穏やかな人ほど、静かな境界線を持っている
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:雨宮さよ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
人は、「どうしても許せないこと」に触れた瞬間、急に言葉が強くなる。
ここ十数年で、誰もが全世界に向けて、自分の意見を発信できる環境が整ったように思う。特にSNSやネットなどのデジタル空間では、24時間365日、誰かの言葉が流れ続けている。
個人の感想もあれば、企業の広告もある。役に立つ情報もあれば、怒りや不満もある。先日、何気なくそれらを眺めていたとき、少し気になることがあった。
芸能人でも、政治家でも、知らない誰かでも、人は自分の「どうしても許せないこと」に触れた瞬間、驚くほど迷いなく言葉を強くする。そして、それを全世界へ向けて発信する。
いまは、それが当たり前の風景になった。
そのことに気づいたとき、私が興味を感じたのは、許せない対象そのものではなく、「どうしても」という言葉のほうだった。
この言葉は、日常の中でも意外とよく使われている。どうしても会いたい。どうしても行きたい。どうしても伝えたい。
2026年冬のオリンピックのNHKテーマソングも、back numberの「どうしてもどうしても」という曲だった。タイトルに「どうしても」という言葉が重ねられていることも、印象に残った。
なぜ人は、「どうしても」という言葉を使うのだろう。どんなときに、思わず口にしてしまうのだろう。
少し考えてみて、これは単なる願望より、もっと優先順位の高い感情なのだと気づいた。「できたらやる」ではない。「できれば」でもない。「どうしても」には、理屈を超えた強い意思がある。
そう考えたとき、「どうしても許せない」と感じる瞬間には、その人が人生の中で、何を大切に守っているのかが表れているのかもと思った。
これが許せない。あれも嫌い。こういう人は苦手。そんなふうに並べることは、たぶん簡単だろう。実際、私の頭の中にもすぐにいくつも浮かんだ。
頼んでもいないのにアドバイスをしてくる人。メリットとデメリットだけで人を判断する人。フィードバックのつもりで、相手を雑に扱う人。
仕事の場でも、日常でも、そういう違和感を覚えることはある。私の場合、人が作った空間や時間に対して敬意を払わない態度に、強く反応するようだ。
オンライン会議をしていても、相手が完全に別のことをしながら話している気配がすると、かなり気になる。こちらが何かを伝えようとしている時間を、「ながら」で受け取られることに、どこか雑さを感じてしまう。
たぶん、相手に悪気はないのだと思う。忙しいのだろうし、同時に複数のことを回しているのかもしれない。実際、私自身もそういうときはあるから、何ともバツが悪いのだが。
だから、これは「どうしても許せない」というより、自分もそういう場面があるだけに、何とも居心地が悪い感覚なのだと思う。
もちろん、みんな忙しい。現代人はマルチタスクで生きている。だから、ある程度は仕方ないとも思う。それでもなお、「いま、この時間を一緒に作っている」感覚が薄い場面に出会うと、私はかなり削られる。たぶん私は、「情報交換」だけをしたいわけではないのだと思う。
人と何かをやり取りするとき、その場の空気や集中や熱量みたいなものも含めて受け取っている。だから、そこを雑に扱われると、「話の内容」以上に、何か大事なものが崩れる感覚があるのだ。
そして、その感覚をもう少し掘っていくと、私は、人が大切にしている感覚を雑に扱われることに、怒りや怖さを感じたりするのだった。
ここでいう「大切にしている感覚」とは、「政治思想」や「人生論」みたいな大きな話ではない。もっと小さいもの。個人的で、説明しにくいもの。でも、たしかにその人を作っているものだ。
人との距離感。言葉の扱い方。敬意。空気。優先順位。そういう、一見すると曖昧で説明しにくいものだ。
私は昔から、穏やかそうに見られることが多かった。実際、正面きって怒鳴るタイプでもないし、目の前で感情を爆発させるほうでもない。
どちらかというと、人の話は最後まで聞くし、「まあ、そういう考え方もあるよね」と言うことも多い。調停役に回ることも多かった。だから、何でも受け入れてくれそうに見えるのかもしれない。
でも実際には、私は「受け入れること」と「境界線がないこと」は別だと思っている。若い頃は、その違いが自分でもよく分かっていなかった。特に恋愛では、この区別ができずに苦労した。
嫌だと感じても、その場の空気を悪くしたくなくて笑ってしまう。少し無理をしてでも相手に合わせる。頼まれると断れない。そういうことが何度もあった。
その頃は、「大人になる」ということは、我慢できるようになることだと思っていたのかもしれない。
でも実際には、我慢を重ねれば重ねるほど、自分が何を大切にしているのかが分からなくなっていった。そして、何かが少しずつ削られていくような感覚だけが残った。
だから今は、昔より少しだけ、自分の違和感を丁寧に扱うようになった。もちろん、全部を言葉にするわけではない。その場で説明しないことも多い。ただ、「この人とは距離感が違うのだな」と静かに理解する。そして少しずつ距離を取る。
以前の私は、「分かり合うこと」に期待しすぎていた気がする。今は、無理に全部を共有しなくてもいいと思っている。
ときどき、価値観は説明より先に、空気として伝わる。だから私は、人の言葉だけではなく、その人が何を雑に扱い、何を丁寧に守ろうとしているのかという行動そのものを見てしまうのだと思う。
だからといって、納得できないすべてを拒絶して生きるわけにはいかない。社会は、自分と違う価値観の人たちでできている。
実際、仕事をしていれば、「自分とは合わないな」と感じる人とも関わることもある。私は遺品整理をはじめとする家財整理の仕事をしているので、特にそう感じることがあるのかもしれない。
家族との距離感。お金の感覚。物への執着。親への思い。兄弟姉妹の間のすれ違い。同じ家の中にある物でも、何に反応するかは人によってまったく違う。
ある人は、古いアルバムを前にして急に言葉が少なくなる。ある人は、着物を包むたとう紙を開いた瞬間に、母親の若い頃の姿を思い出す。別の人は、食器棚の奥にしまわれた湯呑みを見て、「これは毎日使っていたものだから」と手放せなくなる。
一方で、こちらが「大切なものかもしれない」と思って確認したものに、ほとんど反応しない人もいる。高価そうな品物だから大切とは限らない。新品に近いから残したいとも限らない。逆に、古びた箱や、使い込まれた道具や、何の価値もなさそうに見える紙切れのようなものに、その人の時間が残っていることもある。
現場で印象的だったのは、あるご家族が、何十年も使っていない古い鍋を前に、急に手を止めたことだった。
こちらから見ると、かなり傷んでいたし、実用品としての役目は終わっているように見えた。でも、その方はしばらく鍋を見つめたあと、「これ、母が毎年お正月に使ってた鍋なんです」と小さな声で言った。
たぶん、鍋そのものを残したかったわけではないのだと思う。でも、その鍋を見た瞬間に、その家の台所の空気や、年末年始の慌ただしさや、家族の記憶が一気によみがえったのかもしれない。
逆に、周囲が「これは絶対残しますよね」と思っていた高価な家具やブランド品が、あっさり「もう大丈夫です」と手放されることもある。何に反応するかは、本当に人によって違う。
この仕事をしていると、「何を大切にするか」は外側からは本当に分からないのだと何度も思う。
だから、私は現場で簡単に決めつけないようにしている。もちろん、作業には時間も段取りもある。いつまでも一つひとつに立ち止まっているわけにはいかない。それでも、ご家族が反応するものには、その人なりの理由がある。
それは、説明できる理由とは限らない。言葉にすれば、ただ「なんとなく」かもしれない。でも、その「なんとなく」の中に、長い時間と想いが入っていることがある。
私が現場で見てきたのは、物の量だけではない。人が何を残したいと思うのか、何を見たくないと思うのか、何に迷い、何に安心するのか。そこには、その人らしさがそのまま出る。
だから私は、「どうしても許せない」という感情にも、少し似たものがあると思うようになったのかもしれない。
人から見れば些細なことでも、本人にとってはそこに触れられると苦しくなる場所がある。逆に、周りが大ごとだと思うことでも、本人にとってはそれほど重要ではないこともある。同じ出来事でも、誰かにとっては流せることで、別の誰かにとっては深く傷つくことがある。
それは、その人が弱いからでも、面倒くさいからでもない。たぶん、その人が何を守って生きてきたかが違うのだと思う。
私自身も、そこをあまり上手に扱えていなかった。自分の中に強い違和感が出ると、すぐに「この人は合わない」と決めてしまうこともあった。相手の言葉の奥にある事情を考えるより先に、自分の感情と反応の強さに引っ張られていたのだと思う。
今でも、完全にできているわけではない。ただ、少しだけ変わったことがある。
誰かの言葉や態度に強く反応したとき、すぐに相手を責める前に、「私はいま何を守ろうとしているのだろう」と考えるようになった。
この人の言い方や言葉の使い方が嫌なのか。大切にしているものを軽く扱われた気がしたのか。自分の時間を雑に扱われたように感じたのか。それとも、過去のどこかで似たような場面があったから、必要以上に反応しているのか。
そうやって一度、自分の側に問いを戻す。
それでも、やっぱり嫌なものは嫌だと思うこともある。距離を取ったほうがいい関係もある。無理に受け入れることが大人だとは、今は思っていない。
ただ、「許せない」と感じた瞬間に、すぐ原因を相手に求めると、自分が何を大切にしているのかが見えなくなる。
本当は、相手や行動を裁きたいのではなく、自分の中の大切なものを守りたいだけなのかもしれない。
「どうしても許せないこと」は、外に向けた怒りであると同時に、自分の内側を知る手がかりでもある。
そう考えると、「許せない」という感情は、必ずしも悪ではない気がしてくる。最近は、「許せない」という言葉自体が、少し悪者扱いされる空気もある。寛容であること。多様性を受け入れること。違いを認めること。もちろん、それは大切だと思う。
でも、その一方で、「何でも受け入れられる人」が理想のようになりすぎると、人は自分の輪郭を失っていくのではないかとも感じる。
本当に優しい人ほど、実は静かで明確な境界線を持っている。私はそんな気がしている。
そして、その境界線は、怒鳴ったり攻撃したりする形ではなく、静かに引かれていることが多い。だから、ある日突然、距離を置かれたように感じることがある。
こちらとしては、「え、そんなことで?」と思う。でも相手にとっては、「そんなこと」ではなかった。そこには、その人が長い時間をかけて守ってきた感覚や、痛みや、優先順位があったのだと思う。
ここへきて、「理解されること」と「同意されること」を混同していた頃の自分を思い出す。そんな時期もあった。
でも今は、同意までは必要ないのかもしれないと思っている。ただ、「この人はこういう感覚を大切にして生きているんだな」と受け取ってもらえたとわかるだけで、人は少し楽になるからだ。
逆に言うと、受け取られずに踏み込まれると、かなり傷つく。たとえば、こちらが大切にしている空気感を、「効率悪いよね」と一言で片づけられる。慎重に考えていることを、「気にしすぎ」と笑われる。静かに積み上げてきたものを、「意味あるの?」と軽く扱われる。
たぶん私は、そういう瞬間に強く反応する。でも最近は、その反応自体を否定しなくなった。以前は、「こんなことで嫌になるなんて、自分が狭いのかな」と思っていた。でも違う。
「どうしても許せない」は、その人の優先順位を映している。
だから、私は人を見るとき、「何を言っているか」だけではなく、「何に強く反応するのか」を見るようになった。怒り方。距離の取り方。譲れない部分。そこに、その人の感覚が出る気がしている。
もちろん、私自身も未熟だ。思い込みもあるし、偏りもある。だから、自分の「許せない」が、単なる防衛反応なのか、それとも本当に大切にしたい感覚なのかを、なるべく見極めようとはしている。
ただ、それでも思う。人は、何も守らずには生きられない。
だからこそ、本当に必要なのは、「全部わかり合うこと」ではなく、「この人は、こういうものを大切にしているんだな」と受け取ることなのかもしれない。
そうやって考えるようになってから、私は以前より、人を静かに観察するようになった。
この人は、何を雑に扱うのだろう。この人は、何を丁寧に守ろうとするのだろう。どんな言葉に反応するのか。どんな場面で沈黙するのか。
人は、自分が最優先に守っているものに、必ず反応する。
そして寛容と思われる人ほど、自分に対してどんな感覚で人と関わっているのかを、いつも静かに観察しているのだと思う。
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