(文藝春秋)という連載をしていて、原稿を昼間編集者に渡していたんです。だから発作的に死を選んだわけじゃない。遺書もありましたから突然死を選んだんじゃないけど、天候とかも影響したと思います。原稿用紙に遺書がしたためられています。
「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる故なり。請う諸君よ、これを諒とせられよ」
これははっきりした遺書です。ただ、やっぱりあの日が豪雨じゃなければ意思は変わっていたかもしれないという人もいます。私は意思は変わらなかったと思っています。奥さまの死もあるのですけど、遺書にあるように脳梗塞になったのが大きかったんじゃないかな。平成11年の6月に発作が出て、7月8日に退院して、7月21日に自殺しているんです。奥さまの死も影響はあったと思うけど、『妻と私』という著書に残しているので気持ちの整理はついているんじゃないかな。だから私は脳梗塞によって自分自身が不自由になったののが大きいと感じています。人の死の選択は難しいので断言できませんが、私は非常に衝撃を受けました。江藤さんの人生観とか思いがあったのは確かだし、さっきお宅での話をしたのは一つの伏線で、奥さまが非常にサポートしていたのは確かです。母親の代わりというのはわかりませんけど内助の功を発揮していました。
●晩年に行った「南州残影」は現代批評にも通じる
そういう晩年の江藤淳を考える上でいくつかの仕事があります。一つは平成に入ってから日本の政治は漂流しました。正に冷戦の崩壊と日本の政治の漂流は対になっていて、江藤さんが『保守とは何か』(文藝春秋)という著書で日本の政治へ危機を鳴らしていました。もう一つは最晩年の仕事として『南州残影』(文藝春秋)という本を書き上げました。南州とはもちろん西郷隆盛です。江藤淳はかつて勝海舟を政治家として高い評価をしていて、『海舟余波 わが読史余滴』(文藝春秋)という本を書いています。勝の政治的、人間的に優れた面を高く評価しており、どちらかというと西郷隆盛を書くというのは考えられませんでした。
きっかけは平成6年(1994年)の夏に『文学界』の編集長だった寺田英視が鎌倉の自宅にやってきて「是非西郷隆盛を書いてください」と依頼されたそうです。江藤さんは思わず「私がどうして西郷隆盛を?」と聞いたけど、自分はかつて30代半ばで勝海舟について文学界で連載をしていた。あの頃は勝海舟、今は西郷南州かと自問自答したそうです。そうして考えていくうちに納得がいったような気持ちになって寺田編集長の依頼を引き受けることにしたと書いています。当時は夏目漱石の評伝の続編を新潮で連載していたけど、もう一つ連載を始めることになり、西郷を書くことになりました。焦点を当てたのは西南戦争です。どうして明治10年(1877年)に西郷隆盛は明治政府に宣戦布告をしたのか? あれは単なる士族の反乱ではなく、明治政府のあり方に対する問いを西郷隆盛が自ら軍を率いて明治の政治のあり方を問うたのだとし、そういう意味での西南戦争だと書いています。西郷隆盛が私学校の集団を代弁したのもあるけど、それは反乱ではなく第二明治維新というのかわからないけど、
「拙者の議、今般政府へ政府へ尋問のかどこれあり」
このような言葉を熊本の鎮台に送っているんです。尋問という言葉を使っているんですね。しかも名前が「陸軍大将 西郷隆盛」と記されている。西郷隆盛は明治維新のとき陸軍大将で、維新を成し遂げた中心人物です。徳川幕府を倒した明治維新最高の功労者であり、陸軍大将が西郷です。その名前でもう一度今の政府に尋問したいと言っているのが熊本の鎮台に送った決起書なんです。そういう意味では単なる士族の反乱ではない。
これでいいのか?
明治以降10年、西洋化一辺倒の明治政府は「西洋化しないと日本は近代国家になれないから、いち早く西洋化するべき」と改革を進めてきた。ただ、そのやり方を西郷は大きな疑問に思っていた。それが西南戦争に凝縮されている。これは現代まで通じる問題だし、戦前の日本は西洋の象徴である米英と戦ったわけです。戦争に敗れた後は、アメリカという西洋近代をひたすら受け入れてきた。
これでいいのか?
さっきの一連の占領史研究もそうなんですけど、戦後70年経って、戦後50年60年経ってきた中で、江藤淳に疑問が生まれてきたわけです。それが明治10年の西南戦争の出発点になっているという思いがありました。そういう思いで『西郷南州』という本を書いたのです。
この評論は江藤さんの代表作とはいえないし、それほど厚い本でもない。西郷隆盛については様々な本で語られているし、江藤さんの評論も新しい知見が見当たらない。そういう意味では代表作とはいえません。むしろ『作家は行動する』(講談社)『成熟と喪失』(河出書房新社)『小林秀雄』(講談社)や占領史研究が主要な仕事だと思います。ただ、『西郷南州』を最後のメッセージと見るなら非常に意味があると思っています。
「西郷南州は思想である。この国で最も強固な思想である」ということを帯で書いています。だから今、近代日本に対峙する大きな像だと。こういう仕事を最後にしたのは結構大きな意味があると思います。
●文学者・江藤淳を見直す時期に入った
江藤さんが亡くなって20年以上経っていますけど、改めてその仕事全体を十分再検討する時期に入っているし、江藤淳についての評伝も書かれてます。文庫本でも江藤さんの著書が結構な数出ているんです。ただ、どちらかというと江藤さんは占領史研究が語り継がれているけど、もう少し広い観点で江藤淳が残した文学の仕事を再評価して欲しいですね。
政治と文学の両方を考えるときに文学者・江藤淳の仕事を考えないと彼が政治に対してどのようなスタンスで言論を発表したのかがわかりません。その辺を間違えてはいけないと思います。随筆集も見事というかわかりやすい。没後10年のときに「SAPIO」という雑誌で江藤淳の特集をしました。当時は2009年だったのでもう10年以上経ちますけど、その仕事全体像を再検討して欲しいですね。
恐らく、今日本が置かれている状況を考えるときに残された江藤淳の言葉は意味を持つと思います。
『日本よ、滅びるのか』(文藝春秋)というストレートなタイトルのエッセイ集があります。この間、読み直していたら「なるほど、今の日本にも通じる」と感じました。帯に「人が滅ぶが如く国も滅ぶ。それはいつでも起こり得る」とあったのですけど、安倍首相が凶弾に倒れて人が滅びる。だけど国の危機というのを感じますね。『日本よ滅びるのか』は1994年なので平成最初に刊行されました。当時は宮澤、細川、羽田と首相がコロコロ変わった頃ですけど、今は当時よりも国の危機が迫っているかもしれません。
今回は鎌倉文士の最後として江藤淳を語りましたが、江藤さんのお宅はそのまま残っていると思います。江藤さんは後期鎌倉文士を代表する文学者だったでしょう。
(終わり)
〇江藤淳の足跡
1932年(昭和7年)銀行員江頭隆、廣子の長男として東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の東京都新宿区)に生まれる。
1937年(昭和12年)4歳半の時、母を結核で失う。
1942年(昭和17年)神奈川県鎌倉市の鎌倉第一国民学校に転校。
1948年(昭和23年)旧制の東京都立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転校。
1953年(昭和28年)東京大学文科二類(現在の文科三類に相当)を受験して失敗、慶應義塾大学文学部(教養課程)へ進学。
1955年(昭和30年)当時の編集長だった山川方夫の依頼で『三田文学』に「夏目漱石論」を発表。この時から江藤淳を名乗る。
1957年(昭和32年)3月 慶應義塾大学文学部文学科(英米文学専攻)を卒業。同年4月、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に進む。
1958年(昭和33年)大学院生でありながら文芸誌に評論を執筆し原稿料を稼いでいたことが教授会から問題視され、退学を勧告される
1959年(昭和34年)1月 講談社から『作家は行動する』を上梓。同年3月、退学届けを提出し、正式に大学院を中退。
1962年(昭和37年)渡米(ロックフェラー財団の研究員として)。
1963年(昭和38年)プリンストン大学で客員助教授として日本文学史を講義する。
1964年(昭和39年)アメリカから帰国。帰国後、愛国者にして天皇崇拝者の相貌を帯び始める。
1970年(昭和45年)38歳の時の著作、漱石とその時代(1-2巻) で菊池寛賞、野間文芸賞を受賞。
1971年(昭和46年)東京工業大学助教授に就任し、のちに同大の教授となる。『勝海舟全集』の編纂に携わる。
1979年(昭和54年)47歳で再度夫婦で国際交流基金派遣研究員として渡米。ワシントンのウィルソン・センターで米軍占領下の検閲事情を調査。この時にアマースト大学の史学教授レイ・ムーアより、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program、WGIP)とされる文書のコピーを提供されたという。
1980年(昭和55年)アメリカより帰国。
1982年(昭和57年)鎌倉市西御門に転居。
1990年(平成2年)東工大を辞職。慶応大学法学部客員教授に就任。
1992年(平成4年)慶應義塾大学環境学部教授に就任。
1994年(平成6年)日本文芸家協会理事長となる。
1997年(平成9年)定年まで1年残して慶応大学教授を辞職し大正大学大学院教授となる。
1998年(平成10年)妻慶子入院11月逝去。
1999年(平成11年)7月21日に自宅で自ら命を絶つ。享年67歳。
□ライターズプロフィール
DANPEI(READING LIFE編集部公認ライター兼雑誌「READING LIFE」公認フォトグラファー)
心に残る景色を求めてどこまでも旅するライター兼フォトグラファー。
湘南天狼院のオープン以降、多いと月3回湘南・鎌倉に通う生活を続けてすっかり湘南・鎌倉エリアの魅力に取り憑かれる。休日の夕方、湘南でやたらとデカいレンズのカメラで写真を撮っている人がいたら僕かもしれません。
風景・ポートレートを主軸にフード、小物等幅広く撮影。雑誌READING LIFE VOL.3に写真掲載。
□カメラマンプロフィール
山中菜摘(やまなか なつみ)
神奈川県横浜市生まれ。
天狼院書店スタッフ、店長として勤務をしながら様々なカメラマンに師事を受けて、プロとして独立。現在は山口県山口市にあるKDDI維新ホール(https://ishinhall.com/ )の施設管理を行う傍ら、人物、建物、食べ物、イベントなどを撮影している。
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